後漢書卷七 桓帝紀第七

孝桓皇帝(諱は志、132年–167年)。章帝の曽孫にあたる蠡吾侯翼の子で、質帝の急死を受け梁太后・大将軍梁冀に迎えられ十五歳で即位した。当初は梁太后が臨朝し梁冀が専権を握ったが、延熹二年(159年)に宦官と結んで梁冀を誅滅する。しかし代わって「五邪」と呼ばれた宦官が政を握り、李膺ら清流官僚を弾圧する党錮の禁を招いた。後漢衰亡の分水嶺となった皇帝である。

年表(22件)

出自と生い立ち

  • 孝桓皇帝、諱は志。粛宗(章帝)の曽孫。祖父は河間孝王開、父は蠡吾侯翼(順帝の時、開の上書により蠡吾県を分けて翼に封じた)、母は匽氏(諱明、もと蠡吾侯の媵妾)。翼が卒すると志は爵を襲い侯となった。本初元年(146年)、梁太后が帝を夏門亭に徴し妹を妻あわせようとしたところ、質帝が崩じたため、太后は兄の大将軍梁冀と禁中で策を定めた。閏月庚寅、冀に節を持たせ王青蓋車で帝を迎えて南宮に入れ、その日皇帝に即位した(年十五)。太后はなお臨朝政を執った。
  • 秋七月乙卯、孝質皇帝を静陵に葬った。斉王喜が薨じた。辛巳、高廟・光武廟を謁した。丙戌、孝廉・廉吏の選挙が乖錯し民を害していることを憂え、秩満百石で十年以上・殊才異行のある者に限り参選を許し、贓吏の子孫の察挙を杜絶する詔を下した。九月戊戌、皇祖河間孝王を孝穆皇、夫人趙氏を孝穆皇后と追尊した。冬十月甲午、皇母匽氏を孝崇博園貴人に尊んだ。

建和元年(147年)

  • 春正月辛亥朔、日食。三公九卿校尉に得失を言わせる詔を下した。戊午、大赦し吏に更労一歳分を賜い、男子に爵二級、父の後を継ぐ者・三老・孝悌力田に爵三級、鰥寡孤独篤癃貧者に粟五斛、貞婦に帛三匹を賜り、被災甚大な地の田租を免じた。二月、荆・揚二州で餓死者が多く、四府掾を分行させ賑給した。沛国から譙に黄龍が現れたと上言された。夏四月庚寅、京師で地震。大将軍・公卿校尉に賢良方正・直言極諫の士を各一人、列侯・将大夫御史謁者千石六百石・博士議郎郎官に上封事、大将軍・公卿郡国に至孝篤行の士を各一人挙げさせる詔を下した。
  • 壬辰、州郡が長吏を脅迫して駆逐することを禁じ、贓三十万を超えて糾挙しない刺史二千石は縦避の罪、擅に印綬を仮する者は殺人と同罪とする詔を下した。丙午、郡国繋囚を減死一等とし(謀反大逆を除く)、静陵の造営に徒作の刑を六月ずつ減じる詔を下した。この月、阜陵王代の兄で勃遒亭侯の便を阜陵王に立てた。郡国六箇所で地裂・水涌井溢(梁太后が李固・杜喬を枉殺したことに関連づけられた)。中黄蔵府に芝草が生えた。
  • 六月、太尉胡広が罷め、大司農杜喬が太尉となった。秋七月、勃海王鴻が薨じ(章帝の曽孫、楽安夷王寵の子、質帝の父。梁太后が勃海に改封していた)、帝の弟の蠡吾侯悝を勃海王に立てた。乙未、皇后梁氏を立てた。九月丁卯、京師で地震。太尉杜喬が免じた。冬十月、司徒趙戒が太尉、司空袁湯が司徒、前太尉胡広が司空となった。十一月、済陰から已氏に五色の大鳥(当時これを鳳凰の孽と解した)が現れたと上言された。戊午、天下の死罪を一等減じ辺境に徙した。清河の劉文が反し国相謝暠を殺し清河王蒜を天子に立てようとしたが発覚し誅せられ、蒜は尉氏侯に貶され桂陽に徙され自殺した。前太尉李固・杜喬は共に下獄死した(順帝末に「直如弦死道辺、曲如鈎反封侯」の童謡があったという。曲如鈎は梁冀・胡広ら、直如弦は李固らを指す)。陳留の盗賊李堅が皇帝を自称したが誅せられた。

