後漢書卷二十一 天文志第十一 天文中

孝明帝永平年間

  • 永平元年(58年)四月、斗ほどの大きさの流星が天市楼から西南に流れ光が地を照らした。流星は外兵、西南行は西南夷の兆とされ、この頃益州が兵を発して姑復の蛮夷を撃ち、太牟を滅ぼしその首を洛陽に伝えた。
  • 三年(60年)六月、彗星が天船宿に現れ北へ亢宿まで百三十五日進んで消えた。天船は水を象り、この年伊水・雒水が溢れて津城門を壊し、郡内七県三十二カ所が水害にあった。
  • 四年(61年)八月、客星が梗河宿から貫索宿へ七十日かけて進んだ。貫索は胡兵の兆とされ、五年十一月に北匈奴七千騎が五原塞に、十二月には雲中から原陽に侵入した。貫索は貴人の獄舎を象り、その十二月に陵郷侯梁松が朝廷を誹謗した罪で下獄死し、妻子は九真に徙された。
  • 七年(64年)正月、杯ほどの流星が織女宿から西行し光が地を照らした。織女は天の真女を象り、その月に光烈皇后が崩じた。
  • 八年(65年)六月、長星が柳宿・張宿三十七度に現れ軒轅を犯し天船を刺して太微を貫き上階星に至るまで五十六日見えた。この年は多雨で郡十四が禾稼を損なった。
  • 九年(66年)正月、客星が牽牛宿から建星を経て房宿南に至り五十日見えた。牽牛は呉越、房心は宋を象り、のちに広陵王荊が沈涼・楚王英が顔忠とそれぞれ謀反を企て発覚して自殺、または誅殺された(広陵は呉、彭城は古の宋の地にあたる)。
  • 十三年(70年)閏月、火星が輿鬼を犯した。輿鬼は大喪、質星(輿鬼の中の白い星)は大臣誅戮の兆とされ、その十二月、楚王英が顔忠らと妖言による謀反を図って発覚し、英は自殺、忠らは誅殺された。
  • 十四年(71年)正月、客星が昴宿から六十日かけて軒轅右角の傍に現れて消えた。昴は辺兵、軒轅右角は貴相・獄事を象るとされ、翌年漢は奉車都尉竇固・駙馬都尉耿秉らに匈奴を撃たせ、また楚王英の獄事に連座して司徒虞延をはじめ黄初・公孫宏らが自殺または下獄誅殺された。
  • 十五年(72年)十一月、太白が月中に入った。大将が誅され三年は君主が出兵しない兆とされ、三年後に明帝が崩じた。
  • 十六年(73年)正月、歳星が房宿右驂第一星を犯して見えなくなり、のち再び現れた。房右驂は貴臣を象り、のち司徒邢穆が阜陵王延との謀反に連座して自殺した。四月、太白が畢宿を犯した。畢は辺兵を象り、北匈奴が雲中から咸陽に侵入し、使者高弘が三郡の兵を発して追討したが得るところなく、太僕祭肜は進軍しなかった罪で下獄した。
  • 十八年(75年)六月、彗星が張宿に現れ郎将星の南から太微に転じ、いずれも張(東郡)・太微(天子の廷)の地にあたるため兵喪の兆とされ、その八月に明帝が崩じた。

孝章帝建初年間

  • 建初元年(76年)正月、太白が昴宿西一尺にあった。八月、彗星が天市に現れ牽牛宿三度に入り四十日で消えた。太白の昴は辺兵、彗星の天市は外軍、牽牛は呉越の兆とされ、この頃蛮夷陳縦らと哀牢王類が反乱し永昌太守王尋が楪榆に逃れ、安夷長宋延が羌に殺され、武威太守傅育を護羌校尉に、馬防を行車騎将軍として西羌を征させた。また阜陵王延が子の魴と謀反したが誅を免れ侯に廃された。
  • 二月九日、流星が紫宮を数丈にわたり過ぎ三つに散った。十二月、彗星が婁宿三度に現れ紫宮に入り百六日で消えた。流星・彗星が紫宮に入るのは貴人の忌みとされ、四年後の六月、明徳皇后が崩じた。
  • 元和元年(84年)四月、客星が胃宿八度に現れ閣道を経て紫宮に入り四十日留まった。紫宮は天子の宮であり、客星がこれを犯して久しく留まるのは大喪の兆とされ、四年後に章帝が崩じた。

