後漢書卷二十三 五行志第十三 五行一

総説――貌不恭(木の変異)

  • 『漢書』五行志にはすでに五行伝説とその応験が詳しく録されているため、太山太守応劭・給事中董巴・散騎常侍譙周(字允南、巴西西充国の人。尚書を修め諸経・図緯に通じ、州郡の招聘に応ぜず古学を篤く好んだ。蜀の滅亡後、魏に召されても出仕しなかった)らが建武以来の災異を撰しており、これを合わせて論じ前志に続けるものである。
  • 五行伝に曰く、田猟を節度なく行い(禽を余さず獲る)、飲食を礼に従わず、出入を節せず、農時を奪い、姦謀があれば、木はその曲直の性を失って災いとなる。また君主の容貌が恭しくなければ「不粛」と呼ばれ、その咎は狂、その罰は常雨、その極は醜悪となり、服妖・亀孽(水生の蟲の異変)・鶏禍・下体が上に生ずる病・青眚青祥(青色の怪異)が現れる。これらはみな金気が木気を殄する「沴」の現象であり、五行のいずれか一つが乱れれば人心が逆らい神が怒り、変異が先んじて現れて人に譴告するとされる。

貌不恭の事例

  • 建武元年(25年)、赤眉の賊将樊崇・逢安らが劉盆子を天子に立てたが、崇らは幼帝を軽んじ万事を独断で行った。正旦の饗宴で群臣が席次も乱れて騒いだため、大司農楊音が剣を按じて「幼児の戯れでもこれほど乱れはしない」と怒った。のち赤眉は破れ崇・安らは誅死したが、楊音のみ関内侯として天寿を全うした。
  • 光武帝が崩じた際、山陽王劉荊は哭礼を欠き、東海王に反乱を勧める偽書を送った。明帝は荊が同母弟であり太后が存命であったため隠したが、のち広陵王に徙され、再び謀反を企てて自殺した。
  • 章帝の代、竇皇后の兄竇憲は皇后の寵を恃んで沁水長公主の田を強奪し、公主は憲を畏れてこれを与えた。章帝が公主の田を見て気づき憲を問い詰めたが、皇后への配慮から罪を問わず譴責するに留めた。のち章帝が崩じ竇太后が摂政すると憲は機密を掌握し忠直の臣を多く害したが、のち竇氏兄弟はみな誅殺された。
  • 桓帝の代、梁冀が政を執り兄弟ともに貴盛を極め、驕り高ぶって外出時にも家中を馬で駆け抜けたため、民は「梁氏滅門の駆馳」と呼んだ。のち梁氏は誅滅された。

淫雨(恒雨)の記録

  • 和帝永元十年・十三年・十四年・十五年、いずれも長雨で作物が損なわれた(光武建武六年九月にも長雨が続き苗が再生し鼠が樹上に巣をかけたとの記録、十七年洛陽の暴雨で民家が壊れ人が圧死し禾稼が傷ついたとの記録がある)。
  • 安帝永初元年・四年秋、郡国十で長雨により作物が損なわれた。永寧元年、郡国三十三で被害。建光元年、京都および郡国二十九で被害(当時羌の反乱が長く平定されず民が屯戍に苦しんでいた)。延光元年、郡国二十七で被害(陳忠の上奏に、女使伯栄への処遇が原因と示唆される)。延光二年、郡国五で連雨の被害。
  • 順帝永建四年、司隸・荊・豫・兗・冀の各州で長雨の被害。六年、冀州で被害。
  • 桓帝延熹二年(159年)夏、五十余日の霖雨。当時大将軍梁冀が政を専らにし、桓帝の寵する鄧貴人の母宣を害そうと謀り、また議郎邴尊を擅殺しており、桓帝は梁冀の権勢を恐れつつ中常侍単超らと密かに誅滅の策を図り、その八月に梁冀は罪に伏し誅滅された。
  • 霊帝建寧元年(168年)夏、六十余日の霖雨。当時大将軍竇武が宦官の廃絶を謀ったが、九月に長楽五官吏朱瑀らが中常侍曹節とともに先んじて竇武を誅し、闕下で交戦して竇武兄弟以下数百人が死んだ。
  • 熹平元年(172年)夏、七十余日の霖雨。当時中常侍曹節らが勃海王悝の謀反を誣告し、十月に悝は誅された。
  • 中平六年(189年)夏、八十余日の霖雨。霊帝が崩じ大行(柩)がまだ梓宮にある中、大将軍何進と佐軍校尉袁紹らが宦官の誅廃を謀ったが、中常侍張譲らが先に何進を殺し、京都で交戦し数千人が死んだ。