建和二年(148年)

  • 春正月甲子、皇帝が元服した。庚午、大赦し、河間王建・勃海王悝に黄金各百斤、彭城王定ら諸国王に各五十斤、公主・大将軍・三公特進侯・中二千石以下、四姓及び梁鄧小侯の諸夫人以下に帛を差等して賜い、八十以上に米酒肉、九十以上にさらに帛二匹綿三斤を賜った。三月戊辰、帝は皇太后に従い大将軍梁冀の府に幸した。白馬羌が広漢属国を寇し長吏を殺したが益州刺史が板楯蛮を率い討破した。
  • 夏四月丙子、帝の弟顧を平原王に封じ孝崇皇の祀を奉じさせ、孝崇皇夫人馬氏を孝崇園貴人に尊んだ。大司農の帑蔵に嘉禾が生じた。五月癸丑、北宮掖廷中の徳陽殿及び左掖門で火災、車駕は南宮に移った。六月、清河を甘陵と改め、安平王得の子で経侯の理を甘陵王に立てた。秋七月、京師で大水。河東から木連理が上言された。冬十月、長平の陳景が皇帝子を自号し官属を設置し、南頓の管伯も真人を称し共に挙兵を図ったが、皆誅せられた。

建和三年(149年)

  • 春三月甲申、彭城王定が薨じた。夏四月丁卯、晦日の日食(梁太后が公卿を枉殺し天法を犯した応とされた)。五月乙亥、天が民を生じ君を立てて司牧させた道理と、日食を機に修徳すべきことを説く詔を下し、章帝建初元年の恩沢の故事に倣い、永建元年以来の妖悪連座者・減死徙辺者を本郡に帰す(没入者を除く)詔を下した。六月庚子、大将軍・三公特進侯・卿校尉に賢良方正・直言極諫の士を各一人挙げさせた。乙卯、憲陵の寝屋が震えた。
  • 秋七月庚申、廉県で肉が雨のように降った(法律を棄て功臣を逐う時の羊禍・赤眚の応とされ、梁太后専政・李固杜喬冤誅の世相と結びつけられた)。八月乙丑、彗星が天市に出現した。京師で大水。九月己卯、地震。庚寅、また地震があり、死罪以下・亡命者の贖罪を認める詔を下した。郡国五箇所で山崩れ。冬十月、太尉趙戒が免じ、司徒袁湯が太尉、大司農河内の張歆が司徒となった。
  • 十一月甲申、災眚連発と陰陽の錯序を憂え、京師の厮舎に死者が相枕し埋葬もされない状況を戒め、周文王が枯骨を掩った故事に倣い、貧しい死者に埋葬費を給し、無縁者は官地に葬り姓名を表識し祭祀させ、疾病の徒作者には医薬を、死亡者には厚く埋葬させ、流民には稟穀を科に応じ給する詔を下した。

和平元年(150年)

  • 春正月甲子、大赦し改元して和平とした。己亥、先帝(順帝)の早世を追想し、太宗の重みと嗣続の福を思い占卜により統業を定めたこと、四方の盗賊が未だ静まらぬため摂政を延ばしたが、股肱の助力(建和二年の陳景・管伯の反乱平定を指す)により残醜が消え、民和年豊となったため、周公が成王に政を復した故事、安帝の閻皇后(先姑)が政を還した先例に倣い、皇帝が親政(称制)することとし、群公卿士に一意力を尽くすよう求める詔を下した。
  • 二月、扶風の妖賊裴優(裴伯益の後裔とされる)が皇帝を自称したが誅せられた。甲寅、皇太后梁氏が崩じた。三月、車駕が北宮に移った。甲午、順烈皇后を葬った。夏五月庚辰、博園の匽貴人を孝崇皇后と尊んだ。秋七月、梓潼で山崩れ。冬十一月、天下の死罪を一等減じ辺境の戍に徙した。

元嘉元年(151年)

