後漢書卷一上 光武帝紀第一上

後漢の初代皇帝、光武帝(諱は秀、字は文叔)。前漢景帝の子孫にあたる南陽の豪族の家に生まれた。王莽末の動乱に乗じ兄劉伯升と挙兵し、更始政権のもとで昆陽の戦いに大勝、河北を平定して建武元年に皇帝に即位した。以後、赤眉・王郎・劉永・隗囂ら群雄の平定を進めた。

年表(16件)

出自と生い立ち

  • 世祖光武皇帝、諱は秀、字は文叔。南陽郡蔡陽県の人。高祖より九世の孫で、景帝の子・長沙定王発を経て、舂陵節侯買、鬱林太守外、鉅鹿都尉回、南頓令欽と続く家系に生まれた。九歳で父欽を失い、叔父劉良のもとで養われた。身長七尺三寸、鬚眉美しく口大きく鼻高く、額に日角の相があったという。稼穡に勤め、兄劉伯升は任侠を好み、光武の田事への勤しみを高祖の兄仲になぞらえて笑った。
  • 王莽の天鳳年間、長安に上って尚書を学び大義に通じた。天鳳末、天下が凶作と蝗害・盗賊に見舞われ、地皇三年(22年)、南陽が飢饉となり多くの賓客が小盗を働いたため、光武は新野に難を避け、宛で穀物を売った。南陽の李通らが図讖を以て「劉氏復起、李氏為輔」と説いたことから、光武は兄伯升と共に挙兵を謀り、十月、李通の従弟李軼らと宛で起兵した。時に年二十八。十一月、星が張宿に孛した。
  • 光武は賓客を率いて舂陵に還り、伯升と合流。新市・平林の兵(渠帥王鳳・陳牧)と合流して長聚を撃ち、光武は牛に乗り新野の尉を殺してようやく馬を得た。唐子郷・湖陽尉を殺し、軍中の分配を巡り不満が生じたが光武が私財を分与して鎮めた。棘陽を抜き、王莽の前隊大夫甄阜・属正梁丘賜と小長安で戦い大敗して棘陽に退いた。

更始元年(23年)

  • 正月甲子朔、漢軍は甄阜・梁丘賜と沘水西で再戦し大破してこれを斬った。伯升はさらに王莽の納言将軍厳尤・秩宗将軍陳茂を淯陽で破り宛城を包囲した。二月辛巳、劉聖公(更始帝)を天子に立て、伯升を大司徒、光武を太常偏将軍とした。三月、光武は別に昆陽・定陵・郾を平定し、穀数十万斛を得て宛の軍に転送した。
  • 王莽は甄阜・梁丘賜の死と漢帝擁立を聞いて大いに恐れ、大司徒王尋・大司空王邑に甲士四十二万を含む百万の兵を授けて派遣、五月潁川で厳尤・陳茂と合流させた。光武はかつて舂陵侯の租税訴訟の折に厳尤に見込まれていたが、尤は光武の勇を侮った。王莽軍は巨人巨無覇や虎豹犀象まで動員する空前の規模であった。
  • 光武は数千の兵で陽関に迎え撃とうとしたが、諸将は莽軍の勢いに恐れて昆陽に退いた。分散を退けた光武は、王鳳・王常に守備を委ね、自ら十三騎で城を出て諸営の兵を集め、郾・定陵の全軍を発した。王邑は厳尤の忠告を容れず昆陽を数十重に包囲し雲車を連ねて猛攻したが、王鳳らの降を許さなかった。
  • 六月己卯、光武は歩騎千余を率いて先鋒となり数十級を斬り、連戦連勝の後、敢死の士三千を率いて敵の中堅を衝いて王尋を討ち取った。城中も呼応して出撃し、莽軍は大潰走、大雷風で崩れ、溺死者・戦死者は数万に及び水路も塞がるほどであった(昆陽の戦い)。王邑・厳尤・陳茂は単騎で逃走し、光武軍は軍実・輜重・珍宝を尽く獲た。
  • 光武は潁陽を平定したが、その間に伯升が更始に殺害された。光武は父城から宛に馳せ参じ、深く自らを責めて昆陽の功を誇らず、兄の喪にも服さず平常を装った。更始はこれを恥じ、光武を破虜大将軍・武信侯とした。九月庚戌、三輔の豪傑が共に王莽を誅しその首を宛に伝えた。更始は洛陽への遷都に先立ち光武を行司隷校尉として先発させ、旧漢の官制・威儀を復した様子に洛陽の老吏は感涙した。
  • 更始は光武を破虜将軍行大司馬事として十月、節を持たせ黄河を渡らせ、州郡を鎮撫させた。至る所で漢の旧政を復し王莽の苛政を除いたため人々は喜び迎えた。邯鄲に至ると、故趙繆王の子劉林が「赤眉は水攻めで滅ぼせる」と説いたが光武は用いず、真定に去った。林は卜者王郎を成帝の子子輿と偽って擁立し、十二月、郎は邯鄲で天子を称し、諸郡国に降を促す使者を出した。