服妖の記録

  • 更始の諸将軍が洛陽を通過した際、幘(頭巾)を被りながら婦人の刺繍衣を着けていたのを見て、識者はこれを「服の身に合わぬ災い」と評し辺郡に逃れて避けた。のち更始は赤眉に殺された。
  • 桓帝元嘉年間、京都の婦女の間で「愁眉」(細く曲がった眉)「啼粧」(目の下を薄く拭い泣いたように見せる化粧)「堕馬髻」(髪を片側に落とす髷)「折腰歩」(腰を落とした歩き方)「齲歯笑」(虫歯のように痛そうに笑う)が流行した。これらは大将軍梁冀の家から始まり天下に広まったもので、梁冀が二代にわたり王室と婚姻を結び権勢を振るったことへの天の戒めとされ、延熹二年に一族が誅夷された。
  • 延熹年間、梁冀の誅滅後、京都では幘の額が短く耳が長い風が流行し、当時中常侍単超・左悺・徐璜・具瑗・唐衡が権勢を握り「一将軍死して五将軍出づ」と怨嗟された。八年、桓帝は日食を機に故司徒韓縯を司隸校尉に任じ次第に誅鉏した。
  • 延熹中、京都の長者はみな木屐を履くようになり、婦女は嫁ぐ際に漆で彩色した屐を作った。これは服妖とされ、九年に党錮の事が起こると士人は黄門北寺に囚われて逃げ惑い、九族まで拘繋され、老若男女がみな桎梏を受けたことがこの兆に応じたとされる。
  • 霊帝建寧中、京都の長者は葦の方笥(判決文箱を模した化粧道具)を用いるようになり、識者はこれを郡国の讞篋(裁定箱)になぞらえ、天下の人がみな理官に罪を問われる兆とした。光和三年、党禁に連座した吏民の赦令が下された。
  • 霊帝は胡服・胡帳・胡牀・胡坐・胡飯・胡箜篌・胡笛・胡舞を好み、京都の貴戚も競ってこれに倣った。のち董卓が胡兵を擁して街衢を塞ぎ、宮掖を虜掠し園陵を発掘した。
  • 霊帝は宮中西園で四頭の白驢に自ら手綱を取って乗り遊んだため、公卿貴戚も車に乗ってこれに倣った。驢馬は本来重荷を運ぶ賎しい獣であり、これを帝王が用いるのは賢愚が転倒する兆とされ、のち董卓が王室を陵虐し辺境の異民族を朝廷に登用した。
  • 熹平中、宮中で狗に冠を被せ綬を帯びさせて戯れとし、一匹の狗が司徒府門に走り込んで人々を驚かせた。京房『易伝』に「君正しからざれば臣簒を欲す、その妖は狗の冠を出す」とあり、のち霊帝は寵臣を重用し、御史を西邸に遣わして官を売り、関内侯を五百万銭で売るなどした。司徒(丞相)は国政を統べる職であり、狗が司徒府に走り込んだのは宰相が正しく職を果たさないことへの天戒とされた。
  • 霊帝は西園で後宮の采女に客舎の主人を演じさせ、自ら商人の姿で宴を戯れとし、のち天下は大いに乱れた。

屋自壊(宮室が自然に壊れる異変)