  • 春正月、京師で疾疫があり光禄大夫を遣わし医薬を巡行させた。癸酉、大赦し改元して元嘉とした。二月、九江・廬江で大疫。甲午、河間王建が薨じた。夏四月己丑、安平王得が薨じた(河間孝王開の子。もと楽成王で後に安平と改称)。京師で旱。任城・梁国で飢民が相食んだ。司徒張歆が罷め、光禄勲呉雄が司徒となった。秋七月、武陵蛮が叛いた。冬十月、司空胡広が罷めた。十一月辛巳、京師で地震。閏月庚午、任城王崇が薨じた。太常黄瓊が司空となった。

元嘉二年(152年)

  • 春正月、西域長史王敬が于闐国に殺された(敬が于闐王建を殺したため、その国人が敬を殺した)。丙辰、京師で地震。夏四月甲寅、孝崇皇后匽氏が崩じた。庚午、常山王豹が薨じた。五月辛卯、孝崇皇后を博陵に葬った。秋七月庚辰、日食。八月、済陰から句陽に黄龍が、金城から允街に黄龍が現れたと上言された。冬十月乙亥、京師で地震。十一月、司空黄瓊が免じた。十二月、特進趙戒が司空となった。右北平太守和旻が贓罪により下獄死した。

永興元年(153年)

  • 春二月、張掖から白鹿が現れたと上言された。三月丁亥、鴻池に幸した。夏五月丙申、大赦し改元して永興とした。丁酉、済南王広が薨じ嗣なく国を除いた。秋七月、郡国三十二箇所で蝗害、河水が溢れ百姓が飢窮流冗し数十万戸に及んだ(冀州が特に甚だしい)。所在の官に賑給・安慰を命じる詔を下した。冬十月、太尉袁湯が免じ太常胡広が太尉、司徒呉雄が罷め、司空趙戒が免じて太僕黄瓊が司徒、光禄勲房植が司空となった。十一月丁丑、天下の死罪を一等減じ辺境の戍に徙す詔を下した。是歳、武陵太守応奉が叛蛮を招誘し降した。

永興二年(154年)

  • 春正月甲午、大赦。二月辛丑、刺史二千石の三年喪服を初めて聴した。癸卯、京師で地震。公卿校尉に賢良方正・直言極諫の士を各一人挙げさせ、星辰の異変と輿服制度の過度な華飾を戒め、永平の故事に倣い節倹を務めさせる詔を下した。六月、彭城の泗水が増水し逆流した。司隷校尉・部刺史に、蝗災と水変・凶作を憂い、被災郡国に蕪菁を種えさせ食を助ける詔を下した。京師で蝗害、東海の朐山で山崩れ。
  • 九月丁卯朔、日食。朝政の失中による旱・水害・蝗害・日食を憂え、被害を免れた郡県に儲蓄と天下一家の心構えを求め、郡国の酒の販売と祠祀の濫費を禁じる詔を下した。太尉胡広が免じ、司徒黄瓊が太尉となった。閏月、光禄勲尹頌が司徒となった。天下の死罪を一等減じ辺境に徙した。蜀郡の李伯が宗室を詐称し太初皇帝を称したが誅せられた。冬十一月甲辰、上林苑で校猟し函谷関に至り、通過した道傍の九十以上に銭を賜った。太山・瑯邪の賊公孫挙らが反叛し長吏を殺した。

永寿元年(155年)

  • 春正月戊申、大赦し改元して永寿とした。二月、司隷・冀州で飢饉があり人が相食んだ。州郡に貧弱への賑給を命じ、積穀のある王侯吏民には十分の三を貣出させ稟貸を助けさせ、百姓吏民には現銭で酬いさせ、王侯には新租で償わせる詔を下した。夏四月、斉国に白烏が現れた。六月、洛水が溢れ鴻徳苑を壊した(梁冀の専政・忠良への害を暗示する記事とされる)。南陽で大水。司空房植が免じ、太常韓縯が司空となった。太山・瑯邪の被賊地の租賦を免じ更算を三年復す詔を下した。また水害による死者・行方不明者の収葬と、七歳以上の被害者への銭二千の賜与、貧困者への稟給二斛を命じる詔を下した。巴郡・益州郡で山崩れ。
  • 秋七月、太山・瑯邪都尉官を初めて置いた(賊が絶えないため)。南匈奴の左台且渠伯徳らが叛き美稷を寇したが、安定属国都尉張奐が討除した。

