後漢書卷五 安帝紀第五

恭宗孝安皇帝、諱は祐(94–125年)。章帝の孫で清河孝王慶の子。延平元年(106年)殤帝の崩御を受け鄧太后・鄧騭に迎えられ十三歳で即位し、鄧太后が長く臨朝した。在位中は西羌の反乱・水旱・地震など天災が相次ぎ、晩年は乳母王聖や宦官の専横で政治が乱れ、皇太子保(のちの順帝)を廃して済陰王とした。延光四年(125年)南巡狩の途上で崩御、享年三十二。

年表(13件)

出自と生い立ち

  • 恭宗孝安皇帝、諱は祐。粛宗(章帝)の孫で、父は清河孝王慶、母は左姫。邸第にあった頃、神光が室を照らし赤蛇が牀の間にわだかまる瑞兆が数度あったという。十歳で史書(周の史籒が作った文字学の書)を好んで学び、和帝にしばしば称賛され禁中に召された。延平元年(106年)、父慶が清河国に就いたため、鄧太后は祐だけを清河邸に留めた。八月、殤帝が崩じ、太后は兄の車騎将軍鄧騭と禁中で策を定め、その夜のうちに騭が節を持して王青蓋車で祐を迎え、殿中で斎させた。皇太后は崇徳殿に御し、群臣が陪位して長安侯に拝した(すぐに天子とせず侯に封じたのは、卑い身分から直ちに皇位に登ることを避けるためという)。太后は詔を下し、平原王(殤帝の兄勝)が持病のため立てられず、忠孝篤学の長安侯祐を孝和皇帝(和帝)の嗣として立てることを宣し、策命を読み終えて太尉が璽綬を奉上し、祐は皇帝に即位した(年十三)。太后はなお臨朝した。
  • 九月庚子、高廟を謁し、辛丑光武廟を謁した。六州で大水。己未、使者を遣わし被災の実情を調べさせ賑済した。丙寅、孝殤皇帝を康陵に葬った。乙亥、陳留に隕石が落ちた。西域諸国が叛き都護任尚を攻めたため、副校尉梁慬を遣わし撃破した。冬十月、四州で大水・雨雹があり、宿麦が実らなかったため貧民に賑賜した。十二月甲子、清河王慶が薨じ、司空・車騎将軍鄧騭を遣わし喪事を護らせた。乙酉、魚龍曼延などの百戯を罷めた。

永初元年(107年)

  • 春正月癸酉朔、大赦。蜀郡徼外の羌(龍橋等六種)が内属した。戊寅、犍為南部を分けて属国都尉を置き、司隷・兖・豫・徐・冀・并州の貧民に稟給した。二月丙午、広成の遊猟地と被災郡国の公田を貧民に貸与した。丁卯、清河国を分け帝弟の常保を広川王に封じた。庚午、司徒梁鮪が薨じた。三月癸酉、日食があり、賢良方正・有道術・直言極諫の士を各一人挙げる詔を下した。己卯、永昌徼外の僬僥種夷が貢献し内属した。甲申、清河孝王を葬った。
  • 夏五月甲戌、長楽衛尉魯恭が司徒となった。丁丑、北海王睦の孫で寿光侯の普を北海王に封じる詔を下した。九真徼外の夜郎蛮夷が内属した。六月戊申、皇太后の母陰氏を新野君に爵した。丁巳、河東で地陥。壬戌、西域都護を罷めた。先零種羌が叛き隴道を断って寇掠したため、車騎将軍鄧騭・征西校尉任尚を遣わして討たせた。丁卯、羌に相連結して謀叛した者の罪を赦した。
  • 秋九月庚午、三公に旧令を明申させ奢侈・厚葬を禁じる詔を下した。この日、太尉徐防が災異のため免ぜられた。辛未、司空尹勤が水害のため免ぜられた。癸酉、揚州五郡(九江・丹陽・盧江・呉郡・豫章)の租米を調発し、東郡・済陰・陳留・梁国・陳国・下邳・山陽に贍給した。丁丑、長吏が考問未決のまま父母の喪でもなく職を去ることを禁じる詔を下した。壬午、太僕・少府の黄門鼓吹を減らして羽林士に充て、乗輿以外の厩馬の食を半減し、宗廟園陵用以外の造作を停止する詔を下した。丙戌、死罪以下・亡命者の贖罪を差等して認めた。庚寅、太傅張禹が太尉、太常周章が司空となった。
  • 冬十月、倭国が使者を遣わし貢献した。辛酉、新城で山泉水が大出した。十一月丁亥、司空周章が廃立を密謀した罪により策免され自殺した。戊子、冀・并二州の刺史に、民の訛言による動揺を鎮め、帰郷を望む者には長檄を発給し強いないよう命じる詔を下した。十二月乙卯、潁川太守張敏が司空となった。是歳、郡国十八箇所で地震、四十一箇所で水害(あるいは山水暴至)、二十八箇所で大風雨雹があった。