  • 桓帝永康元年(167年)十月、南宮平城門内の屋が自壊した。金が木を沴す兆とされ、その十二月に桓帝が崩じた。
  • 霊帝光和元年(178年)、南宮平城門内の屋・武庫屋・東垣の外障の屋が相次いで壊れた。蔡邕はこれを「小人が高位にあり上下ともに悖る」兆と論じ、のち黄巾の乱が東方から起こり、皇后の兄何進が大将軍に、弟何苗が車騎将軍に立てられ兵権を握ったが、のち何進は中常侍張譲・段珪らに殺され、宮中・闕下で相互に誅滅しあい天下に兵乱が大いに起こった。
  • 光和三年(180年)二月、公府の駐駕廡が南北三十余間にわたり自壊した。
  • 中平二年(185年)二月、広陽城門外の屋が自壊した。
  • 献帝初平二年(191年)三月、長安宣平城門外の屋が自壊し、三年夏に司徒王允が中郎将呂布に太師董卓を殺させ三族を滅ぼした。
  • 興平元年(194年)十月、長安市門が自壊し、翌年春に李傕・郭汜が長安で争い、天子を劫して傕塢に移し宮殿・城門・官府・民舎を焼き払い、冬に天子が洛陽へ東還する途上、曹陽で光禄勲鄧淵・廷尉宣璠・少府田邠ら数十人が殺された。

総説――言不従(金の変異)

  • 五行伝に曰く、好んで攻戦し、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、金はその「従革」の性を失って災いとなる。また君主の言葉が民に従われなければ「不乂」と呼ばれ、その咎は僭(分を越える)、その罰は常暘(日照り)、その極は憂となり、詩妖・介虫(螽・蜩蝉の類)の孽・犬禍・口舌の病・白眚白祥が現れる。これらは木気が金気を沴す現象とされる。

訛言(うわさ)の記録

  • 安帝永初元年(107年)十一月、民の間で「訛言」が広まり互いに驚愕し、司隷・并・冀州の民が流移した。当時鄧太后が専政しており、婦人は本来夫の死後は子に従うのが礼であるのに、太后が政を専らにしたことが「言不従にして僭」に当たるとされた(章帝建初五年にも東海・魯国・東平・山陽・済陰・陳留で賊来襲の訛言が広まり民が城内に逃げ込んだ記録がある)。

旱の記録

  • 世祖建武五年(29年)夏、旱(建武三年七月にも洛陽で大旱があり、帝が南郊で雨乞いすると即日雨が降った)。京房『伝』に、徳を用いず政を張れば旱の災いが起こり、隠雲があっても雨が降らぬ、四方の陰気が過ぎれば「広」、物が生じねば「隔」、天が赤くなり雹が飛禽を殺せば「僭」等々、様々な咎徴が説かれる。当時、天下に僭逆する者がまだ尽く誅されず、軍役が時を過ぎて続いていたことが原因とされた(建武六年・九年・十二年・二十一年、明帝永平元年・八年・十一年・十五年・十八年にもそれぞれ旱の記録がある)。
  • 章帝章和二年(88年)夏、旱。章帝が崩じた後、竇太后兄弟が権勢を用いて奢侈僭越したことによるとされた(建初元年の大旱では、楊終が広陵・楚・淮陽・済南の獄で数万人が徙されたことへの怨嗟を、また侍御史孔豊が「陛下は成湯の故事に倣うべし」と上疏し、天子がこれに従うと三日で雨が降ったとの記録がある)。
  • 和帝永元六年(94年)秋、京都で旱。洛陽に冤罪の囚人があり、和帝が洛陽寺に幸して冤罪を審理し囚人を放免すると、宮に還る前に雨が降った(永初元年、安帝が洛陽寺に幸して囚徒を録すると即日雨が降ったが、六月には京都・郡国四十で大水となり、旱ののちの水害でかえって災いとなったとの記録もある)。
  • 永初六年・七年、元初元年・二年・六年、いずれも夏に旱(元初三年には西羌の乱が十余年続き軍が屯していた時期にあたる)。
  • 順帝永建三年・五年、陽嘉二年、いずれも夏に旱。陽嘉二年は李固が対策で「奢僭の致すところ」と論じた(郎顗は「君主の恩沢が民に行き渡らず臣下が権を専らにする故」、周挙は河南・三輔の大旱に際し天子が自ら露坐して雨を請うたと伝える)。
  • 沖帝永嘉元年(145年)夏、旱。沖帝が幼くして崩じた際、太尉李固は太后・梁冀に年長で徳ある者を後継に立てるよう勧めたが、太后と梁冀は久しく専権を保とうとして八歳の質帝を立て、これが「徳を用いず」にあたるとされた。
  • 桓帝元嘉元年夏、旱。梁冀が政を執り妻子ともに封寵が節を超えていた時期。延熹元年六月、旱(京房占に、人君が下に恩恵を施さねば旱が起こり、救わねば蝗害に至るとある。陳蕃は上疏で宮女を多く集め寵さないことが水旱の困窮を招くと論じた)。
  • 霊帝熹平五年・六年、光和五年・六年、いずれも夏に旱。光和六年は常侍・黄門が威福を僭していた時期。
  • 献帝興平元年(194年)秋、長安で旱。当時李傕・郭汜が権を専らにし恣にしていた時期。

