後漢書卷三十四 百官志第二十四 百官一

  • 梁の劉昭が補い注を加えた志である。漢の初め、秦の制度をほぼ踏襲したが、景帝が呉楚七国の乱を機に諸侯王の権を削り、武帝がさらに改変を重ねた結果、支出がかさみ民が窮乏した。世祖(光武帝)は中興にあたって節約を旨とし、官を省き職費を減らした。
  • 劉昭は、新汲令王隆の『漢官篇』や班固の『百官公卿表』を踏まえつつ、世祖の節約後の制度を常憲とすべく百官志を編んだと述べる。王隆の著作の経緯(越騎校尉劉千秋・樊長孫・張平子らのやり取り)を注で紹介するが、要旨は「旧来の官制が散逸しないよう記録を整えるべきだ」という主張であった。

太傅

  • 上公一人。掌は「善を以て導く、常職なし」。世祖は卓茂を太傅としたが、卓茂の薨去とともに官を省いた。以後は帝の即位ごとに置き、録尚書事を兼ねさせ、薨去のたびに省いた。
  • 注:霊帝の初め陳蕃を太傅とし、陳蕃誅殺後は胡広が代わった(太傅が複数人置かれた例)。董卓は長安で自ら太師と称し、位を太傅の上に置いた。平帝元年には孔光が太傅から進んで太師となった故事も引く。
  • 属官:長史一人(千石)。掾属二十四人・令史御属二十二人(漢制)。晋の荀綽『百官表』注によれば、漢の太傅は掾属十人・御属一人・令史十二人を置き、長史を置く点が晋制と異なる。

太尉

  • 公一人。注では「尉」の語義(応劭説)、太尉が舜の官である「作宰璇衡」に当たるか否かの考証(鄭玄・束皙・臣昭らの異説)を長く記す。要は、太尉を虞舜の官職に直結させる説は誤りとする劉昭の見解。
  • 本注:四方の兵事を掌り、年末に功課の殿最を奏し賞罰を行う。郊祀では亜献を掌り、大喪では諡を南郊に告げる。国に大造・大疑があれば司徒・司空と共に論じ、過事があれば二公と共に諫争する。
  • 世祖即位時は大司馬と称した(武帝が元狩六年に太尉を廃し司馬を置いた故事に由来)。建武二十七年、太尉に改称。
  • 注:太尉府の造営をめぐる逸話(明帝が太尉府の粗末さを嘆き「椎牛縦酒、乞児を宰と為さしむる勿かれ」と言い、趙熹が改修を上奏した話)を載せる。劉虞が大司馬として太尉と並置された例にも触れる。
  • 属官:長史一人(千石、盧植の注では周の小宰に相当)。掾属二十四人。西曹は府史の任用、東曹は二千石長吏の遷除・軍吏を、戸曹は民戸・祭祀・農桑を、奏曹は奏議を、辞曹は訴訟を、法曹は郵駅の科程を、尉曹は卒徒の転運を、賊曹は盗賊を、決曹は罪法を、兵曹は兵事を、金曹は貨幣塩鉄を、倉曹は倉穀を、黄閣主簿は衆事の記録を、それぞれ掌る。
  • 注:応劭『漢官儀』が伝える、光武帝の四科取士の詔(徳行高妙・学通行脩・明法令・剛毅多略の四科)を要約して載せる。河堤謁者・黎陽謁者の由来(世祖が幽并の兵騎で天下を定めた縁で黎陽に営を置いた話)も記す。
  • 令史・御属二十三人。閤下令史は威儀を、記室令史は上表・報書を、門令史は府門を、その他の令史は各曹の文書を掌る。

司徒

  • 公一人(孔安国注:「徒衆を主り礼義を以て教える」)。本注:人民の教化(孝悌遜順謙儉養生送死)を掌り、その制度を議し度を建てる。四方の民事の功課を年末に奏し賞罰を行う。郊祀では省牲視濯を、大喪では梓宮の奉安を掌る。国の大疑大事は太尉と同じく関与する。
  • 世祖即位時は大司徒と称した(王莽が周制に倣い大司馬・大司徒・大司空の号を定めた故事による)。建武二十七年「大」の字を除く。
  • 注:司徒府が蒼龍闕に対する形で置かれ、天子が大議のたびに親幸し州郡の挙謡言(吏の善悪を上奏させる制度)を行った様子、哀帝元寿二年の丞相府の詔(郡国守長に対し民の疾苦を問う訓辞)の要旨を記す。献帝の初め董卓が太尉から相国に進み司徒が省かれた例、建安末に曹操が丞相、郗慮が御史大夫となり三公官が廃された例も載せる。
  • 属官:長史一人(千石)。掾属三十一人(『漢官目録』では三十人)。令史・御属三十六人。世祖は武帝の故事に倣い司直を置き丞相府に属させ、諸州の督録を助けさせたが、建武十八年に省いた(献帝建安八年に司直を復置、九年に司隷校尉と同格とした経緯も注に記す)。

