後漢書卷十下 后紀第十下 安思閻皇后・順烈梁皇后・孝崇匽皇后・懿獻梁皇后・孝桓鄧皇后・桓思竇皇后・孝仁董皇后・孝靈宋皇后・靈思何皇后・獻帝伏皇后・獻穆曹皇后

**安思閻皇后**:安帝の皇后(安思皇后)。諱は姫、河南滎陽の人。専房を妬み順帝の生母李氏を鴆殺し、安帝崩御後は兄弟と結んで少帝(劉懿)を擁立するなど専権を振るったが、孫程らのクーデターにより一族は誅滅され、太后自身も冷遇のうちに世を去った(在位十二年)。**順烈梁皇后**:順帝の皇后(順烈皇后)。諱は妠、大将軍梁商の娘(?–150年)。陽嘉元年に皇后に立てられ、順帝崩御後は沖帝・質帝・桓帝の三代にわたり皇太后として臨朝したが、兄梁冀の専横を抑えきれず天下の期待を失った。**孝崇匽皇后**:桓帝の生母(孝崇皇后)。諱は明、蠡吾侯劉翼の媵妾(?–152年)。桓帝即位後に博園貴人となり、和平元年に梁太后崩御を機に孝崇皇后に尊ばれた。**懿獻梁皇后**:桓帝の皇后(懿獻皇后)。諱は女瑩、順烈皇后の妹(?–159年)。梁太后・梁冀の専権のもと寵愛を独占したが、太后崩御後は寵が衰え、子のないことを恨み後宮の懐妊を妨げるなどした末、憂憤のうちに崩じた。**孝桓鄧皇后**:桓帝の皇后(孝桓皇后)。諱は猛女、和熹皇后の一族鄧香の娘。懿獻梁皇后崩御・梁冀誅殺後に皇后に立てられたが、郭貴人との寵愛争いの末、廃されて暴室で憂死した。**桓思竇皇后**:桓帝の皇后(桓思皇后)。諱は妙、章徳皇后の一族(?–172年)。桓帝崩御後は皇太后として臨朝し霊帝を擁立したが、父竇武の宦官誅滅の企てが露見して敗死し、太后自身も冷遇のうちに崩じた。**孝仁董皇后**:霊帝の生母(孝仁皇后)。解涜亭侯劉萇の夫人。霊帝即位後、慎園貴人から孝仁皇后に進み、竇太后崩御後は朝政に関与し売官により私財を蓄えた。何太后との対立の末、憂怖のうちに急死した(在位二十二年)。**孝靈宋皇后**:霊帝の皇后(孝霊皇后)。扶風平陵の人、章帝宋貴人の一族(?–178年)。寵愛を受けず、中常侍王甫らの誣告により巫蠱の罪を着せられ、廃されて憂死した。**靈思何皇后**:霊帝の皇后(霊思皇后)。南陽宛の人、屠者の家の出(?–189年)。皇子劉辯(少帝)の生母。王美人を鴆殺し、霊帝崩御後は皇太后として臨朝したが、兄何進の誅殺、董卓の入洛を経て廃立の混乱の中、董卓により鴆殺された。**獻帝伏皇后**:献帝の皇后。諱は寿、大司徒伏湛の八世孫(?–214年)。長安遷都に伴い貴人となり後に皇后に立てられた。曹操の専横に耐えかね父伏完に除去を謀らせたが露見し、曹操により廃位・幽閉されて崩じた。**獻穆曹皇后**:献帝の皇后(献穆皇后)。諱は節、魏公曹操の中女。伏皇后弑殺の翌年に皇后に立てられ、魏の受禅に際しては璽綬の引き渡しを拒み曹丕を厳しく責めた気概で知られる。

年表(30件)

閻皇后紀(安思皇后)

