後漢書卷十上 后紀第十上 光武郭皇后・光烈隂皇后・明徳馬皇后・章徳竇皇后・和帝隂皇后・和熹鄧皇后

**光武郭皇后**:光武帝の皇后(初代)。真定槀の人、郭昌の娘(?–52年)。更始二年に光武帝に嫁ぎ寵愛を受け、建武二年に皇太子彊の母として皇后に立てられたが、寵が衰えて建武十七年に廃され中山王太后となった。晩年は穏やかに過ごし子孫も存続した。**光烈隂皇后**:光武帝の皇后(光烈皇后)。南陽新野の人。光武帝が若い頃より思いを寄せた女性(?–64年)。郭后の廃后後に皇后に立てられ、顕宗(明帝)の生母として皇太后となった。**明徳馬皇后**:明帝の皇后(明徳皇后)。伏波将軍馬援の末娘(?–79年)。幼くして父母を失うも太子宮に選ばれ、姉の子(後の章帝)を養子として育てた。倹約と外戚抑制を貫いた賢后として知られる。**章徳竇皇后**:章帝の皇后(章徳皇后)。扶風平陵の人、大司徒竇融の曾孫(?–97年)。子がなく、宋貴人・梁貴人らを陥れて廃太子・誅殺に追い込んだ。和帝即位後は皇太后として臨朝したが、兄竇憲らの専権は誅殺に終わった。**和帝隂皇后**:和帝の皇后。光烈皇后の兄陰識の曾孫(?–102年)。永元八年に皇后に立てられたが鄧貴人の寵愛に押され、巫蠱の罪で告発され廃されて憂死した。**和熹鄧皇后**:和帝の皇后(和熹皇后)。太傅鄧禹の孫、諱は綏(?–121年)。幼少より学問を好み、永元十四年に皇后に立てられた。和帝崩後は殤帝・安帝を擁立して長く臨朝し、法制整備・倹約・文教振興など数々の善政を行った賢后として知られる。

年表(29件)

后妃制度の沿革(総序)

  • 夏・殷以前の后妃の制度は文献に乏しい。周礼では、王は后のもとに三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御を置いて内職を整えたとされ、后は天子と並び立つ位とされた。九嬪は婦徳を教え、世婦は喪祭・賓客を司り、女御は年ごとに功を献じ、女史は后の言行を記録した。
  • 斉の桓公には夫人格の女性が六人おり、晋の献公は戎の女驪姫を元妃に立てて五公子の乱を招くなど、周室東遷後は諸侯の婚姻制度も乱れた。戦国以降はさらに風紀が緩み、身分の秩序が乱れて国を滅ぼす例も少なくなかった。
  • 秦は天下統一後、六国の美人を後宮に集めて七国分の規模とし、位を八品に分けた。漢はその号を受け継いだが制度は整わず、高祖・文帝の頃から後宮の規律に乱れがあり、武帝以後は奢侈が増して後宮は三千を数え、位階も十四級に細分化された。外戚の専横・後宮の乱れは前史に詳しい。
  • 光武帝は中興にあたり奢を排して質朴に復し、六宮の称号を皇后・貴人の二つに絞った。貴人は金印紫綬を帯びるが俸禄は粟数十斛にすぎず、美人・宮人・采女には爵秩を与えなかった。八月ごとに良家の童女を選び容色・人相のよい者を後宮に入れる制度を整え、明帝もこれを受け継いで厳格な後宮教化を行い、外戚の専権を防いだ。
  • しかし章帝以降は次第に寵愛によって恩恵を与える風が強まり、防閑がゆるんだ。皇統がしばしば絶えたため、安帝・質帝・桓帝・霊帝の四帝が外部から迎立され、章帝竇太后・和熹鄧太后・安思閻太后・順烈梁太后・桓思竇太后・霊思何太后の六后が臨朝し、外戚が政治を左右する事態を招いた。外戚一族はしばしば誅滅され、後漢の衰亡の一因となった。
  • こうした経緯から、正号を得た皇后は本紀として列し、私恩による追尊にとどまる者はそれぞれの列伝に付す(安帝母左姫、祖母宋貴人など)。他は各人の親族の伝に見えるものを除き、本紀に付す(賈貴人・虞美人など)。西京(前漢)の外戚伝を継ぐものとしてこの后紀を立てる。