司空

  • 公一人(馬融注:「城郭の営みを掌り、土を司って民を居らしめる」)。本注:水土の事(城郭の造営・溝洫の浚渫・墳防の修築)を掌り、その利を議し功を建てる。四方の水土の功課を年末に奏し賞罰を行う。郊祀では楽器の掃除を、大喪では校を将いて土を復するを掌る。国の大造大疑諫争は太尉と同じ。
  • 注:韓詩外伝を引き、三公(司馬・司空・司徒)の職掌の由来(司馬は天を、司空は土を、司徒は人を主る)を説く。
  • 世祖即位時は大司空と称した(成帝綏和元年、御史大夫を廃し周制に倣って司空を初置した故事による)。建武二十七年「大」を除く。
  • 注:御史大夫時代の郡国上計丞への訓辞(残民・貪汚の吏を挙げよ、盗賊の多少を問う等)を要約。献帝建安十三年に司空を廃し御史大夫を再置した例、荀綽『晋百官表』注(献帝の御史大夫は司空に相当するが侍御史を領しない)も記す。
  • 属官:長史一人(千石)。掾属二十九人(『漢官目録』では二十四人)。令史・御属四十二人。

将軍

  • 常置ではない。本注:征伐・背叛の討伐を掌る。位は公に比する者四等――大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍、さらに前後左右将軍がある。
  • 由来:武帝が衛青の戦功を尊ぶため大将軍とし、大司馬の号を冠した。以後、霍光・王鳳らも同様。成帝綏和元年、大司馬に印綬を賜り将軍官を廃した。世祖中興後、呉漢が大将軍として大司馬となり、景丹が驃騎大将軍として位を公の下に置いた。
  • 沿革:明帝の初め、弟の東平王劉蒼を驃騎将軍とし王の身分により位を公の上に置いた(数年で罷免)。章帝の代、西羌反乱に舅の馬防を車騎将軍として派遣(帰還後罷免)。和帝の代、舅の竇憲を車騎将軍として匈奴を征させ(位は公の下、帰還後功により大将軍に昇り位は公の上、再び西羌を征したのち罷免)。安帝の代、舅の鄧隲を車騎将軍として西羌を征させ(帰還後大将軍に昇進、竇憲と同格、数年後罷免)。安帝の政治が衰えてからは、嫡舅の耿宝が常に大将軍として在京。順帝以後は皇后の父兄弟が相継いで大将軍となり、三公に准じる扱いを受けた(梁冀の例を注に引く)。
  • 属官:長史・司馬各一人(千石)。竇憲が大将軍のとき長史・司馬以下の員吏を置き位を太傅の次とした故事を注に引く。司馬は太尉に准じ兵を主る。従事中郎二人(六百石、謀議に参与)。掾属二十九人(東平王驃騎将軍時は掾史四十人だった例を注記)。令史・御属三十一人。官騎三十人と鼓吹を賜る。
  • 軍制:大将軍営は五部に分かれ、部ごとに校尉一人(比二千石)・軍司馬一人(比千石)。部の下に曲があり軍候一人(比六百石)。曲の下に屯があり屯長一人(比二百石)。校尉を置かない部は軍司馬のみを置く。軍仮司馬・仮候は副貳として置かれ、別営を領する者は別部司馬と称した。門には門候を置いた。征伐のために臨時で置かれる将軍にも部曲・司馬・軍候があり、吏部集・兵曹掾史(兵事器械を主る)・稟仮掾史(稟仮禁司を主る)・刺姦(罪法を糾す)などの職があった。
  • 度遼将軍:明帝の初め、南単于に降った新附の胡を鎮撫するため置かれた。当初は臨時であったが不安が絶えず常設となった(応劭注:武帝の代に范明友が度遼将軍を行った故事に始まり、安帝元初元年に真の官として銀印青綬・秩二千石・長史司馬六百石を定めた)。