永寿二年(156年)

  • 春正月、中官(常侍以下)にも三年服を初めて聴した。二月甲申、東海王臻が薨じた。三月、蜀郡属国の夷が叛いた。秋七月、鮮卑が雲中を寇した。太山の賊公孫挙らが青・兖・徐三州を寇したが中郎将段熲が討破し斬った。冬十一月、太官右監丞官を置いた。十二月、京師で地震。

永寿三年(157年)

  • 春正月己未、大赦。夏四月、九真の蛮夷が叛き太守兒式が討伐中に戦没したため、九真都尉魏朗が撃破し日南を屯拠した。閏月庚辰、晦日の日食。六月、小黄門を守宮令とし、冗従右僕射官を初めて置いた。京師で蝗害。秋七月、河東で地裂。冬十一月、司徒尹頌が薨じた。長沙蛮が叛き益陽を寇した。司空韓縯が司徒、太常北海の孫朗が司空となった。

延熹元年(158年)

  • 春三月己酉、鴻徳苑令を初めて置いた。夏五月己酉、公卿以下を大会し賞賜を差等した。甲戌、晦日の日食。京師で蝗害。六月戊寅、大赦し改元して延熹とした。丙戌、中山を分けて博陵郡を置き孝崇皇の園陵を奉じさせた。大雩を行った。秋七月己巳、雲陽で地裂。甲子、太尉黄瓊が免じ、太常胡広が太尉となった。冬十月、広成で校猟しついで上林苑に幸した。十二月、鮮卑が辺境を寇したが、使匈奴中郎将張奐が南単于を率い撃破した。

延熹二年(159年)

  • 春二月、鮮卑が雁門を寇した。己亥、阜陵王便が薨じた。蜀郡の夷が蚕陵を寇し県令を殺した。三月、刺史二千石の三年喪を再び断つ制とした。夏、京師で雨水。六月、鮮卑が遼東を寇した。秋七月、顕陽苑を初めて造り丞を置いた。丙午、皇后梁氏が崩じ、乙丑懿献皇后として懿陵に葬った。大将軍梁冀が乱を謀ったため、八月丁丑、帝は前殿に御し司隷校尉張彪に兵を率い冀の邸第を囲ませ大将軍印綬を収めさせ、冀と妻は共に自殺した。衛尉梁淑・河南尹梁胤・屯騎校尉梁譲・越騎校尉梁忠・長水校尉梁戟ら中外の宗親数十人が皆誅せられた。太尉胡広は坐して免じ、司徒韓縯・司空孫朗は下獄した(宮を衛らなかった罪に坐したが、贖罪により減死一等とされた)。
  • 壬午、皇后鄧氏を立て、懿陵を廃して貴人冢と改めた。梁冀が奸暴により王室を濁乱し、孝質皇帝を毒殺し、永楽太后(帝の母)との親情を隔てさせたことを責め、中常侍単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡、尚書令尹勲らが激憤して策を建て梁冀を誅滅した功を称え、単超ら五人を県侯(単超新豊侯・徐璜武原侯・具瑗東武陽侯・左悺上蔡侯・唐衡汝陽侯)、尹勲ら七人を亭侯に封じる詔を下し、以後旧故恩私の者が多く封爵を受けた。大司農黄瓊が太尉、光禄大夫の中山の祝恬が司徒、大鴻臚梁国の盛允が司空となった。秘書監官を初めて置いた。
  • 冬十月壬申、長安に行幸し、乙酉未央宮に幸し、甲午高廟を祠った。十一月庚子、十一陵に事を行った。壬寅、中常侍単超が車騎将軍となった。十二月己巳、長安から還り、長安の民に粟十斛、園陵の人に五斛、行幸経路の県に三斛を賜った。焼当等八種の羌が叛き隴右を寇し、護羌校尉段熲が羅亭で追撃し破った。天竺国が使者を遣わし貢献した。

延熹三年(160年)