  • 安思閻皇后、諱は姫、河南滎陽の人。祖父閻章は永平年間に尚書を務めたが、二人の妹が貴人であったため要職には昇らなかった。父は閻暢。
  • 元初元年(114年)後宮に選ばれ寵愛を受け貴人、翌年皇后となる。専房の妬心強く、宮人李氏が皇子劉保(後の順帝)を生むと鴆殺した。
  • 父閻暢は北宜春侯となったが没し、子の閻顕が嗣ぐ。建光元年(121年)鄧太后崩御後、安帝が親政を始めると閻顕・閻景・閻晏兄弟が要職を占め禁兵を掌握、延光元年(122年)閻顕は長社侯に改封された。
  • 后は兄弟とともに大長秋江京・中常侍樊豊らと結び、皇太子劉保を廃して済陰王とした。延光四年(125年)安帝が行幸中に葉県で崩じると、閻顕・江京らは劉保の即位を恐れて崩御を隠し、偽って北郷侯劉懿(済北恵王の子)を皇帝に立てた(少帝)。
  • 閻顕は大将軍耿宝ら政敵を誣告して誅殺・流罪とし、権勢を極めたが、少帝が即位二百余日で病篤くなると、江京は済陰王擁立を進言、閻顕もこれに同意した。しかし少帝の薨去後、中黄門孫程らが江京を殺し済陰王(順帝)を擁立、閻顕兄弟一党は誅殺された。
  • 閻太后は離宮に遷され、一族は比景に徙された。翌年太后は崩じ、在位十二年、恭陵に合葬された。順帝の生母李氏は洛陽城北に埋葬されたまま知られていなかったが、太后崩御後にその事実が明かされ、順帝は改めて礼を尽くして恭愍皇后と諡し恭北陵に葬った。

梁皇后紀(順烈皇后)

  • 順烈梁皇后、諱は妠、大将軍梁商の娘、恭懐皇后(梁貴人)の弟の孫。生まれつき瑞祥の逸話があり、九歳で論語を誦し韓詩の大意を学び、常に列女図を身近に置いて自省した。父梁商は「積徳の家系ゆえこの娘によって家運が興るかもしれない」と語ったという。
  • 永建三年(128年)姑とともに後宮に選ばれ、十三歳。人相見・太史の占いはいずれも大貴の相とした。貴人となり、寵愛を受けても謙譲を旨とし、後宮の秩序を重んじる発言をしたことで帝の敬意を得た。
  • 陽嘉元年(132年)皇后に立てられた。聡明で前代の得失をよく理解し、驕慢な態度を取らず、日食・月食のたびに自ら省みて服を改めた。
  • 建康元年(144年)順帝崩御、子がなかったため虞美人の子劉炳(沖帝)が立てられ、梁后は皇太后として臨朝。沖帝が間もなく崩じると質帝を立てて引き続き政を執った。当時、揚州・徐州の賊乱、西羌・鮮卑・日南蛮夷の侵攻が相次いだが、太后は太尉李固ら忠良を登用し賢才を抜擢して国内を鎮めた。
  • しかし兄の大将軍梁冀が質帝を鴆殺して専権を振るい、李固を誅し桓帝を擁立するなど専横を極めた。太后も宦官への信任が過ぎ天下の期待を失った。和平元年(150年)桓帝に政を返し、間もなく病篤くなり、崩御に際し詔を残し在位十九年、年四十五で憲陵に合葬された。
  • 虞美人(沖帝生母)は良家の子から後宮に入り舞陽長公主を生んだが、梁冀の忌避により顕位を得られず「大家」と称されるにとどまった。陳夫人(質帝生母)も魏郡の人で声伎により孝王宮に入り質帝を生んだが同様に不遇であった。熹平四年(175年)小黄門趙祐・議郎卑整の上言により、虞美人は憲陵貴人、陳夫人は渤海孝王妃に追贈された。

匽皇后紀(孝崇皇后)

  • 孝崇匽皇后、諱は明、蠡吾侯劉翼の媵妾として桓帝を生んだ。桓帝即位の翌年、劉翼は孝崇皇と追尊され陵は博陵と号し、后は博園貴人となった。
  • 和平元年(150年)梁太后崩御を受け、博陵にて孝崇皇后に尊ばれ、永楽宮の制度に準じた待遇を受けた。在位三年、元嘉二年(152年)崩じ、東園画梓寿器・玉匣など恭懐皇后に準じる礼で葬られ、博陵に合葬された。

梁皇后紀(懿獻皇后)

