孝桓帝建和・和平年間
- 建和元年(147年)から三年にかけて、熒惑がたびたび輿鬼・質星を犯し、太白が太微に入って十五日留まり東井に入り、鎮星が輿鬼南星を犯し、彗星が天市中に現れた。熒惑の輿鬼犯は死喪、質星犯は臣下の誅戮、太白の太微入りは乱臣、鎮星の輿鬼犯は喪、彗星の天市出現は貴人の兆とされ、和平元年(150年)十二月に梁太后が崩じ、梁冀はますます驕り乱を為した。
元嘉・永興・永寿年間
- 元嘉元年(151年)・永興二年(154年)、太白が昼見した。当時桓帝は後宮の采女鄧猛に寵愛を寄せ、翌年その兄鄧演を南頓侯に封じ、四年後に梁皇后が崩じ梁冀が誅されると鄧猛が皇后に立てられ寵愛が盛んになった。
- 永寿元年(155年)三月、鎮星が逆行して太微に入り七十四日で左掖門を去り、七月に辰星が太微に入り八十日で左掖門を去り、八月に熒惑が太微に入り二十一日で端門を出た。鎮星は貴臣・妃后、その逆行は匿謀、辰星の太微入りは大水または後宮の憂いの兆とされ、この年雒水が溢れて津門に至り南陽で大水があった。熒惑の太微長期滞留は乱臣の兆ともされ、当時梁氏が専政していた。九月には昼に流星が現れ、熒惑が歳星を犯したのは姦臣の謀と大将の誅戮の兆とされた。
- 二年(156年)六月、辰星が太微に入り伏して見えなくなった。辰星は水・兵・妃后を象り、八月に太白が軒轅大星を犯したのは皇后(懿献皇后)に関わるとされた。三年四月、熒惑が東井口中に入ったのは大臣誅戮の兆、七月に太白が心宿前星を犯したのは大臣に関わる兆とされ、二年後の四月に懿献皇后が憂いのうちに死に、大将軍梁冀が太倉令秦宮に議郎邴尊を刺殺させ、さらに鄧后の母宣を殺そうとした事が発覚し、桓帝は梁冀とその妻寿・襄城君の印綬を収め、みな自殺し、梁氏・孫氏一族は誅され、あるいは辺境に徙された。
延熹年間
- 延熹四年(161年)三月、熒惑が輿鬼・質星を犯し、五月に客星が営室に現れ心宿一度まで進んで彗星となった。大臣の戮死の兆とされ、五年十月、南郡太守李粛が蛮夷の賊に郡県を攻められ財物一億以上を失い銅虎符を敵に渡して逃げた罪で、また監黎陽謁者燕喬・重泉令彭良・京兆虎牙都尉宋謙もそれぞれ贓罪・無実の民を殺した罪で棄市・下獄死した。この客星の彗星化は大喪の兆とされ、四年後に鄧后が憂いのうちに死んだ。
- 六年(163年)十一月、太白が昼見した。当時鄧后の一族が貴盛を極めていた。
- 七年(164年)七月から十二月にかけて、辰星の歳星犯、熒惑の輿鬼・質星犯、歳星の軒轅犯、太白の房宿犯などが相次いだ。歳星の軒轅犯は女主の憂い、太白の房宿犯は後宮に関わるとされ、八年二月に太僕南郷侯左勝が罪により死を賜り、弟の中常侍上蔡侯悺・北郷侯党も自殺、癸亥に皇后鄧氏が左道を用いた罪で廃され祠宮に遷され死し、宗親の鄧康・鄧万・鄧弼・鄧魯・鄧徳・鄧寿・鄧統・鄧秉・鄧循らはみな暴室に繋がれ、あるいは死し、あるいは免官された。荊州刺史芝・交阯刺史葛祗も賊に拘略され、桂陽太守任湮は敵前逃亡の罪で棄市された。これらは熒惑の輿鬼・質星犯の応験とされた。