謡(童謡)の記録

  • 更始の頃、南陽の童謡に「諧不諧は赤眉にあり、得不得は河北にあり」とあった。更始が長安にあり世祖(光武帝)が大司馬として河北を平定していた時期で、更始の大臣が僭越に権を専らにしたため謡が生まれたとされる。のち更始は赤眉に殺され、光武帝は河北から興った。
  • 建武六年、蜀の童謡に「黄牛白腹、五銖当に復すべし」とあった。公孫述が蜀で僭号し、王莽の「黄」を継ごうとしたことを暗に指し、「五銖」は漢の貨幣が正統に復すことを示すとされ、のち公孫述は誅滅された。王莽末、天水の童謡に「呉門より出でて緹群を望む、一人の蹇(足の悪い)者を見て天に上らんと言う」とあり、隗囂が天水で挙兵し次第に野心を広げ天子たらんとしたことを指すとされ、隗囂は幼少より足が悪く、呉門・冀郭は門の名、緹群は山の名であった。
  • 順帝の末、京都の童謡に「直きこと弦の如ければ道端に死し、曲がれること鉤の如ければ反って封侯せらる」とあった。順帝の崩後、質帝が短命に終わり、大将軍梁冀が幼帝を立てて私利を図り、太尉李固が清河王の聡明さゆえの擁立を主張したが、梁冀は太后に迫って李固を免官させ蠡吾侯(桓帝)を即位させ、李固はその日獄中で殺され屍を道路に晒された。一方、太尉胡広は安楽郷侯、司徒趙戒は厨亭侯、司空袁湯は安国亭侯に封ぜられたという。
  • 桓帝の初め、天下の童謡に「小麦青々大麦枯る、誰か穫る者ぞ婦と姑と、丈人は何くにか在る、西のかた胡を撃つ」とあった。元嘉中、涼州の諸羌が一斉に反乱し蜀漢に南入し三輔を東抄し并冀に及んで民を害し、朝廷が兵を出すたびに敗れ、甲卒を多く徴発したため麦の収穫は婦女のみに委ねられたことを指すとされる。
  • 桓帝の初め、京都の童謡に「城上の烏、尾は畢逋(高きに居て利を独占する)、父は吏となり子は徒となる、一人の徒死して百乗の車来たる、車は班班として河間に入る、河間の姹女は銭を数えるに工みで、銭を以て室とし金を以て堂とす、石の上で慊慊(不満げ)に黄粱を舂き、梁の下に懸鼓あり我これを撃たんとすれば丞卿怒る」とあった。これは為政者の貪欲を風刺したもので、「城上の烏」は君主の収斂を、「一徒死して百乗車」は霊帝の擁立の際、御史劉儵が霊帝擁立を建議し中常侍侯覧に恐れられ殺されたが、朝廷がその功を思いのちに弟の劉郃を司徒に登用したことを指すとされる。「車班班入河間」は桓帝崩御の際、使者と解犢侯(霊帝)が河間から白蓋車で迎えられたことを、「河間姹女以銭為室」は霊帝の母永楽太后が金銭を蓄えたことを、「梁下有懸鼓」は永楽太后が霊帝に売官させ忠篤の士が怨んだことをそれぞれ指すという。
  • 桓帝の初め、京都の童謡に「游平印を売る、自ずから平ならざるなし、豪賢及び大姓を辟けず」とあった。延熹末、鄧皇后が譴責され自殺し竇貴人が代わって立てられ、その父竇武(字游平)が城門校尉に任じられ、太后摂政の際に大将軍となり太傅陳蕃と力を合わせ徳を建て、その用いた人材に豪賢・大姓を選ばなかったことを指すとされる。