  • 桓帝懿獻梁皇后、諱は女瑩、順烈皇后の妹。桓帝が蠡吾侯であった頃、梁太后は姉妹での婚姻を望んでいたが、質帝崩御を経て桓帝即位となったため、翌年改めて皇后に立てる議が起こされた。恵帝の故事に倣い黄金二万斤の聘礼を用いた盛大な婚儀であった。
  • 建和元年(147年)六月後宮に入り、八月皇后となる。梁太后・梁冀の専権のもと寵愛を独占し、後宮の奢侈は前代を上回った。太后崩御後は寵が衰え、子がないことを恨み後宮の懐妊を妨げたが、桓帝は梁冀を恐れて咎めなかった。延熹二年(159年)憂憤のうちに崩じ、在位十三年、懿陵に葬られたが、同年梁冀誅殺に伴い懿陵は貴人の墓に格下げされた。

鄧皇后紀(孝桓皇后)

  • 桓帝鄧皇后、諱は猛女、和熹皇后の一族鄧香の娘。母の宣は鄧香に嫁ぎ后を生んだ後、梁冀の妻孫寿の舅梁紀に再嫁したため、后も梁氏を冒姓した。梁冀の妻が后の美貌を見込み、永興年間に後宮に入り采女となった。
  • 翌年兄の鄧演が南頓侯となり、懿獻梁皇后崩御・梁冀誅殺の後、皇后に立てられた。桓帝は梁氏を嫌い薄氏と改姓させたが、後に鄧香の娘であることが明らかとなり鄧氏に復した。父鄧香は車騎将軍安陽侯を追贈され、母宣は昆陽君、兄鄧康は沘陽侯となるなど一族は厚遇を受けた。
  • しかし桓帝の寵愛が他の宮女に移り、郭貴人との讒訴合戦の末、延熹八年(165年)皇后は廃されて暴室に送られ憂死した。在位七年。一族も獄死・免官に処された。

竇皇后紀(桓思皇后)

  • 桓思竇皇后、諱は妙、章徳皇后の一族の孫。延熹八年(165年)鄧皇后廃位を受け貴人として入宮、その冬皇后となったが寵愛は薄く、桓帝は采女田聖らを寵愛した。
  • 永康元年(167年)桓帝崩御、跡継ぎがなかったため太后として臨朝し、解涜亭侯劉宏(霊帝)を擁立した。太后は田聖らへの怒りから桓帝の梓宮がまだ前殿にあるうちに田聖を殺害、他の貴人も誅殺しようとしたが中常侍管覇・蘇康の諫めで止めた。
  • 父の大将軍竇武は宦官誅滅を図ったが、中常侍曹節らの矯詔により竇武は殺され、太后は南宮雲台に遷され一族は比景に徙された。建寧四年(171年)霊帝は太后の擁立の功を認めて厚遇を続けたが、曹節・王甫の讒言により処遇は悪化し、熹平元年(172年)母の死を機に病を得て崩じた。在位七年、宣陵に合葬された。

董皇后紀(孝仁皇后)

  • 孝仁董皇后、諱は伝わらず、河間の人。解涜亭侯劉萇の夫人として霊帝を生んだ。建寧元年(168年)霊帝即位、劉萇は孝仁皇と追尊され陵は慎陵、后は慎園貴人となる。
  • 竇氏誅滅の翌年、京師に迎えられ孝仁皇后の尊号を受け、永楽宮に居して竇太后崩御後は朝政に関与し、売官により私財を蓄えた。中平五年(188年)甥の董重が驃騎将軍となる。
  • 自ら育てた皇子劉協(後の献帝)を太子に推したが、何皇后との対立が激化。霊帝崩御後、何太后が臨朝し、董重との権力争いの末、董重は自殺に追い込まれ、孝仁后も憂怖のうちに急死した。在位二十二年。世間は何氏を咎めたという。慎陵に合葬。

宋皇后紀(孝霊皇后)