更始二年(24年)

  • 正月、光武は王郎の勢いを避けて薊に北行したが、王郎の懸賞(光武を捕らえた者に十万戸)を受けて広陽王の子劉接が薊で挙兵、混乱の中を南へ急ぎ、饒陽で邯鄲の使者を自称して食を得ようとしたが伝吏に見破られかけつつも脱出した。呼沱河を渡る際、白衣の老父の教えで信都に至り、太守任光の出迎えを受けて四千の兵を得た。堂陽・貰県、鉅鹿の和戎卒正邳彤、昌城の劉植、宋子の耿純らが相次いで降った。
  • 下曲陽を降し数万の帰順者を得て中山・盧奴を抜いた後、栢人で王郎の将李育に朱浮・鄧禹の一隊が敗れたが、光武自らこれを破った。広阿に至り、上谷太守耿況・漁陽太守彭寵が呉漢・寇恂らを援軍として派遣、更始も謝躬に王郎討伐を命じた。鉅鹿を包囲し四月に邯鄲を陥として王郎を誅し、郎との交通を疑われた文書数千通を焼き捨てて動揺を鎮めた。
  • 更始は光武を蕭王に封じ罷兵を命じたが、光武は河北未平を理由に応じず、これより更始との対立が始まった。当時、梁王劉永は雎陽、公孫述は巴蜀、李憲は淮南、秦豊は楚黎、張歩は琅邪、董憲は東海、延岑は漢中、田戎は夷陵にそれぞれ自立し、銅馬・大肜・尤来・青犢など多数の群盗が割拠していた。
  • 光武は銅馬を鄡で撃ち糧道を断って降し(「銅馬帝」の称の由来)、館陶で追撃し高湖・重連らも蒲陽で大破して降した渠帥を列侯に封じた。降者を分散配置してその心服を得、衆は数十万に達した。呉漢・岑彭は謝躬を鄴で襲殺し、光武は鄧禹に六裨将を率いさせ西進させて更始・赤眉の混乱に乗じさせた。更始は朱鮪・李軼らに洛陽を守らせ、光武は馮異に孟津を守らせた。

建武元年(25年)