孝和帝永元年間

  • 永元元年(89年)正月から三月にかけて、参宿・天棓・太微東蕃・天津・天将軍などから相次いで流星が現れた。参は辺兵、天棓は兵、太微は天廷、天津は水、天将軍は兵の兆とされ、六月に漢は車騎将軍竇憲・執金吾耿秉・度遼将軍鄧鴻に朔方から進軍させ北匈奴を私渠北鞮海で破って首一万余級を斬り、生口・牛馬羊百万頭を得、日逐王ら八十一部三十余万人が降った。七月には大雨で人民が漂流し、これも応験とされた。
  • 二年(90年)正月から十一月にかけて、奎宿・婁宿など各所で金星・水星・火星・木星の会合や流星が相次いだ。奎は武庫、婁は兵と匿謀の兆とされた。四年六月、竇憲が謀反を企てたことが発覚し、和帝が北宮に幸して竇憲の党を捕らえ、憲の弟篤・景らは自殺した。金星が軒轅を犯したのは女主の失勢の兆とされ、竇太后も勢を失った。
  • 五年(93年)四月から九月にかけて、太白・熒惑・辰星が東井に集まり、歳星が軒轅大星を犯し、金星が南斗魁中に入るなどの異変が続いた。三星会合は内外の兵乱の兆とされ、六年正月に司徒丁鴻が薨じ、七月には大水で人民が死傷し、九月には車騎将軍鄧鴻・越騎校尉馮柱らが烏桓・鮮卑の兵四万騎で叛胡を征したが、十二月に鄧鴻は敗戦の罪で下獄死し、度遼将軍朱徴・中郎将杜崇も罪に問われた。
  • 七年(95年)正月から十二月にかけて、天津・参・東井・軫・心・斗などで流星・金火水土の会合が相次いだ。軫での三星会合は「白衣の会」(喪の兆)とされ、八年に楽成王党・楽成王宗が相次いで薨じ、将兵長史呉棽が罪により誅され、北海王威が自殺し、陳王羨が薨じ、九年には竇太后が崩じ、遼東太守祭参が虜を追討しなかった罪で誅殺され、司徒劉方が事に坐して自殺、隴西で羌が反乱し執金吾劉尚らが三万騎で西羌を征した。
  • 十三年(101年)十一月、軒轅第四星の間に小客星が現れた。軒轅は後宮を象り、翌十四年六月に陰皇后が廃された。
  • 十六年(104年)四月から十月にかけて紫宮に白気・客星が現れ、鉤陳(皇后を象る星)から流星が北行して光を放った。翌年(元興元年)十月、和帝が崩じ、殤帝が即位してわずか一年で崩じ、嗣子がなかったため鄧太后が使者を遣わして清河孝王の子(清河は趙の地)を迎え即位させた。これが安帝である。

孝殤帝延平・孝安帝永初年間

  • 元興元年(105年)、角亢・斗・天市・氐などで流星や金水の会合が相次ぎ、この年遼東の貊人が反乱して六県を略奪し、上谷・漁陽・右北平・遼西の烏桓がこれを討った。
  • 延平元年(106年)正月、金星と火星が婁宿で合し「爍」となり、大人の憂いとされ、八月に殤帝が崩じた。
  • 永初元年(107年)五月、熒惑が心宿前星を逆行して守り、八月には客星が東井弧星の西南に現れた。心宿は天子の明堂を象り、熒惑の逆行は反臣の兆、客星の東井は大水の兆とされた。当時安帝はまだ親政せず鄧太后が摂政し、鄧騭が車騎将軍、弟の悝・弘・閶が校尉に封ぜられて国政を握っていたため、司空周章がこれに不満を持ち王尊・叔元茂らと謀って宮門を閉じ鄧騭兄弟を誅し常侍鄭衆・蔡倫を劫し尚書を廃し皇太后を遠国王に封じようとしたが発覚して自殺した。この年郡国四十一県三百十五で水害があり秋の作物と城郭が損なわれ人民が死傷した。
  • 二年(108年)正月、太白が昼に見えた。
  • 三年(109年)正月、月が心宿後星を犯し、太白が斗宿に入り、十二月に彗星が天苑宿の南に現れた。太白の昼見は強臣の兆とされ、当時鄧氏が権勢を強めていた。五月に沛王牙が薨じ、太白の斗宿入りは貴相の凶とされた(劉昭注:楊厚が「諸王子を京師から本国へ帰すべき」と上奏し太后がこれに従うと、この星は間もなく消えたという)。天苑は外軍、彗星がその南に出るのは外兵の兆とされ、のち羌氐が李貴を討ち、烏桓が鮮卑を撃ち、中郎将任尚・護羌校尉馬賢が羌を討って降した。
  • 四年(110年)六月、客星が李の実ほどの大きさで蒼白の芒気二尺を発し上階星を指した。癸酉、太白が輿鬼に入り上階を指し、太尉張敏が免官された。太白の輿鬼入りは将の凶とされ、中郎将任尚が贓罪千万で檻車に徴され棄市された。
  • 五年(111年)六月、太白が昼に天を経て見えた。これは陽の弱まり君主の権威が損なわれる兆とされる。以後、元初元年から六年にかけて熒惑・太白・辰星・歳星・鎮星がたびたび輿鬼・畢・左執法・虚危・南斗などを犯し、記録によれば永初五年から永寧年間の間に太白は昼見一回・天を経ること二回・輿鬼に入ること二回・畢に一回守ること・左執法を二回犯すこと・南斗に入り鉞星を犯すこと各一回、熒惑は輿鬼に五回入り、鎮星は東井の鉞星を一回犯し輿鬼に一回入り、歳星・辰星も輿鬼に各二回入るなど、五星が輿鬼に入ることが相次いだ。これらは死喪・誅戮・辺兵・獄事の兆と占われ、建光元年(121年)三月に鄧太后が崩じ、五月に太后の兄車騎将軍鄧騭ら七侯がみな免官・自殺したのが、その応験とされた。
  • 延光二年(123年)から四年にかけて、熒惑・太白・鎮星が太微・昴・畢・南斗などを相次いで犯し、客星が天市に現れた。熒惑の太微出は乱臣、太白の昴畢犯は近兵、鎮星の左執法犯は誅臣、太白の輿鬼入りは大喪、太白の斗宿入りは貴将相の誅、客星の天市入りは貴人の喪の兆とされた。当時大将軍耿宝・中常侍江京・樊豊・小黄門劉安と阿母王聖・その娘永らが太子保を讒言し、乳母や男の厨監邴吉を悪しざまに言い、三年九月に太子は済陰王に廃され、邴吉は殺され父母妻子は日南に徙された。四年三月、安帝が南陽から巡狩の帰途、葉県で崩じたが、閻皇后と兄の衛尉閻顕・中常侍江京らはこれを隠し群臣に知らせず、司徒劉喜らを郊廟に遣わして告天させたのち北宮に入り庚午の夕に発喪して閻氏を太后に立てた。北郷侯懿(安帝の後継として一時擁立された王子)も病で薨じ、江京らは劉保(済陰王)の擁立を望まなかったが、中黄門孫程・王国・王康ら十九人が謀って閻顕・江京らを誅し劉保を天子に立てた。これが順帝である。これらはみな奸臣が王室を乱し、宮中に死喪・誅戮・兵乱が起こる兆の応験とされる。