  • 霊帝宋皇后、諱は伝わらず、扶風平陵の人、章帝宋貴人の一族。建寧三年(170年)後宮に選ばれ貴人、翌年皇后となる。父の宋酆は不其郷侯。
  • 寵愛を受けず、後宮の讒言にさらされた。中常侍王甫が勃海王劉悝とその妃宋氏(后の姑)を誣告して自殺・獄死に追い込んだ経緯から、后への怨みを恐れた王甫は太中大夫程阿と共謀し、后が巫蠱を行ったと誣告。光和元年(178年)璽綬を没収され暴室に幽閉され憂死した。在位八年、父兄も誅殺された。
  • 後に霊帝は桓帝の霊が現れ「宋皇后・勃海王悝に何の罪があって誅したのか」と怒る夢を見て恐れ、羽林左監許永に問うたところ、許永は無実を訴え改葬を勧めたが、霊帝は用いぬまま崩じた。

何皇后紀(霊思皇后)

  • 霊思何皇后、諱は伝わらず、南陽宛の人、家は屠者。後宮に選ばれ皇子劉辯(史侯)を生み貴人となった。光和三年(180年)皇后に立ち、翌年父何真は車騎将軍舞陽宣徳侯を追贈された。
  • 王美人が皇子(後の献帝)を懐妊すると后は薬で堕胎を図ったが果たせず、光和四年(181年)出産後に王美人を鴆殺、霊帝は激怒したが宦官の取りなしで廃后を免れた。劉協は董太后の元で育てられ董侯と称された。
  • 中平六年(189年)霊帝崩御、劉辯(少帝)即位で皇太后として臨朝。兄の大将軍何進は宦官誅滅を図るが逆に殺され、母舞陽君も乱兵に殺害された。董卓が入洛して少帝を廃し弘農王とし、劉協(献帝)を擁立。太后は幽閉の末、董卓により鴆殺された。在位十年、文昭陵に合葬。
  • 弘農王(劉辯)は翌年董卓の命で鴆酒を強要され自殺、悲歌を残した。妻の唐姫は再嫁を拒み、後に献帝により弘農王妃と認められた。
  • 王美人(献帝生母)は趙国の人、才知に優れ書計に通じ、後宮に選ばれた。後に美人を追慕した霊帝は追徳賦を作らせた。興平元年(194年)霊懐皇后と追諡され文昭陵に改葬、兄の王斌も執金吾都亭侯に封じられた。

伏皇后紀(献帝皇后)

  • 献帝伏皇后、諱は寿、琅邪東武の人、大司徒伏湛の八世孫。父伏完は不其侯を嗣ぎ、桓帝の娘陽安公主を娶った。初平元年(190年)長安遷都に伴い後宮に入り貴人、興平二年(195年)皇后となる。
  • 献帝の東遷の際、李傕・郭汜の追撃を受け、后は董承の従者に絹布を奪われ、側近が血を流す混乱の中を歩いて逃れた。建安元年(196年)父伏完は輔国将軍となるが、曹操を憚り印綬を返上した。
  • 曹操の専横に耐えかね、后は父伏完に密書を送り除去を謀らせたが実行されず、建安十九年(214年)事が露見。曹操は激怒し、皇后の廃位を強行、后は暴室に幽閉され崩じた。在位二十年、兄弟・宗族百余人が死罪となり、母ら十九人は涿郡に徙された。

曹皇后紀(献穆皇后)

  • 献穆曹皇后、諱は節、魏公曹操の中女。建安十八年(213年)姉妹三人が夫人として献上され、翌年貴人となる。伏皇后弑殺の翌年、皇后に立てられた。
  • 魏の受禅に際し璽綬の引き渡しを何度も拒み、使者を叱責して璽綬を投げつけ「天は汝を祚けまい」と涙したという。在位七年、魏成立後は山陽公夫人となり、四十一年後の魏景初元年(237年)に薨じ禅陵に合葬された。

史論

  • 漢代の皇后には本来諡がなく、帝の諡を冠して呼ばれた。呂后・上官太后も特別な号を持たなかったが、中興後の明帝が光烈の号を建てて以来、徳の字を配する慣例となり、賢愚を問わず一様に扱われるようになった(馬・鄧二后が共に「徳」を称する例)。庶母や藩王出身で皇統を継いだ者には特に別号が与えられた(恭懐・孝崇の類)。初平年間、蔡邕が和熹の諡を追正し、安思・順烈以下もこれに倣った。