  • 正月、平陵人方望が前孺子劉嬰を擁立したが更始の丞相李松に討たれた。光武は尤来・大搶・五幡を元氏・右北平で破ったが順水で反撃を受けて自ら崖から身を投げるほどの敗戦を喫し、王豊・耿弇に助けられ范陽に逃れた。安次で盛り返して漁陽の賊を潞東・平谷で撃滅し、朱鮪配下の蘇茂を温で馮異・寇恂が破った。
  • 諸将は帝位に即くことを勧め、馬武・耿純らが繰り返し進言、光武は再三固辞したが、南平棘・鄗に至り、旧友彊華が長安から「赤伏符」を奉じたことを機に、六月己未、鄗の南、千秋亭五成陌で皇帝に即位(燔燎・禋祀・望祭の礼を行う)。建元を建武とし、天下に大赦、鄗を高邑と改めた。同月、赤眉は劉盆子を天子に立てた。
  • 前将軍鄧禹が安邑で更始の定国公王匡を破り将劉均を斬った。七月、鄧禹を大司徒、王梁を大司空、呉漢を大司馬、景丹を驃騎大将軍、耿弇を建威大将軍、蓋延を虎牙大将軍、朱祐を建義大将軍、杜茂を大将軍に任じた。劉茂が降って中山王に封じられた。耿弇・陳俊らを滎陽以東に、呉漢・朱祐・岑彭・賈復・堅鐔ら十一将軍を洛陽の朱鮪包囲に派遣した。
  • 八月、社稷を祭り、高祖・太宗・世宗を懐宮に祠り、河陽に進んだ。更始の廩丘王田立が降った。九月、赤眉が長安に入り更始は高陵に奔った。更始を淮陽王に封じる詔を下し、その加害を大逆と同罪とした。卓茂を太傅とし、朱鮪が洛陽城を挙げて降った。冬十月癸丑、洛陽に入り南宮却非殿で朝を開き、洛陽を都と定めた。
  • 岑彭を荊州の群賊討伐に派遣、劉永は雎陽で天子を自称した。十二月、赤眉が更始を殺し、隗囂は隴右に拠り、盧芳は安定に挙兵した。破虜大将軍叔寿は曲梁で五校賊と戦い戦没した。

建武二年(26年)

  • 正月甲子朔、日食があった。呉漢が檀郷賊を鄴東で大破。庚辰、功臣を列侯に封じ大国は四県、それ以外は差をつけた。博士丁恭が「古制百里の規定に反する」と諫めたが、光武は「功臣で地が多く滅んだ例はない」として封を通した。壬午、更始の鄧曄・于匡が降り旧爵を復した。
  • 壬子、高廟を起こし洛陽に社稷を建て城南に郊兆を立て、火徳・赤色を正式に定めた。同月、赤眉が長安宮室を焼き園陵を発掘して関中を掠奪、大司徒鄧禹が長安に入り高祖以下十一帝の神主を高廟に納めた。真定王楊・臨邑侯讓の謀反を耿純が誅した。
  • 二月、修武に幸した。大司空王梁を免じ宋弘を後任とした。景丹・祭遵らが弘農の賊を破り、蠻中の張満を包囲した。漁陽太守彭寵が反し朱浮を薊で攻め、延岑は漢中で武安王を自称した。三月、大赦し刑罰緩和を議した。賈復が更始の郾王尹遵を破り降した。劉植は密の賊討伐で戦没。蓋延ら四将軍が劉永討伐に向かい、四月、雎陽を包囲した。
  • 甲午、叔父劉良を広陽王、兄の子章を太原王、興を魯王、伯升の嫡子祉を城陽王に封じた。五月、更始の元氏王歙を泗水王、真定王楊の子徳を真定王、周の後裔姫常を周承休公に封じた。六月戊戌、貴人郭氏を皇后、子彊を皇太子とした。秋八月、五校討伐に自ら出陣し内黄で大破、鄧隆は潞で彭寵に敗れたが蓋延は雎陽を抜き劉永は譙に奔った。鄧奉は淯陽で反した。
  • 九月、驃騎大将軍景丹が薨じ、岑彭が杜陵で赤眉を大破。関中は飢饉で人相食むに至った。十一月、岑彭を征南大将軍として鄧奉討伐に八将軍を派遣した。銅馬・青犢・尤来の残党が孫登を上郡で天子に擁立したが、その将楽玄が登を殺して五万余で降った。馮異が鄧禹に代わり赤眉討伐にあたり、伏隆を青徐に派遣し張歩を招降させた。十二月、王莽に廃された宗室の復爵を命じ、蓋延らが劉永を沛西で破った。是歳、王莽末の飢饉から一転、野生の穀・麻豆が豊作となり野蚕の繭が山野に満ちた。