郭皇后紀

  • 光武郭皇后、諱は聖通、真定槀(こう)の人。父の郭昌は田宅財産数百万を異母弟に譲り義とされ、郡の功曹を務めた。母は真定恭王の娘・郭主。
  • 更始二年(24年)春、光武帝が王郎を討つため真定に至った際に后を娶り、寵愛を受けた。即位後に貴人となり、建武元年(25年)に皇子彊(後の皇太子)を生み、建武二年(26年)に皇后に立てられ、彊は皇太子となった。
  • 弟の郭況は緜蠻侯に封じられ、その邸には賓客が集まり「金穴」と称されるほど富み栄えたが、后は寵が衰えると不満を募らせ、建武十七年(41年)に廃されて中山王太后となった。子の輔が中山王に、況は陽安侯に改封された。
  • 従兄の郭竟は新郪侯、竟の弟の匡は発干侯となり、叔父の婿陳茂も南䜌侯に封じられた。建武二十年(44年)に輔は沛王に徙封され、后は沛太后となった。
  • 建武二十六年(50年)母郭主が薨去、后自身は建武二十八年(52年)に薨じ北芒に葬られた。子の郭璜は淯陽公主を娶り、顕宗(明帝)即位後は陰識・陰就と並んで特進とされ厚遇を受けたが、永平二年(59年)に郭況が没した。
  • 元和三年(86年)郭璜の子・郭挙が侍中兼射声校尉となったが、竇憲の乱に連座して父子ともに獄死し、一族は合浦に徙された。竟の子孫も楚王英の獄に連座して国を失ったが、章帝・和帝の代に一部は再封された。郭氏で侯となった者は三人いたが、いずれも国を絶たれた。

史論

  • 寵愛の盛衰は人情の常であるが、その甚だしきは寵惑によって生じる。郭后は寵が衰えて廃されたが、なお別館で恩遇を受け、子孫も一族として礼を保ち、身を全うして世を終えた点は、後世に隆替の争いを残さなかったとして評価される。

隂皇后紀(光烈皇后)

  • 光烈陰皇后、諱は麗華、南陽新野の人。光武帝は若い頃、その美貌を聞いて心を寄せ、「仕官しては執金吾となり、妻を娶るなら陰麗華を」と語ったという。更始元年(23年)六月、宛にて后を娶った。
  • 光武帝の即位に伴い貴人となったが、郭氏に子があることを理由に自ら皇后の位を固辞し、郭皇后が立てられた。建武四年(28年)、彭寵討伐に従軍中、元氏で後の顕宗(明帝)を生んだ。
  • 建武九年(33年)、盗賊が后の母鄧氏と弟の陰訢を殺害する事件が起きた。光武帝はこれを悼み、后の譲を義とする詔を出した。
  • 建武十七年(41年)、郭皇后が廃されて陰貴人が皇后に立てられた。后は在位中つつましく、笑い戯れることを好まず、仁孝で情け深く、幼くして父を失ったことを終生涙して語ったという。
  • 顕宗即位後、皇太后となり、永平三年(60年)冬、章陵に行幸し旧宅で宴を開いた。永平七年(64年)崩じ、在位二十四年、年六十で原陵に合葬された。明帝は深く追慕し、永平十七年(74年)正月、原陵に詣でる前夜、先帝と太后の夢を見て涙し、太后の鏡台の遺品に触れて悲しみに沈んだという。

馬皇后紀(明徳皇后)

  • 明徳馬皇后、諱は伝わらず、伏波将軍馬援の末娘。幼くして父母を失い、兄の客卿も早世、母の藺夫人は病に伏したため、十歳にして家事を取り仕切った。占い師は后に「大貴の相があるが言葉にできぬほど貴い」と告げ、人相見も驚いて「貴くして子少なきも、養子によって実子以上の力を得るだろう」と評した。
  • 馬援が五渓蛮征伐中に没した後、梁松・竇固らの讒言で馬氏一族は勢力を失い、権貴の侵侮を受けた。従兄の馬厳は上書して、馬援の娘を後宮に入れることを願い出、后は太子宮に選び入れられた。陰皇后によく仕え、寵愛を受けた。
  • 顕宗(明帝)即位後、貴人となる。先の姉の娘賈氏も後宮に入り粛宗(章帝)を生んだが、后に子がなかったため養子として育て、慈しみ深く養育した。永平三年(60年)、皇太后の推挙により皇后に立てられた。
  • 身長七尺二寸、易・春秋・楚辞に通じ、周官・董仲舒書を好んだ。粗末な絹の衣を常用し倹約を旨とした。永平十五年(72年)、帝が地図を見て皇子への封地を諸国の半分と定めようとした際、后は「先帝の子と同列にすべきでない」との帝の考えを支持しつつも過度の倹約を諌めた。楚王英の獄が長引いた際は多数の減刑を導いた。
  • 帝崩後、粛宗(章帝)即位で皇太后となる。建初元年(76年)以降、外戚を封侯にすべきとの上奏が相次いだが、太后は前漢の外戚(王氏五侯・田蚡・竇嬰)の禍を引いて固辞し続けた。建初四年(79年)ようやく兄の馬廖・馬防・馬光を列侯としたが辞退を願わせた。
  • 太后は倹約を貫き、外戚が華美な車馬を用いれば譴責し、織室で養蚕を営むなど質実を旨とした。建初四年(79年)に崩じ、在位二十三年、年四十余で顕節陵に合葬された。
  • 賈貴人(南陽の人)は建武末に太子宮に選び入れられ、中元二年(57年)粛宗を生んだが、馬皇后が養母とされたため生母として顕位を得ることはなかった。