  • 坤は厚く万物を載せ、女は内に位を正す。詩は好逑を美とし、易は帰妹を称える。歴代の皇后は貞淑をもって天禄を承け、蘭閨椒屋に礼を敷いた。徳によって昇る者も幸によって進む者もあり、その盛時には一族が河の潤いのように栄えたが、驕慢が過ぎれば禍を招き、その禍は自ら招いたものであった。

皇女・公主の一覧(付記)

  • 漢制では皇女はみな県公主に封じられ、儀服は列侯に准じた。特に尊崇される者は長公主の号を加えられ、儀服は藩王に准じた。諸王の娘は郷亭公主に封じられ儀服は郷亭侯に准じた。粛宗(章帝)は東平憲王蒼・琅邪孝王京の娘を特に県公主に封じた例がある。皇女が公主に封じられた場合、その子は母の封を襲って列侯となり世襲されたが、郷亭の封は世襲されなかった。以下、光武帝以降の皇女を列記する。

世祖(光武帝)五女(前段記載分含む)

  • 皇女義王:建武十五年(39年)舞陽長公主。延陵郷侯太僕梁松に嫁す。梁松は誹謗の罪で誅殺。
  • 皇女中礼:建武十五年(39年)湼陽公主。顕親侯大鴻臚竇固に嫁す。粛宗の代に長公主に進む。
  • 皇女紅夫:建武十五年(39年)館陶公主。駙馬都尉韓光に嫁す。韓光は淮陽王劉延の謀反に連座し誅殺。
  • 皇女礼劉:建武十七年(41年)淯陽公主。陽安侯長楽少府郭璜に嫁す。郭璜は竇憲の謀反に連座し誅殺。
  • 皇女綬:建武二十一年(45年)酈邑公主。新陽侯世子陰豊に嫁すが、豊が公主を殺害し誅死。

世祖(光武帝)五女(後段記載分)

  • 皇女姫:永平二年(59年)獲嘉長公主。楊邑侯将作大匠馮柱に嫁す。
  • 皇女奴:永平三年(60年)平陽公主。大鴻臚馮順に嫁す。
  • 皇女迎:永平三年(60年)隆慮公主。牟平侯耿襲に嫁す。
  • 皇女次:永平三年(60年)平氏公主。
  • 皇女致:永平三年(60年)沁水公主。高密侯鄧乾に嫁す。

顕宗(明帝)十一女

  • 皇女小姫:永平十二年(69年)平臯公主。昌安侯侍中鄧蕃に嫁す。
  • 皇女仲:永平十七年(74年)浚儀公主。軮侯黄門侍郎王度に嫁す。
  • 皇女恵:永平十七年(74年)武安公主。征羌侯世子黄門侍郎来稜に嫁す。安帝の代に長公主に進む。
  • 皇女臣:建初元年(76年)魯陽公主。
  • 皇女小迎:建初元年(76年)楽平公主。
  • 皇女小民:建初元年(76年)成安公主。
  • 皇女男:建初四年(79年)武徳長公主。
  • 皇女王:建初四年(79年)平邑公主。黄門侍郎馮由に嫁す。
  • 皇女吉:永元五年(93年)陰安公主。

粛宗(章帝)三女

  • 皇女保:延平元年(106年)修武長公主。
  • 皇女成:延平元年(106年)共邑公主。
  • 皇女利:延平元年(106年)臨潁公主。即墨侯侍中賈建に嫁す。
  • 皇女興:延平元年(106年)聞喜公主。

和帝四女

  • 皇女生:永和三年(138年)舞陽長公主。
  • 皇女成男:永和三年(138年)冠軍長公主。
  • 皇女広:永和六年(141年)汝陽長公主。

順帝三女

  • 皇女華:延熹元年(158年)陽安長公主。不其侯輔国将軍伏完に嫁す。
  • 皇女堅:延熹七年(164年)潁陰長公主。
  • 皇女修:延熹九年(166年)陽翟長公主。

桓帝三女

  • 皇女某:光和三年(180年)万年公主。

霊帝一女

  • (記載が途絶えており、詳細は不明。)