建武三年(27年)

  • 正月、馮異を征西大将軍、杜茂を驃騎大将軍とした。鄧禹・馮異は赤眉と回溪で戦い敗れたが、祭遵が蛮中を破り張満を斬った。皇考以下四廟を立てた。閏月、鄧禹は罷免され、馮異は崤底で赤眉を大破、赤眉の残衆は宜陽に向かった。
  • 光武は自ら六軍を率いて宜陽に至り大陣を敷いた。赤眉は震え降を乞い、丙午、面縛して高皇帝の璽綬を献じた。光武はこれを城門校尉に付し、高廟を祠らせ長子を父の後継とする者に爵一級を賜った。劉永は董憲を海西王、張歩を斉王に立てたが、張歩は光禄大夫伏隆を殺して反した。
  • 呉漢が青犢を軹西で大破、彭寵は薊城を陥として燕王を自称した。光武自ら鄧奉討伐に赴き小長安で大破し斬った。馮異は延岑を上林で破り、呉漢は劉永の将蘇茂を広楽で大破、蓋延は雎陽を包囲した。六月、耿弇は延岑を穰で大破。七月、岑彭は秦豊を黎丘で大破した。
  • 男子八十以上・十歳以下や婦人の連座の緩和、女徒の雇山帰家など詔を発した。蓋延が雎陽を抜き劉永を獲、その将蘇茂・周建が劉永の子紆を梁王に立てた。十月、舂陵の旧宅で故人父老を饗した。涿郡太守張豊が反し、李憲は天子を自称、隗囂が西州大将軍に任じられた。朱祐・祭遵が延岑を東陽で破り将張成を斬った。

建武四年(28年)

  • 二月、懐に幸した。鄧禹が延岑を武当で破った。四月、鄴・臨平に幸し、呉漢が五校賊を箕山で大破した。五月、元氏・盧奴に幸し、祭遵らが張豊を涿郡で討ち斬った。七月、譙に幸し、馬武・王覇が劉紆を垂惠で包囲、董憲の将賁休が蘭陵を挙げて降ったが憲に包囲され、蓋延・龎萌の救援も及ばず陥落した。
  • 八月、寿春に幸した。太中大夫徐惲が擅殺の罪で誅された。馬成が李憲を舒で包囲した。十月、太傅卓茂が薨じた。十一月、宛に幸し、朱祐が秦豊を黎丘で包囲した。是歳、征西大将軍馮異が公孫述の将程焉を陳倉で破った。

建武五年(29年)

  • 正月、二月大赦。馬武・王覇が垂惠を抜いた。殷の後裔孔安を殷紹嘉公に封じた。彭寵はその蒼頭(奴僕)に殺され漁陽が平定された。呉漢・耿弇が富平・獲索賊を平原で大破、耿弇はさらに張歩討伐に向かった。三月、広陽王良を趙王に徙し、龎萌が楚郡太守孫萌を殺して董憲に走った。岑彭が田戎を津郷で大破。河西大将軍竇融が初めて貢献を送った。
  • 六月、朱祐が黎丘を抜き秦豊を獲た。龎萌・蘇茂が桃城を包囲したが光武自ら征討し大破した。七月、沛に幸し高原廟を祠り、西京の園陵修復を命じた。董憲を昌慮で大破。八月、郯に幸し、呉漢がついに劉紆を獲、董憲・龎萌を朐で包囲した。十月、魯に還幸し孔子を祠らせた。耿弇らが張歩を臨淄で大破、張歩は蘇茂を斬って降り斉地が平定された。太学を初めて起こした。
  • 十一月、大司徒伏湛が免ぜられ侯覇が後任となった。十二月、盧芳が九原で天子を自称、隗囂が子恂を人質に送り、交阯牧鄧譲が七郡太守を率いて貢を奉じた。済陽の徭役二年を免じた。是歳、野生の穀物が次第に減り、田畑が広がっていった。