  • 春正月丙申、大赦。丙午、車騎将軍単超が薨じた。閏月、焼当羌が叛き張掖を寇し、護羌校尉段熲が積石で追撃し大破した。白馬令李雲が直諫の罪で下獄死した。夏四月、上郡から甘露が降ったと上言された。五月甲戌、漢中で山崩れ。六月辛丑、司徒祝恬が薨じた。七月、司空盛允が司徒、太常虞放が司空となった。長沙蛮が郡界を寇した。九月、太山・瑯邪の賊労丙らが再び叛き百姓を寇掠したため御史中丞趙某(史に名を欠く)を遣わし州郡兵を督させ討たせた。丁亥、無事の官の俸給を豊年並みに戻す詔を下した。
  • 冬十一月、日南の蛮賊が郡に降った。勒姐羌が允街を包囲したが段熲が撃破した。太山の賊叔孫無忌が都尉侯章を攻め殺したため、十二月中郎将宗資を遣わし討破した。武陵蛮が江陵を寇したが車騎将軍馮緄が討ち皆降散させた。荆州刺史度尚が長沙蛮を討ち平定した。

延熹四年(161年)

  • 春正月辛酉、南宮嘉徳殿で火災。戊子、丙署で火災。大疫。二月壬辰、武庫で火災。司徒盛允が免じ、大司農种暠が司徒となった。三月、冗従右僕射官を省いた。太尉黄瓊が免じた。夏四月、太常劉矩が太尉となった。甲寅、河間王開の子博を任城王に封じた。五月辛酉、彗星が心宿に出現した。丁卯、原陵の長寿門で火災。己卯、京師で雨雹があった(誅殺の過差・小人の寵愛の応とされた)。
  • 六月、京兆・扶風及び涼州で地震。庚子、岱山及び博の尤来山が共に崩壊した。己酉、大赦。司空虞放が免じ、前太尉黄瓊が司空となった。犍為属国の夷が百姓を寇鈔したが益州刺史山昱が撃破した。零吾羌が先零諸種と共に叛き三輔を寇した。秋七月、京師で雩を行った。公卿以下の俸給を減じ王侯に半租を貣し、関内侯・虎賁羽林・緹騎営士・五大夫の爵位の占賣を認め、代金を差等して徴収した。九月、司空黄瓊が免じ、大鴻臚劉寵が司空となった。冬十月、天竺国が使者を遣わし貢献した。南陽の黄武・襄城の恵得・昆陽の楽季が妖言を相署し誅せられた。先零沈氐羌が諸種羌と共に并・涼二州を寇した。十一月、中郎将皇甫規が撃破した。十二月、夫餘王が使者を遣わし貢献した。

延熹五年(162年)

  • 春正月、大官右監丞官を省いた。壬午、南宮丙署で火災。三月、沈氐羌が張掖・酒泉を寇した。壬午、済北王次が薨じた。夏四月、長沙賊が起こり桂陽・蒼梧を寇した(賊が蒼梧を攻め没し銅虎符を取り、太守甘定・刺史侯輔が城を奔出したという)。驚馬・逸象が宮殿に突入した。乙丑、恭陵(安帝陵)の東闕で火災。戊辰、虎賁掖門で火災。己巳、太学の西門が自壊した。五月、康陵(殤帝陵)の園寝で火災。長沙・零陵の賊が起こり桂陽・蒼梧・南海・交阯を攻めたが、御史中丞盛脩を遣わし州郡兵を督させても討ち勝てなかった。乙亥、京師で地震。公卿に上封事させる詔を下した。甲申、中蔵府丞禄署で火災。
  • 秋七月己未、南宮承善闥で火災。鳥吾羌が漢陽・隴西・金城の諸郡を寇したが討破した。八月庚子、虎賁羽林で住寺し不任事の者の俸給を半減し冬衣を与えない詔を下し、公卿以下も冬衣の半分とした。艾県の賊が長沙郡県を焼き益陽を寇し県令を殺した。零陵蛮もまた叛き長沙を寇した。己卯、瑯邪都尉官を罷めた。冬十月、武陵蛮が叛き江陵を寇し、南郡太守李粛が敗走の罪で棄市された。辛丑、太常馮緄を車騎将軍として討伐させ、公卿以下の俸給を仮出し、王侯の租を換え軍糧を助け、濯龍の中蔵銭を出して返還した。十一月、馮緄が叛蛮を武陵で大破した。京兆虎牙都尉宗謙が贓罪により下獄死した。滇那羌が武威・張掖・酒泉を寇した。太尉劉矩が免じ、太常楊秉が太尉となった。