永初二年(108年)

  • 春正月、河南・下邳・東萊・河内の貧民に稟給した(この年、州郡で大飢饉があり米価が高騰し人が相食んだという)。車騎大将軍鄧騭が冀県の西で種羌に敗れた。二月乙丑、光禄大夫樊準・呂倉を遣わし冀・兖二州を分行させ流民に稟貸させた。
  • 夏四月甲寅、漢陽の城中で火災があり三千五百七十人が焼死した。五月、旱。丙寅、皇太后が洛陽寺及び若盧獄に幸し囚徒を録し、河南尹・廷尉卿以下に賜与すると即日雨が降った。六月、京師及び郡国四十箇所で大水・大風雨雹があった。
  • 秋七月戊辰、天変を憂え、公卿郡国に賢良方正を挙げさせたが応対に卓抜な意見がなかったことを嘆く長い詔を下し、百僚・郡国吏人にも災異陰陽の術に明るい者を推挙させた。閏月辛丑、広川王常保が薨じ嗣なく国を除いた。癸未、蜀郡徼外の羌(薄申等八種)が挙って内属した。九月庚子、王・主の官属の墨綬以下・郎謁者について、経明で郷里に廉清孝順の誉れある者を国相が名を移し公府に通調させる詔を下した。
  • 冬十月庚寅、済陰・山陽・玄菟の貧民に稟給した。征西校尉任尚が先零羌と平襄で戦い敗績した。十一月辛酉、鄧騭を大将軍に拝して京師に召還し、任尚を隴右に留めた。先零羌の滇零が北地で天子を僭称し、三輔を寇し東は趙・魏、南は益州にまで及び漢中太守董炳を殺した。十二月辛卯、東郡・鉅鹿・広陽・安定・定襄・沛国の貧民に稟給した。広漢塞外の参狼羌が降り、広漢北部を分けて属国都尉を置いた。是歳、郡国十二箇所で地震。

永初三年(109年)

  • 春正月庚子、皇帝が元服し、大赦。王・主・貴人・公卿以下に金帛を、父の後を継いだ男子・三老・孝悌力田に爵二級、流民で占籍を望む者に爵一級を賜った。騎都尉任仁を遣わし先零羌を討たせたが不利で、羌はついに臨洮を破り陥れた。高句驪が使者を遣わし貢献した。
  • 三月、京師で大飢饉となり民が相食んだ。壬辰、公卿が闕に詣でて謝罪し、帝は幼くして政化を宣べられず陰陽を犯し百姓を飢荒させたのは自らの咎であるとし、群臣を責めない詔を下した。癸巳、鴻池を貧民に貸与し漁採を許した。壬寅、司徒魯恭が免ぜられた。
  • 夏四月丙寅、大赦。大鴻臚の九江の夏勤が司徒となった。三公は国用不足を理由に、銭穀を納めれば関内侯以下の爵位を得られる制を奏し許された。己巳、上林・広城苑の墾闢可能な地を貧民に賦与した。甲申、清河王虎威が薨じた。五月丙申、楽安王寵の子延平を清河王に封じた。丁酉、沛王正が薨じた。癸丑、京師で大風。六月、烏桓が代郡・上谷・涿郡を寇した。
  • 秋七月、海賊張伯路らが沿海九郡を寇略したため、侍御史龐雄を遣わし州郡兵を督させ討破した。庚子、長吏に宿麦・蔬食の栽培に務めさせ、貧者には種子・食糧を給する詔を下した。九月、雁門の烏桓・鮮卑が叛き、五原郡兵を高渠谷で破った。
  • 冬十月、南単于が叛き中郎将耿種を美稷で包囲したため、行車騎将軍何熙を遣わし討たせた。十二月辛酉、郡国九箇所で地震。乙亥、天苑の星域に彗星が出現した。是歳、京師及び郡国四十一箇所で雨水雹害があり、并・涼二州で大飢饉となり人が相食んだ。