- 八年(165年)から永康元年(167年)にかけて、太白・熒惑・歳星が輿鬼・太微・左執法・心前星などを相次いで犯し、歳星は太微に五十八日、熒惑は太微に百一日留まるなど異例の滞留が続いた。太白の輿鬼犯・質星犯は臣下の誅戮、熒惑の太微入りは賊臣、太白の心前星犯は兵喪、歳星の左執法犯は将相の誅、熒惑の長期滞留は人主に関わる兆、太白の昼見は大人の兵憂とされた。九年十一月、太原太守劉瓆・南陽太守成瑨が無実の民を殺した罪で、荊州刺史李隗は賊に拘われ、尚書郎孟璫は賄賂を受け機密を漏らした罪でみな棄市され、永康元年十二月に桓帝が崩じ、太傅陳蕃・大将軍竇武・尚書令尹勲・黄門令山冰らがみな無実の罪で死んだのは、太白の心宿犯・熒惑の太微長期滞留の応験とされた。
孝霊帝建寧・熹平年間
- 建寧元年(168年)六月、太白が西方から太微に入り西蕃南頭星を犯した。太微は天廷であり、太白がその中に入るのは宮門が閉じられ大将が甲兵を被り大臣が誅されるとされる兆であった。八月、太傅陳蕃・大将軍竇武が宦官を尽く誅そうと謀ったが、九月に中常侍曹節・長楽五官史朱瑀がこれを察知して詔を偽って陳蕃・竇武らを殺し、家属は日南比景に徙された。
- 熹平元年(172年)十月、熒惑が南斗に入った。南斗は呉の分野にあたり、十一月に会稽の賊許昭が挙兵し自ら大将軍と称し、父の生を越王として郡県を攻め破った。
- 二年(173年)四月、蛇のような形の星が文昌から紫宮に入り現れ、八月に太白が心前星を犯し、白気が北斗第四星を衝いた。文昌は上将・貴相を象り、太白の心前星犯は大臣に関わる兆とされ、六年後に司徒劉羣が中常侍曹節に讒言され下獄死した。白気の北斗衝は大戦の兆とされ、翌年冬に揚州刺史臧旻・丹陽太守陳寅が盗賊苴康を攻め数千級を斬った。
光和・中平年間
- 光和元年(178年)四月、流星が軒轅第二星を犯し北斗魁中に入り、八月に彗星が亢宿から天市に入り数丈にわたり赤色で十余宿・八十余日にわたり見えた。流星の軒轅出・北斗魁入りは天子が大使を出して伐殺する兆とされ、中平元年(184年)に黄巾の乱が起こり、朝廷は中郎将皇甫嵩・朱儁らを派遣して十余万を斬った。彗星の天市を除くのは天帝が都を移す兆とされ、初平元年(190年)に献帝が長安に遷都した。
- 三年(180年)冬、彗星が狼弧宿から張宿(周の地)まで行き、兵乱の兆とされ、四年後に京都が大規模に黄巾賊を討伐した。
- 五年(182年)四月から十月にかけて、熒惑が太微に入り屏を守り、彗星が三台下から太微に入り太子幸臣にまで至り、歳星・熒惑・太白が虚宿で三合(連珠)した。熒惑の太微入りは乱臣の兆とされ、当時中常侍趙忠・張讓・郭勝・孫璋らが姦乱をなしていた。彗星の太微入りは天下の主が易わる兆とされ、中平六年(189年)に霊帝が崩じ、三星の虚宿合は喪の兆(虚は斉の地)とされ、翌年琅邪王据が薨じた。
- 光和年間、国皇星が東南角に一二丈の高さで炬火のように十余日現れて消えた。国皇星は内乱・内外の兵喪の兆とされ、のち黄巾の張角が州郡を焼き、朝廷が討伐して十余万を斬った。中平六年、霊帝が崩じると大将軍何進が司隸校尉袁紹に命じ密かに兵千余を募って洛陽城外に潜ませ、并州牧董卓を密かに呼んで京都に至らせ、ともに宦官を誅そうとしたが、南北宮闕下で数千人が死し宮室が焼かれ、都は西京(長安)へ遷った。のち司徒王允・将軍呂布が董卓を誅すると、董卓の部曲将郭汜・李傕が長安を攻め、公卿百官・吏民の戦死者は万に近く、天下の乱はすべて内より発した。
- 中平二年(185年)十月、客星が南門中に現れ、翌年六月に消えた。これは兵乱の兆とされ、六年に司隸校尉袁紹が宦官を誅滅し、大将軍の部曲将呉匡が車騎将軍何苗を攻め殺し数千人が死んだ。