延熹六年(163年)

  • 春二月戊午、司徒种暠が薨じた。三月戊戌、大赦。衛尉潁川の許栩が司徒となった。夏四月辛亥、康陵の東署で火災。五月、鮮卑が遼東属国を寇した。秋七月甲申、平陵(昭帝陵)の園寝で火災。桂陽の盗賊李研らが郡界を寇した。武陵蛮が再び叛いたが太守陳奉がこれを大破し降した。隴西太守孫羌が滇那羌を討破した。八月、車騎将軍馮緄が免じた。冬十月丙辰、広成で校猟しついで函谷関・上林苑に幸した。十一月、司空劉寵が免じた。南海の賊が郡界を寇した。十二月、衛尉周景が司空となった。

延熹七年(164年)

  • 春正月庚寅、沛王栄が薨じた。三月癸亥、鄠に隕石が落ちた。夏四月丙寅、梁王成が薨じた。五月己丑、京師で雨雹。秋七月辛卯、趙王乾が薨じた。野王山上に死龍があった。荆州刺史度尚が零陵・桂陽の盗賊及び蛮夷を撃ち大破し平定した。冬十月壬寅、南巡狩。庚申、章陵に幸し旧宅を祠り、園廟に事を行い、守令以下に賜与した。戊辰、雲夢に幸し漢水に臨み、還って新野に幸し、湖陽・新野公主、魯哀王、寿張敬侯の廟を祠った(光武帝の姉湖陽長公主・新野長公主、兄魯哀王、舅寿張敬侯樊重の廟。いずれも光武帝の時に立てられた)。護羌校尉段熲が当煎羌を撃破した。十二月辛丑、車駕が還宮した。

延熹八年(165年)

  • 春正月、中常侍左悺を苦県に遣わし老子を祠らせた。勃海王悝が謀反により廮陶王に降された。丙申、晦日の日食。公卿校尉に賢良方正の士を挙げさせる詔を下した。己酉、南宮嘉徳署に黄龍が現れたと言い、千秋万歳殿で火災。太僕左称が罪あり自殺した。癸亥、皇后鄧氏が廃された。河南尹鄧万世(鄧后の叔父)・虎賁中郎将鄧会(鄧后の兄の子)が下獄死した。護羌校尉段熲が勒姐羌を撃破した。
  • 三月辛巳、大赦。夏四月甲寅、安陵(恵帝陵)の園寝で火災。丁巳、郡国の諸房祀(祠堂)を壊した。済陰・東郡・済北で河水が清んだ。五月壬申、太山都尉官を罷めた。丙戌、太尉楊秉が薨じた。丙辰、緱氏で地裂。桂陽の胡蘭・朱蓋らが再び反し郡県を攻め没し零陵を転寇したが、零陵太守陳球が拒ぎ、中郎将度尚・長沙太守抗徐らが蘭・蓋を撃ち大破し斬った。蒼梧太守張叙が賊に捕らえられ、桂陽太守任胤が畏懦により敵に背いた罪で共に棄市された。
  • 閏月甲午、南宮長秋の和歓殿後・鉤楯・掖庭・朔平署で火災。六月、段熲が当煎羌を湟中で大破した。秋七月、太中大夫陳蕃が太尉となった。八月戊辰、郡国の田に畝ごとに税銭を初めて課した。九月丁未、京師で地震。冬十月、司空周景が免じ太常劉茂が司空となった。辛巳、貴人竇氏を皇后に立てた。勃海の妖賊蓋登らが太上皇帝を称し玉印・珪璧・鉄券を作り相署していたが皆誅せられた。十一月壬子、徳陽殿西閤・黄門北寺で火災が広義神虎門にまで延焼し人を焼き殺した。中常侍管霸を苦県に遣わし老子を祠らせた。

延熹九年(166年)