永初四年(110年)

  • 春正月元日、饑饉のため朝会の楽を徹し充庭車を陳ねなかった。辛卯、三輔が寇乱に遭った民の三年分の逋租・過更・口算芻槀を除く詔を下し、上郡の貧民に稟給した。海賊張伯路が再び渤海・平原の劇賊劉文河・周文光らと厭次を攻め県令を殺したため、御史中丞王宗・青州刺史法雄を遣わし討破した。度遼将軍梁慬・遼東太守耿夔が南単于を属国故城で討破した。丙午、百官及び州郡県の俸給を差等して減らす詔を下した。二月丁巳、九江の貧民に稟給した。南匈奴が常山を寇した。乙丑、長安・雍二営都尉官を初めて置いた。
  • 乙亥、建初以来の祅言による連坐で辺境に徙された者を本郡に帰し、官奴婢に没入された者は庶人として免じる詔を下した。謁者劉珍及び五経博士に東観の五経・諸子伝記・百家芸術を校定させ、誤脱を正させた。
  • 三月、南単于が降った。先零羌が襃中を寇し漢中太守鄭勤が戦没したため、金城郡を襄武に徙した。戊子、杜陵園で火災。癸巳、郡国九箇所で地震。夏四月、六州で蝗害。丁丑、大赦。秋七月乙酉、三郡で大水。己卯、騎都尉任仁が下獄し死んだ。九月甲申、益州郡で地震。冬十月甲戌、新野君陰氏が薨じ、司空を遣わし喪事を護らせた。大将軍鄧騭が罷めた。

永初五年(111年)

  • 春正月庚辰朔、日食。丙戌、郡国十二箇所で地震。己丑、太尉張禹が免じ、甲申光禄勲李脩が太尉となった。二月丁卯、郡国の貢献・太官口食を省減する詔を下した。先零羌が河東を寇し河内にまで至った。三月、隴西を襄武に、安定を美陽に、北地を池陽に、上郡を衙に徙した。夫餘の夷が塞を犯し吏人を殺傷した。閏月丁酉、涼州河西四郡を赦した。
  • 戊戌、災異と寇賊蜂起・戎事不息・百姓困窮・蝗害を憂え、忠良を求める長い詔を下した。六月甲辰、楽成王廵が薨じた。秋七月己巳、三公・特進・九卿・校尉に列将の子孫で戦陣に明るく将帥たり得る者を挙げさせた。九月、漢陽の人杜琦・王信が先零諸種の羌と共に叛き上邽城を攻め陥れた。十二月、漢陽太守趙博が客を遣わし杜琦を刺殺させた。是歳、九州で蝗害、郡国八箇所で雨水。

永初六年(112年)

  • 春正月庚申、越嶲に長利・高望・始昌の三苑、益州郡に万歳苑、犍為に漢平苑を置く詔を下した。三月、十州で蝗害。夏四月乙丑、司空張敏が罷め、己卯太常劉凱が司空となった。五月、旱。丙寅、中二千石以下黄綬に至るまで秩・贖・爵を復す詔を下した。戊辰、皇太后が雒陽寺に幸し囚徒を録して冤獄を理した。
  • 六月壬辰、豫章の員谿原で山崩れ。辛巳、大赦。侍御史唐喜を遣わし漢陽の賊王信を討たせ斬った。冬十一月辛丑、護烏桓校尉呉祉が下獄死した。是歳、先零羌の滇零が死に、子の零昌が偽号を再び襲った。