- 三年(186年)四月、熒惑が心宿後星を逆行して守り、十月に月が心宿後星を食した。大喪の兆とされ、三年後に霊帝が崩じた。
- 五年(188年)二月、彗星が奎宿から逆行して紫宮に入り六十余日で消えた。六月、客星が貫索宿から天市に入り尾宿で消えた。彗星の紫宮を除くのは天下の主が易わる兆、客星の天市入りは貴人の喪の兆とされ、翌年四月に霊帝が崩じた。中平中、流星が河鼓宿から天市に入り宦者星に触れ、枉矢のような形を呈した。占いでは「枉矢の発するところ、その宮を射る」とされ、これを操る者は邪枉の人とされる。中平六年、大将軍何進が宦官を尽く誅そうとしたが宦官に殺され、両者ともに滅び天下は大いに乱れた。
- 六年(189年)八月、太白が心前星・心中大星を犯した。まさにその日、大将軍何進が宮中で宦官に殺され、翌日には車騎将軍何苗が何進の部曲将呉匡に殺された。
孝献帝初平・建安年間
- 初平二年(191年)九月、蚩尤旗が長さ十余丈にわたり角亢宿の南に現れた。蚩尤旗の出現は四方への征伐の兆とされ、のち丞相曹操が天下を征討すること三十年に及んだ。
- 四年(193年)十月、彗星が両角の間から東北へ天市中に入って消えた。彗星が天市を除くのは天帝が都を移す兆とされ、当時献帝は長安にあったが、二年後に東へ遷り翌年七月に洛陽に至り、その八月に曹操が献帝を迎えて許に都した。
- 建安五年(200年)十月、彗星が大梁宿(冀州の分野)に現れた。当時袁紹が冀州にあり、その年十一月に袁紹軍は曹操に破られ、七年夏に袁紹が死んで曹操が冀州を取った。
- 九年(204年)十一月、彗星が東井・輿鬼から軒轅・太微に入った。十一年正月、彗星が北斗に現れ尾が紫宮・北辰にまで及んだ。彗星が太微を掃うのは人主が位を易わる兆とされ、のち魏の文帝が禅を受けた。
- 十二年(207年)十月、彗星が鶉尾宿(荊州の分野)に現れた。当時荊州牧劉表が荊州に拠っており、益州従事周羣は「荊州牧は将に死し土地を失うであろう」と予言した。翌年秋、劉表は卒し末子の劉琮が跡を継いだが、曹操が荊州を伐とうとすると劉琮は恐れて軍を挙げて降った。
- 十七年(212年)十二月、彗星が五諸侯宿に現れた。周羣は「西方に土地を専有する者はみな土地を失うであろう」と占い、当時益州牧劉璋が益州に、漢中太守張魯が漢中に、韓遂が涼州に、宋建が枹罕にそれぞれ拠っていた。翌年冬、曹操が偏将を遣わし涼州を撃ち、十九年に宋建を獲り、韓遂は羌中に逃れ病死し、その年秋に劉璋は益州を失い、二十年秋に曹操が漢中を攻めると張魯は降った。
- 十八年(213年)秋、歳星・鎮星・熒惑が太微に入り帝坐を逆行して百余日守った。歳星の太微入りは人主の交代の兆とされる。
- 二十三年(218年)三月、彗星が東方に晨に現れ二十余日を経て西方に夕に現れ、五車・東井・五諸侯・文昌・軒轅・后妃・太微を経て帝坐を指した。これは旧を除き新を布く象とされた。
隕石
- 殤帝延平元年(106年)九月、陳留に隕石四つが落ちた。『春秋』僖公十六年に「宋に隕石」とあり、『左伝』はこれを隕星とし、董仲舒は高きより下る象、あるいは庶民を象り星の隕るは民の困窮の象とする。
- 桓帝延熹七年(164年)三月、右扶風の鄠に隕石一つ、さらに隕石二つが落ち、いずれも雷のような音を発した。