後漢演義第九十八回 司馬師は権を専らにし廃立を行い、毋丘倹は策を誤り敗亡を招く (司馬師擅權行廢立 毋丘儉失策致敗亡)

諸葛恪の暗殺

  • 諸葛恪は宮中の宴で毒を警戒して飲酒を渋ったが、孫峻に持参の薬酒を勧められ油断する。孫峻は如厠と称して着替え、刃を懐に戻り「詔により諸葛恪を捕える」と叫んで斬殺。同席の張約も殺され、居合わせた者は一旦驚いて逃げたが、孫峻は「罪は恪のみ」と告げて場を収めた。
  • 諸葛恪の遺体は席で包んで城外に捨てられ、妻子も追捕の末に処刑、甥や側近も連座して三族皆殺しとなった。臨淮の臧均の願いで遺体だけは埋葬を許された。童謡が事前にこの顛末を予言していたと語られる。
  • この功で孫峻は丞相・大将軍・都督中外諸軍事・富春侯となる。太常滕胤は諸葛恪の姻戚だが連座を免れ高密侯に進む。南陽王和は諸葛恪の甥女を妃としていた縁で追及され、自尽を迫られる。妃張氏も夫に殉じたが、妾何氏は子を育てるため生き残った(その子孫皓が後に呉の末代皇帝となる)。

李豊・夏侯玄らの司馬師誅殺計画とその失敗

  • 魏では曹芳の治世が続くが実権は司馬氏に握られる。司馬懿は死の直前まで王凌・令狐愚を粛清し諸王を鄴に軟禁するなど締め付けを強めていた。
  • 司馬師が輔政を継ぐと権勢はさらに強まり、曹芳は不満を募らせる。中書令の李豊は夏侯玄と親しく、曹爽の縁座で兵権を失った夏侯玄の恨みを背景に、司馬師打倒を密議。李豊の子韜は斉長公主の婿として宮廷に出入りし、曹芳とも通じていた。
  • 嘉平六年、李豊は張緝(曹芳の后の父)らと結び、司馬師誅殺と夏侯玄・張緝の登用を企てたが、計画は漏れて司馬師の知るところとなる。
  • 呼び出された李豊は司馬師を面罵して即座に撲殺され、夏侯玄・張緝も捕らえられて刑死。李豊の子韜も処刑、一党は三族皆殺しとなった。
  • 司馬師はさらに宮中に入り、曹芳の后(張緝の娘)を廃后とし、まもなく暴死させた。曹芳は仕方なく王氏を新たな后に立てた。

曹芳の廃位と曹髦の即位

  • 姜維の再度の北伐を機に司馬師は弟司馬昭を召し、これに乗じて曹芳側近が司馬昭暗殺を謀るが露見せず終わる。関係者の許允は謫戍の途中で暗殺された。
  • 司馬師は群臣を集め「主上は荒淫無道」と廃立を提起。群臣は伊尹・霍光の故事を挙げて追従し、上表に署名させられる。郭太后への奏上に対し、大鴻臚郭芝は太后に半ば脅迫的に廃位を通告し、曹芳は斉王に格下げされ旧藩へ退去させられた。
  • 太后は司馬師の意向に反し、高貴郷公曹髦(文帝の孫)の擁立を提案。司馬師もこれを容れ曹髦を洛陽に迎える。14歳の曹髦は礼を弁えた振る舞いで人々を感心させ、即位して正元元年と改元、大赦を行った。司馬師には黄鉞を仮し破格の待遇を与えた。

毋丘儉・文欽の挙兵とその敗北

  • 揚州都督毋丘儉と刺史文欽が、曹芳廃位を大義名分に挙兵。両者とも夏侯玄・李豊や曹爽と縁の深い人物であった。郭太后の密詔を偽って檄を飛ばし、司馬師打倒を掲げた。
  • 病を押して司馬師自ら出征。荊州刺史王基の進言で南頓城を先に確保し、鄧艾も味方につけて毋丘儉の使者を斬るなど強硬姿勢を示す。
  • 文欽の子文鴦(18歳)は勇猛で、夜襲で司馬師の陣に迫り病身の司馬師を苦しめたが、父欽の合流が遅れ撤退。追撃してきた司馬班の軍を撃退し、単身で奮戦する武勇を示した。
  • 呉が乗じて寿春を突いたため毋丘儉は撤退を余儀なくされ、文欽父子も孤立して逃走、最終的に毋丘儉は射殺され、文欽は呉に投降した。
  • 司馬師は淮南を平定するが目の腫瘍が悪化し、幻覚に苦しみながら許昌で死去。弟司馬昭が印綬を継ぎ、独断で洛陽に戻って実権を握った。

姜維の再北伐と鄧艾の予見

  • 蜀の姜維は司馬師の死を機に再出兵し、洮西で魏の王経を大破するが、張翼の忠告を退けて狄道を攻め、陳泰・鄧艾の来援で撤退を余儀なくされる。
  • 鄧艾は蜀軍が再度必ず攻めてくる五つの理由を的確に分析し(勝勢に乗じる、将の交代に乗じる、水路の利、四方防備の分散、食糧確保の便)、諸将を感心させた。
  • 翌年、姜維は再び北伐するが鄧艾に先回りされ武城山で阻まれ、上邽への迂回中に段谷で伏兵に遭い大敗。援軍の胡済も遅れ、夏侯覇の救援でようやく脱出。姜維は敗戦の責を取り後将軍に降格したが、なお大将軍としての実務は続けた。

小子有詩曰く「陣雲擾擾起神州、未壹輿圖戰不休、漢土三分數十載、可憐屍血滿江流」(戦雲がしきりに沸き起こり、天下統一ならぬまま戦い止まず、三国分立数十年、哀れ血肉が川を満たす)。

評語

  • 曹操が伏皇后を廃したのに続き、司馬師も張皇后を廃し、さらに皇帝曹芳まで廃した。前代より悪辣さが増している。天は巡り、報いは倍返しになるという道理を人々は心に留めるべきである。
  • 毋丘儉らの挙兵は史書でも評価されるが、志に才が及ばず失敗に終わった。子の毋丘甸は父に殉じられず一族処刑され、文欽の子文鴦は勇はあるが父に謀がなく、事は成らなかった。天が司馬氏によって曹魏を覆そうとしている以上、毋丘儉の討伐は成功しようがなかったのである。