永初七年(113年)

  • 春正月庚戌、皇太后が大臣・命婦を率いて宗廟を謁した。二月丙午、郡国十八箇所で地震。夏四月乙未、平原王勝が薨じた。丙申、晦日の日食。五月庚子、京師で大雩。秋、護羌校尉侯霸・騎都尉馬賢が先零羌を破った。八月丙寅、京師で大風、蝗虫が洛陽の上を飛び過ぎたため、民に爵を賜り、蝗害を受けた郡国の田租を軽減する詔を下した。
  • 九月、零陵・桂陽・丹陽・豫章・会稽の租米を調発し、南陽・広陵・下邳・彭城・山陽・盧江・九江の飢民に賑給した。さらに濱水の県穀を調して敖倉に輸送させた。

元初元年(114年)

  • 春正月甲子、改元して元初とし、民に爵、孝悌力田に爵三級を賜り、公乗を超える爵は子若しくは同産の子に移せることとし、民数のない流民で占籍を望む者に爵一級を、鰥寡孤独篤癃の貧者に穀・帛を賜った。二月己卯、日南で地坼。三月癸酉、日食。夏四月丁酉、大赦。京師及び郡国五箇所で旱蝗があり、敦厚質直の士を挙げさせた。五月、先零羌が雍城を寇した。六月丁巳、河東で地陥。秋七月、蜀郡の夷が蚕陵を寇し県令を殺した。
  • 九月乙丑、太尉李脩が罷めた。先零羌が武都・漢中を寇し隴道を絶った。辛未、大司農の山陽の司馬苞が太尉となった。冬十月戊子朔、日食。先零羌が涼州刺史皮陽を狄道で破った。乙卯、三輔の三年分の田租・更賦・口算を除く詔を下した。是歳、郡国十五箇所で地震。

元初二年(115年)

  • 春正月、三輔及び并・涼六郡の流冗貧人に稟給した。蜀郡の青衣道夷が貢献し内属した。西門豹が漳水を分けて開いた支渠を修理し民田を灌漑させた。二月戊戌、京師で客死し無縁の遺骸や棺槨の朽敗した者を収葬させ、貧しい遺族には銭を賜った。辛酉、三輔・河内・河東・上党・趙国・太原の旧渠を修理させ公私の田を灌漑させる詔を下した。三月癸亥、京師で大風。先零羌が益州を寇したため中郎将尹就を遣わし討たせた。夏四月丙午、貴人閻氏を皇后に立てた。
  • 五月、京師で旱、河南及び郡国十九箇所で蝗害。甲戌、七年に及ぶ蝗害を州郡が隠匿し実情を奏聞しなかったことを責め、三司の職務怠慢を糾しつつも盛夏のため寛容に処す詔を下した。六月丙戌、太尉司馬苞が薨じた。洛陽の新城で地裂。秋七月辛巳、太僕・太山の馬英が太尉となった。八月、遼東の鮮卑が無慮県を包囲し、九月には夫犂営を攻めて県令を殺した。壬午、晦日の日食。
  • 冬十月、中郎将任尚を三輔に屯させ、郡国中都官の繋囚を減死一等とし馮翊・扶風の屯田に赴かせる詔を下した。乙未、右扶風の仲光・安定太守杜恢・京兆虎牙都尉耿溥が先零羌と丁奚城で戦い大敗して皆没し、左馮翊司馬鈞は救援せず下獄自殺した。十一月庚申、郡国十箇所で地震。十二月、武陵澧中の蛮が叛いたが州郡がこれを撃破した。己酉、司徒夏勤が罷め、庚戌、司空劉愷が司徒、光禄勲袁敞が司空となった。

元初三年(116年)