竇皇后紀(章徳皇后)

  • 章徳竇皇后、諱は伝わらず、扶風平陵の人。大司徒竇融の曾孫。祖父竇穆・父竇勲は事件に連座して死んだが、竇勲は東海恭王の娘沘陽公主を娶り、后はその長女。
  • 建初二年(77年)、妹とともに選ばれて長樂宮に入り、粛宗(章帝)の寵を受けて翌年皇后に立てられ、妹は貴人となった。建初七年(82年)、父竇勲は安成思侯と追諡された。
  • 后には子がなく、宋貴人の子劉慶(皇太子)と梁貴人の子劉肇(後の和帝)を妬み、誣告によって宋貴人を自殺に追い込み劉慶を廃太子とし、また偽の匿名書で梁竦を陥れて誅殺、梁貴人姉妹も憂いのうちに没した。
  • 章帝崩後、和帝即位で皇太后となり臨朝。兄の竇憲・竇篤・竇景が権勢を振るったが、永元四年(92年)陰謀が発覚し誅殺された。
  • 永元九年(97年)太后崩御に際し、梁貴人の姉が冤罪を訴え、太尉張酺らは呂太后の故事に倣い太后の尊号を貶すべきと上奏したが、和帝は手詔でこれを退け、合葬を認めた。在位十八年。
  • 梁貴人(和帝生母)は酷い死を遂げたことから、改めて承光宮に殯し、恭懐皇后と追諡された。

隂皇后紀(和帝皇后)

  • 和帝陰皇后、諱は伝わらず、光烈皇后の兄陰識の曾孫。聡慧で書芸に優れ、永元四年(92年)後宮に選ばれ貴人となり、永元八年(96年)皇后に立てられた。
  • 和熹鄧后(鄧綬)の入宮後、寵愛が衰え不満を募らせた。外祖母鄧朱の宮中出入りをきっかけに、永元十四年(102年)巫蠱の罪で告発され、獄死者を出す大獄となった。后は桐宮に遷されて憂いのうちに死去、在位七年。父の陰綱は自殺、一族は日南比景県に徙された。永初四年(110年)、鄧太后の詔により赦免され資財も返還された。

鄧皇后紀(和熹皇后)

  • 和熹鄧皇后、諱は綏、太傅鄧禹の孫、父は鄧訓(護羌校尉)、母は光烈皇后の一族の陰氏。五歳の時、祖母に誤って額を傷つけられても老人の心を思い痛みを言わなかったという逸話がある。六歳で史書を読み、十二歳で詩・論語に通じ、家事より学問を重んじたため母に叱られたが、学問を続けた。
  • 永元四年(92年)選抜を控え父鄧訓が没し、三年間喪に服し悲しみで面変わりするほどであった。夢占い・人相見はいずれも大貴の兆とした。永元七年(95年)後宮に選ばれ、翌年貴人となる。身長七尺二寸、容姿優れ、陰皇后によく仕え謙譲を旨とした。
  • 陰皇后の巫蠱事件を経て、永元十四年(102年)冬、皇后に立てられた(三度辞退の後)。即位後は贈物を禁じ倹約を徹底した。
  • 元興元年(105年)和帝崩御。生き残った皇子は少なく、生後百日の劉隆(殤帝)を立て、鄧后は皇太后として臨朝した。以後、法制の整備・冤罪の見直し・宮中費用の大幅削減・宦官や外戚の専横抑制など、数々の善政を行った。永初元年(107年)、母の新野君を諸侯王格で厚遇。
  • 殤帝の早世後、安帝を擁立してなお臨朝を続けた。永初年間には水旱・四夷の侵攻・盗賊の蜂起が相次いだが、太后は自ら食を減らして救済にあたり、天下は再び豊作に復したという。
  • 東観に学者を集めて典籍の校訂を行わせ、宗族・皇族の子弟に学問を修めさせるなど文教にも力を注いだ。永寧二年(121年)病篤くなり、在位二十年、年四十一で崩じ順陵に合葬された。

史論

  • 鄧太后は終身臨朝して号令を発し、周公が成王に政を返したような後継への還政を行わなかった点は非とされる。しかし建光年間(121年以降)の政権移譲後、佞臣が用いられ政治が乱れたことは、太后臨朝期の秩序の価値をかえって示すものである。太后が権を持ちつつ自らを責め国を憂えた姿勢、兄鄧騭の辞任・鄧鳳の自剃による謝罪など、身を慎む態度は評価されるが、杜根らへの処断はやや過酷であったとされる。