  • 桓帝の末、京都の童謡に「茅田一頃、中に井あり、四方繊繊として整うべからず、嚼りまた嚼る、今年は尚可なるも後年は鐃(乱れ荒れる)」とあった。『易』に「茅を抜けばその類をもって征く、吉」とあり、茅は群賢を、井は法を象る。当時中常侍管霸・蘇康が海内の英哲を憎み、長楽少府劉囂・太常許永・尚書柳分らと結んで賢者を排斥し、河内の牢脩が闕に上書して汝潁・南陽・上党の名士や甘陵の南北二部を弾劾し、これにより党人が黄門北寺に拘われた。「今年尚可」は禁錮に留まったことを、「後年鐃」は陳蕃・竇武が誅され天下が大壊したことを指すとされる。
  • 桓帝の末、京都の童謡に「白蓋の小車、何ぞ延延たる、河間より来たり合諧す」とあった。解犢亭は河間国饒陽県に属し、霊帝が河間王の曾孫であったことに因む。桓帝崩後、使者と解犢侯(霊帝)がともに白蓋車で河間から迎えられたことを指し、御史劉儵が霊帝擁立を建議して侍中となったが中常侍侯覧に殺され、のち弟の劉郃が司徒に登用されたことが「合諧」の意とされる。
  • 霊帝の末、京都の童謡に「侯に非ず王に非ず、千乗万騎北芒に上る」とあった。中平六年、史侯(少帝)が即位したが献帝はまだ爵号を持たず、中常侍段珪らに拘われて公卿百官とともに河上まで連れ去られ、のち帰還したことを指す。
  • 霊帝中平中、京都の歌に「承楽の世、董逃(董卓よ逃げよ)」で始まる連句が歌われ、董卓が跋扈し残暴を極めるも終には逃竄し滅族に至ることを予言したとされる。董卓はこの歌を自らへの侮辱と考え禁じ、これに背いた者を千人単位で殺したという。霊帝末、礼楽が崩壊し賞罰が中を失い、天下は間もなく大いに壊れた。
  • 献帝践阼の初め、京師の童謡に「千里草、何ぞ青々たる、十日卜、生を得ず」とあった。「千里草」は「董」、「十日卜」は「卓」の字を分解したもので、董卓が下から上を凌ぎ臣として君を陵ぐ様を示し、青々たるは勢いの盛んなさまを、生を得ずは間もなく破滅することを意味するとされた(別に「燕南垂・趙北際……」という童謡もあり、公孫瓚がこれに応じて易地に城を築いたが、建安三年に袁紹に攻められ大敗し自焚した)。
  • 建安初、荊州の童謡に「八九年の間に始めて衰えんと欲し、十三年に至りて孑遺(生き残り)無し」とあった。荊州は劉表が牧となって以来豊楽であったが、八九年で衰え始めるとは劉表の妻の死や諸将の零落を、十三年に孑遺無しとは劉表の死と民の冀州への移住を指すとされる(干宝『捜神記』には、華容の女子が劉表の死を予言し獄に繋がれたが果たしてその通りになったとの逸話、また涿郡の李立〈字建賢〉が荊州刺史となったことを歌う続唱の記録がある)。

狼食人(人が狼に食われる怪異)

  • 順帝陽嘉元年(132年)十月、望都・蒲陰で狼が童児九十七人を殺した。李固は対策で京房『易伝』の「君将に無道ならんとし害将に人に及ばんとすれば、これを避け深山に隠れて身を全うす、その災いは狼の人食い」を引き、天子が省みて隠れた賢者を求めれば狼害が止むと論じた(東観書には、中山相朱遂が北岳の祭祀を怠ったことへの詔責と、狼害が孕婦にまで及んだことへの憂慮が記される)。
  • 霊帝建寧中、群狼数十頭が晋陽の南城門に入り人を噛んだ(光和三年正月には虎が平楽観・憲陵に現れ衛士を噛んだとの記録もあり、蔡邕は「政に苛暴あれば虎狼人を食う」と論じた)。