  • 春正月甲戌、太原の旧溝渠を修理し官私の田を灌漑させた。東平陸で木連理の瑞が上言された。蒼梧・鬱林・合浦の蛮夷が反叛した。二月、侍御史任逴を遣わし州郡兵を督させ討たせた。郡国十箇所で地震。三月辛亥、日食。丙辰、蒼梧・鬱林・合浦・南海の賊に迫られた吏人を赦した。夏四月、京師で旱。五月、武陵蛮が再び叛いたが州郡が討破した。癸酉、度遼将軍鄧遵が南匈奴を率い先零羌を霊州で破った。越嶲徼外の夷が種を挙げて内属した。
  • 六月、中郎将任尚が先零羌を丁奚城で撃破した。秋七月、武陵蛮が再び叛いたが州郡が討平した。緱氏で地坼。九月辛巳、趙王宏が薨じた。冬十一月、蒼梧・鬱林・合浦の蛮夷が降った。丙戌、大臣・二千石・刺史に三年の喪を行うことを初めて聴す詔を下した(文帝以来の日を月に易える故事を改め古制に戻した)。癸卯、郡国九箇所で地震。十二月丁巳、任尚が先零羌を北地で撃破した。

元初四年(117年)

  • 春二月乙巳朔、日食。乙卯、大赦。壬戌、武庫で火災。夏四月戊申、司空袁敞が薨じた。己巳、鮮卑が遼西を寇したが遼西郡兵と烏桓が撃破した。五月丁丑、太常李郃が司空となった。六月戊辰、三郡で雨雹。秋七月辛丑、陳王鈞が薨じた。京師及び郡国十箇所で雨水があり、豊作を予期しつつ連雨に見舞われたことを憂え、酷吏を戒め養老の詔を実行させる長い詔を下した。九月、護羌校尉任尚が客を遣わし叛羌の零昌を刺殺させた。
  • 冬十一月己卯、彭城王恭が薨じた。十二月、越嶲の夷が遂久を寇し県令を殺した。甲子、任尚及び騎都尉馬賢が先零羌と富平の上河で戦い大破し、虔人羌が種を率いて降り隴右が平定された。是歳、郡国十三箇所で地震。

元初五年(118年)

  • 春正月、越嶲の夷が叛いた。二月壬戌、中山王憲が薨じた。三月、京師及び郡国五箇所で旱があり、被災貧民に稟給する詔を下した。夏六月、高句驪が穢貊と共に玄菟を寇した。秋七月、越嶲の蛮夷及び旄牛の豪が叛き長吏を殺した。丙子、永初以来の困窮に鑑み節約を求めたが奢侈が改まらないことを責める詔を下した。八月丙申朔、日食。鮮卑が代郡を寇し長吏を殺した。冬十月、鮮卑が上谷を寇した。十二月丁巳、中郎将任尚が罪により棄市された。是歳、郡国十四箇所で地震。

元初六年(119年)

  • 春二月乙巳、京師及び郡国四十二箇所で地震があり坼裂して水泉が湧出した。壬子、三府に掾属の優秀な者を、光禄勲・中郎将に清廉な孝廉郎を選ばせ令長丞尉に補する詔を下した。乙卯、月令に則り孤幼を養い貧窮を賑わせ貞女を表彰する詔を下し、鰥寡孤独に穀・帛を賜った。三月庚辰、洛城の西北に六宗の祀を初めて立てた。夏四月、会稽で大疫があり太医を遣わし治療させ田租口賦を除いた。沛国・渤海で大風雨雹。
  • 五月、京師で旱。六月丁丑、楽成王賓が薨じ、丙戌平原王得が薨じた。秋七月、鮮卑が馬城を寇したが度遼将軍鄧遵が南単于を率い撃破した。九月癸巳、陳王竦が薨じた。十二月戊午朔、日食既(皆既日食)。郡国八箇所で地震。是歳、永昌・益州・蜀郡の夷が越嶲夷と共に叛き長吏を殺し城邑を燔いたが、益州刺史張喬が討破し降した。

永寧元年(120年)