  • 春正月辛亥朔、日食。公卿校尉郡国に至孝の士を挙げさせる詔を下した。沛国の戴異が無文字の黄金印を得て、広陵人竜尚らと共に井を祭り符書を作り太上皇を称したため誅せられた。己酉、連年の凶作・水旱疾疫・盗賊による南州(長沙・桂陽・零陵ら荆州の郡)の困窮を憂え、大司農の今年の調度徴求と前年未納分の督促を停め、被災郡の租を免じ他郡は半分とする詔を下した。
  • 三月癸巳、京師で火光が現れ人が驚き騒いだ。司隷・豫州で餓死者が十のうち四五割に及び滅戸に至る所もあり、三府掾を遣わし賑稟した。陳留太守韋毅が贓罪に坐し自殺した。夏四月、済陰・東郡・済北・平原で河水が清んだ。司徒許栩が免じた。五月、太常胡広が司徒となった。六月、南匈奴及び烏桓・鮮卑が縁辺九郡を寇した。秋七月、沈氐羌が武威・張掖を寇した。武猛の士を三公各二人・卿校尉各一人挙げさせる詔を下した。太尉陳蕃が免じた。庚午、濯竜宮で黄老を祠った。使匈奴中郎将張奐を遣わし南匈奴・烏桓・鮮卑を撃たせた。
  • 九月、光禄勲周景が太尉となった。南陽太守成瑨・太原太守劉質が讒言により共に棄市された(小黄門趙津が犯法し質がこれを考殺したことに宦官が怨恚し、有司が旨を承け奏したもの)。司空劉茂が免じた。大秦国王(安敦)が使者を遣わし象牙・犀角・玳瑁を貢献した。冬十二月、洛城傍の竹柏が枯傷した。光禄勲汝南の宣酆が司空となった。南匈奴・烏桓が衆を率い張奐に降った。司隷校尉李膺ら二百余人が党人と誣られ、皆坐して下獄し名を王府に書された(河内の牢脩の告発による。事は劉淑伝に見える)。

永康元年(167年)

  • 春正月、先零羌が三輔を寇したが中郎将張奐が破り平定した。当煎羌が武威を寇したが護羌校尉段熲が鸞鳥で追撃し大破し西羌が悉く平定された。夫餘王が玄菟を寇し太守公孫域が撃破した。夏四月、先零羌が三輔を寇した。五月丙申、京師及び上党で地裂。廬江の賊が起こり郡界を寇した。壬子、晦日の日食。公卿校尉に賢良方正の士を挙げさせる詔を下した。六月庚申、大赦し党錮を悉く除き(李膺らが宦官の子弟を多く引いたため宦官が懼れ、天時により赦すべしと帝に請い許された)、改元して永康とした。丙寅、阜陵王統が薨じた。
  • 秋八月、魏郡から嘉禾生・甘露降、巴郡から黄龍が現れたと上言された(実際には濁った沱水を見て黄龍がいると戯れ合ったのが伝聞したものとされ、桓帝の政化衰缺と瑞応の多言を象徴する記事とされる)。六州で大水。勃海で海が溢れた。溺死者七歳以上に銭二千を賜い一家皆被害の者は収斂させ、亡失した穀食には三斛を稟する詔を下した。冬十月、先零羌が三輔を寇したが使匈奴中郎将張奐が撃破した。十一月、西河から白兎が現れたと上言された。十二月壬申、廮陶王悝を勃海王に復した。丁丑、帝が徳陽前殿で崩じた。年三十六。戊寅、皇后を皇太后と尊び、太后が臨朝した。是歳、博陵・河間二郡の租を豊沛の郷里同様に復した。

史論

  • 論じて言う。前史(東観記)は桓帝が音楽を好み琴笙に長じ、芳林を飾り濯竜宮を成して華蓋を設け浮図・老子を祠ったと伝える。これは神を頼りとする亡国の兆しに近いとする。梁冀を誅殺し天下は休息を期待したが、五邪(単超・徐璜・左悺・唐衡・具瑗)が引き続き専横し四方に害を流した。忠賢(李膺・陳蕃・竇武・黄瓊・朱穆・劉淑・劉陶ら)が力を尽くして諫争したからこそ、夏の相が斟灌・斟尋に依った故事や周の厲王が彘に流された故事のような亡国を免れられた、とする。

  • 賛に言う。桓帝は宗支より非次に天位に登った。政は五倖(五邪)に移り、刑は三獄(李固・杜喬・李雲・杜衆・成瑨・劉質の獄)に濫れた。後宮に美女を積んだが(三皇后を納れ更に宮女五六千人を採ったとされる)皇統を続けることはできなかった、とする。