孝順帝永建・陽嘉・永和年間

  • 永建二年(127年)二月・閏月、太白が計八十日にわたり昼見し、八月に熒惑が輿鬼に入った。太白の昼見は強臣、熒惑の輿鬼は死喪の兆とされ、当時中常侍高梵・張防・将作大匠翟酺・尚書令高堂芝ら、および兗州刺史鮑就・使匈奴中郎将張国・金城太守張篤・敦煌太守張朗が互いに交通した罪で棄市・徴罰され、また定遠侯班始が妻の陰城公主を殺した罪で腰斬され同産もみな棄市された。
  • 六年(131年)四月、熒惑が太微に入り左右執法を犯し、十月に太白が昼見し、十二月に客星が牽牛宿に現れた。客星の兵気・牽牛の呉越の兆から、翌年会稽の海賊曾於ら千余人が句章を焼き長吏を殺し、東部都尉を攻め、揚州六郡で賊章何らが四十九県を劫掠した。
  • 陽嘉元年(132年)閏月、客星が天苑宿の西南に現れた。天苑は馬牛・外軍、白色は兵の兆とされ、この頃敦煌太守徐由が疏勒王らの兵二万で于寘を討ち、烏桓校尉耿曄が烏桓の兵で鮮卑を鈔したため鮮卑が遼東・代郡を攻め、西戎北狄の寇害が十余年続いた。
  • 永和二年(137年)五月・八月、太白の昼見と熒惑の南斗犯があり、南斗は呉の分野にあたるため、翌年五月に呉郡太守代行の羊珍らが反乱し官府を攻め、江賊蔡伯流らが広陵・九江を攻めた。
  • 三年(138年)から六年にかけて、太白の頻繁な昼見・熒惑との相犯・辰星の輿鬼入りなどが記録され、大将軍梁商父子が権勢を握っていたことと関連づけられた。四年正月には中常侍張逵・蘧政らが曹騰・孟賁を梁商との謀反の罪で讒言したが順帝がこれを見破り、張逵らは自ら首を刺すなどして逃亡した。六年、征西将軍馬賢が西羌に北地謝姑山で父子ともに殺された。
  • 六年二月、彗星が東方に現れ営室・墳墓星を指し、のち奎宿を経て東井・輿鬼・柳・七星・張・三台・軒轅にまで及んだ。営室は天子の常宮、墳墓は死を象り、五年のうちに天下に大喪ありとされ、四年後に順帝が崩じた。昴の辺兵の兆からは羌の周・馬父子の反乱、劉文が清河相謝暠を脅して王蒜(清河王)を天子に立てようとした事件(暠は殺され、文・蒜は誅され蒜は尉氏侯に廃されたのち犍陽都鄉侯に徙され国が絶えた)が対応するとされた。三台の犯は三公にあたり、当時太尉杜喬・故太尉李固が梁冀に陥れられ獄死し、後宮の変(懿献后の憂死、梁氏の誅滅)も張宿の軒轅入りの応験とされた。
  • 漢安元年から二年にかけて、太白の頻繁な昼見・辰星の輿鬼犯などが続き、翌年八月に順帝が崩じた。

孝沖帝・孝質帝

  • 建康元年(144年)九月、太白が昼見した(天下に喪あり、あるいは白衣の会ありの兆)。翌正月、沖帝が崩じた。
  • 本初元年(146年)三月、熒惑が輿鬼に入り、四月に太白も輿鬼に入った。いずれも大喪の兆とされ、五月に太白が熒惑を犯したのは逆謀の兆とされた。閏月一日、質帝が梁冀により鴆殺された。