  • 春正月甲辰、任城王安が薨じた。三月丁酉、済北王寿が薨じた。車師後王が叛き部司馬を殺し、沈氐羌が張掖を寇した。夏四月丙寅、皇子保を皇太子に立て、改元して永寧とし大赦、王・主・三公列侯以下郎吏従官に金帛、民に爵・布粟を賜った。己巳、陳王羨の子崇を陳王、済北王の子萇を楽成王、河間王の子翼を平原王に封じた。壬午、瑯邪王寿が薨じた。
  • 六月、沈氐種羌が叛き張掖を寇したが護羌校尉馬賢が討破した。秋七月乙酉朔、日食。冬十月己巳、司空李郃が免じ、癸酉衛尉の盧江の陳襃が司空となった。三月以来この月まで、京師及び郡国三十三箇所で大風雨水があった。十二月、永昌徼外の撣国が使者を遣わし貢献した。戊辰、司徒劉愷が罷めた。遼西の鮮卑が降った。癸酉、太常楊震が司徒となった。是歳、郡国二十三箇所で地震。夫餘王が子を遣わし貢献した。焼当羌が叛いた。

建光元年(121年)

  • 春正月、幽州刺史馮煥が二郡太守を率い高句驪・穢貊を討ったが克てなかった。二月癸亥、大赦。園貴人・王主・公卿以下に銭布を差等して賜い、公卿校尉尚書の子弟一人を郎・舎人とした。三月癸巳、皇太后鄧氏が崩じた。丙午、和熹皇后として葬った。丁未、安楽王寵が薨じた。戊申、皇考清河孝王を孝徳皇、皇妣左氏を孝徳皇后、祖妣宋貴人を敬隠皇后と追尊した。
  • 夏四月、穢貊が再び鮮卑と遼東を寇し遼東太守蔡諷が戦没した。丙辰、広川を清河国に併せた。丁巳、孝徳皇の元妃耿氏を甘陵大貴人と尊んだ。甲子、楽成王萇が罪あり臨湖侯に廃された。己巳、有道の士を公卿以下に各一人挙げさせ、鰥寡孤独貧者に穀を賜る詔を下した。甲戌、遼東属国都尉龐奮が偽の璽書を承けて玄菟太守姚光を殺した。
  • 五月庚申、特進鄧騭及び度遼将軍鄧遵が乳母王聖・中黄門李閏らの讒言により共に自殺した。丙申、平原王翼を都郷侯に貶した。秋七月己卯、改元して建光とし大赦。壬寅、太尉馬英が薨じた。八月、護羌校尉馬賢が焼当羌を金城で討ち不利であった。甲子、前司徒劉愷が太尉となった。鮮卑が居庸関を寇し、雲中太守成厳がこれを撃ったが戦没した。鮮卑が烏桓校尉を馬城で包囲し、度遼将軍耿夔がこれを救った。戊子、衛尉馮石の邸に幸した。この秋、京師及び郡国二十九箇所で雨水があった。
  • 冬十一月己丑、郡国三十五箇所で地震・坼裂があり、三公以下に得失を上封事させ、光禄大夫を遣わし賑恤させ田租を除く詔を下した。鮮卑が玄菟を寇した。庚子、大臣・二千石以上の三年喪を再び復す詔を下した。癸卯、三公・特進・侯・卿・校尉に武猛で将帥たりうる者を各五人挙げさせた。丙午、水雨で稼を傷めた京師及び郡国の田租を軽減する詔を下した。甲子、漁陽営兵を初めて置いた。十二月、高句驪・馬韓・穢貊が玄菟城を包囲したが、夫餘王が子を遣わし州郡と力を合わせ討破した。

延光元年(122年)

  • 春二月、夫餘王が子(尉仇台)に兵を率いさせ玄菟を救わせ、高句驪・馬韓・穢貊を撃破しついで貢献させた。三月丙午、改元して延光とし大赦。徙された者を復籍し、民及び三老孝悌力田に爵二級、鰥寡孤独篤癃貧者に粟三斛、貞婦に帛二匹を賜った。
  • 夏四月癸未、京師及び郡国二十一箇所で雨雹。癸巳、司空陳襃が免じ、五月庚戌、宗正の彭城の劉授が司空となった。己巳、楽成国を安平国と改め、河間王開の子得を安平王に封じた。六月、郡国で蝗害。秋七月癸卯、京師及び郡国十三箇所で地震。高句驪が降った。虔人羌が叛き穀羅城を攻め、度遼将軍耿夔が討破した。
  • 八月戊子、陽陵の園寝で火災。辛卯、九真で黄龍が現れたと上言された(無功県)。己亥、清白で愛利の実ある刺史・二千石・令長相を無拘官簿で挙げる詔を下した。九月甲戌、郡国二十七箇所で地震。冬十月、鮮卑が雁門・定襄を寇した。十一月、鮮卑が太原を寇し、焼当羌の豪が降った。十二月、九真徼外の蛮夷が貢献し内属した。是歳、京師及び郡国二十七箇所で雨水・大風による死者を出し、壓死・溺死者に銭を賜い田租を軽減する詔を下した。虔人羌が反して穀羅城を攻めたが、度遼将軍耿夔が討破した。

延光二年(123年)

  • 春正月、旄牛夷が叛き霊関を寇し県令を殺したため、益州刺史・蜀郡西部都尉が討った。三署郎及び古文尚書・毛詩・穀梁春秋に通じた者を各一人選ぶ詔を下した。丙辰、河東・潁川で大風。夏六月壬午、郡国十一箇所で大風。九真で嘉禾(一本に多穂)が生じたと上言された。丙申、北海王普が薨じた。秋七月、丹陽で山崩れ。
  • 八月庚午、三署郎で経術に通じ牧民の任にあり視事三年以上の者を初めて察挙の対象とした。九月、郡国五箇所で雨水。冬十月辛未、太尉劉愷が罷め、甲戌司徒楊震が太尉、光禄勲の東莱の劉熹が司徒となった。十一月甲辰、上林苑で校猟した。鮮卑が南匈奴を曼柏で破った。是歳、蜀郡西部を分けて属国都尉を置いた。京師及び郡国三箇所で地震。

延光三年(124年)

  • 春二月丙子、東巡狩。丁丑、陳留太守に南頓君(光武帝の父)・光武皇帝を済陽で祠らせ、済陽の今年の田租芻槀を免じた。庚寅、使者を遣わし唐堯を成陽に祠らせた。戊子、済南から鳳皇が台県に集まったと上言され、台の長吏以下に帛や物を差等して賜い、鳳皇の通過した亭・郡は今年の田租を免じ、男子に爵二級を賜った。
  • 辛卯、太山に幸し柴を焚いて岱宗に告げた。斉王無忌・北海王普・楽安王延が来朝した。壬辰、汶上の明堂で五帝を宗祀し、癸巳二祖(高祖・光武)六宗(文帝以下の廟号)を告祀し、郡県を労賜し楽を作した。三月甲午、陳王崇が薨じた。戊戌、闕里で孔子及び七十二弟子を祀り、魯相以下・孔氏親属・婦女・諸生が悉く会し、襃成侯以下に帛を賜った。東平を経て東郡に還幸し、魏郡・河内を歴て壬戌京師に還り、太学に幸した。この日、太尉楊震が免じた。
  • 夏四月乙丑、車駕が入宮し祖禰に告げた。壬戌、沛国から豊県に甘露が降ったと上言された。戊辰、光禄勲馮石が太尉となった。五月、南匈奴の左日逐王が叛き、使匈奴中郎将馬翼が討破した。日南徼外の蛮夷が内属した。六月、鮮卑が玄菟を寇した。庚午、閬中で山崩れ。辛未、扶風から雍で白鹿が現れたと上言された。辛巳、侍御史を遣わし青・冀二州を分行させ災害を督録させた。
  • 秋七月丁酉、右校令・左校丞の官を初めて復した。日南徼外の蛮の豪帥が闕に詣で貢献した。馮翊から頻陽・衙で甘露が降ったと上言された。潁川から木連理・白鹿・麒麟が陽翟に現れたと上言された。鮮卑が高柳を寇した。梁王堅が薨じた。八月辛巳、大鴻臚耿宝が大将軍となった。戊子、潁川から麒麟一頭・白虎二頭が陽翟に現れたと上言された。九月丁酉、皇太子保が中常侍江京らの讒言により廃されて済陰王とされた。
  • 乙巳、郡国中都官の死罪繋囚の罪を一等減じる詔を下した。詔して敦煌・隴西及び度遼営に至らせ、右趾以下・亡命者の贖罪を差等して認めた。辛亥、済南から歴城に黄龍が現れたと上言された。庚申、晦日の日食。冬十月、長安に行幸した。壬午、新豊から西界亭に鳳皇が集まったと上言された。丁亥、三輔の守令・掾史を長安に会し楽を作させた。閏月乙未、高廟を祠り、十一陵に事を行い、上林・昆明池を歴観し、使者を遣わし太上皇を万年で、蕭何・曹参・霍光を中牢で祠らせた。十一月乙丑、長安から還った。十二月乙未、瑯邪から諸県に黄龍が現れたと上言された。是歳、京師及び諸郡国二十三箇所で地震、三十六箇所で雨水疾風雨雹があった。

延光四年(125年)

  • 春正月壬午、東郡から濮陽に黄龍二頭・麒麟一頭が現れたと上言された。二月乙亥、下邳王衍が薨じた。甲辰、南巡狩。三月戊午朔、日食。庚申、宛に幸したところ帝が不予となった。辛酉、大将軍耿宝に太尉事を行わせ、章陵の園廟を祠らせ、長沙・零陵太守に定王節侯・鬱林府君を祠らせた。乙丑、宛から還った。丁卯、葉に幸したところ、帝は乗輿の中で崩じた。年三十二。秘して発表せず、平生のとおり上食・問起居を行った。庚午、宮に還り、辛未の夕に至って初めて喪を発した。
  • 皇后(閻氏)を尊んで皇太后とし、太后が臨朝した。后の兄で太鴻臚の閻顕を車騎将軍とし、禁中で策を定め、章帝の孫で済北恵王寿の子北郷侯懿(一に犢とも)を立てた。甲戌、済南王香が薨じた。乙酉、北郷侯が皇帝に即位した。
  • 夏四月丁酉、太尉馮石が太傅、司徒劉熹が太尉・参録尚書事、前司空李郃が司徒となった。辛卯、大将軍耿宝・中常侍樊豊・侍中謝惲・周広、乳母の野王君王聖らが相阿党した罪に坐し、豊・惲・広は下獄死し、宝は自殺、聖は雁門に徙された。己酉、孝安皇帝を恭陵に葬り、廟号を恭宗とした。
  • 六月乙巳、大赦。先帝が巡狩し行幸した地は今年の田租の半分を免じる詔を下した。秋七月、西域長史班勇が車師後王を撃ち斬った。丙午、東海王粛が薨じた。冬十月丙午、越嶲で山崩れ。辛亥、少帝(北郷侯)が崩じた。この冬、京師で大疫があった。

史論

  • 論じて言う。孝安帝は帝位を称したが実権は鄧氏に帰し、自らは膳服を減じ政道に心を尽くしたものの、房帷(後宮・側近)の乱れにより威権は遠くまで及ばず、根本の統治を失った。晩年には政治が乱れ、銭穀を納めて官爵を得させる制度や、羌の侵寇を避けて郡を移す策を用いるに至った。天災の咎を三公(台衡)に帰したが、閻后(哲婦)の専権が国家を傾けたのだ、とする。
  • 賛に言う。安帝の徳は振るわず王道の規範を欠き、皇太子(済陰王保)を廃して邪悪の萌芽(江京ら)を開いた。馮石は寵愛を受け、楊震(楊公)は樊豊らの讒言に遭って怒りを買った。日(君道)は晦み、漢の命運はここから傾き始めた、とする。