後漢演義第九十五回 王子均が正論を述べ乱を平げ、公孫淵は戦に敗れ捕らわれる (王子均昌言平亂 公孫淵戰敗受擒)

死せる孔明、生ける仲達を走らす

楊儀・姜維は諸葛亮の遺命に従い喪を伏せて撤退する。追撃してきた司馬懿は蜀軍が反転する構えを見せると驚いて退き、蜀軍が実際に撤退したと知り再び追うが及ばない。世人は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と噂し、司馬懿も「生きている者は予測できても、死んだ者までは読めなかった」と自嘲しつつ、蜀軍の陣立ての見事さに「孔明は天下の奇才」と嘆じた。

魏延の反乱と誅殺

撤退中、魏延が殿軍を拒み、楊儀を認めず兵符を渡すよう強要、両者は互いに謀反を訴え合う上表を後主に送る。蔣琬・董允は楊儀を支持し、後主も諸葛亮の遺策を信じて静観する。楊儀は姜維の献策で間道から魏延の背後に回り、王平が魏延の兵を説得して離反させる。魏延は敗走し馬岱に討たれ、楊儀は魏延の首を足蹴にして三族誅滅を上表する(地の文は「魏延は謀反の意図ではなく楊儀への私怨から蜀を奪おうとしたに過ぎない」と評す)。

諸葛亮の遺表と諡

蔣琬が事態収拾に動き、楊儀らは諸葛亮の遺骸を成都に運び、後主自ら出迎えて哭礼を行う。楊儀が奉呈した遺表には、清廉な政治と賢良の登用を願う言葉と共に、私財が桑八百株・田十五頃のみで蓄財しなかった旨が記される。諸葛亮は定軍山に葬られ、「忠武侯」の諡を賜る。後に廟が建てられ祭祀が続く。

蔣琬・費禕の政権と楊儀の末路

蔣琬が尚書令、後に大将軍となり国政を統括、費禕が尚書令に就く。呉との関係は宗預の使者としての機知(「呉が巴丘に増兵するなら蜀も白帝城に増兵するのは当然」)により良好に保たれる。楊儀は左遷への不満から「丞相の死後すぐ魏に投降すればよかった」と失言し、費禕の告発により庶人に落とされ、なおも上書して誹謗したため投獄され自殺する。蔣琬・費禕は諸葛亮の路線を守り、蜀は安定を保つ。

曹叡の放縦と宮廷の乱れ

魏の曹叡は宮殿の造営に耽り、陳群・辛毗・楊阜らの諫言も聞き流す。火災を機に九竜殿を築き、指南車を作らせ、後宮に美貌の女官を集め、跡継ぎに恵まれぬまま宗室から養子(曹芳・曹詢)を迎える。毛皇后は寵を失い、郭夫人との確執の末、鴆酒を賜り自害に追い込まれる(甄氏に続く二人目の悲劇として語られる)。凶兆とされる怪異が相次ぎ、青龍から景初への改元、舜への配祀など制度いじりが続く一方、高堂隆らの諫言も実らぬまま世を去る。この間、司馬懿は太尉に進みながら沈黙を守る。

公孫淵討伐

遼東の公孫淵が燕王を僭称し反乱を起こす。公孫氏の来歴(公孫度・公孫康・公孫恭・公孫淵)と、呉に一時通じて背いた経緯が語られる。曹叡は司馬懿を起用し、司馬懿は淵の対応を「上計は逃走、中計は籠城抗戦、下計は襄平死守」と分析、淵は下計を選ぶと予測して的中させる。長雨で行軍が滞る中、司馬懿は移営を禁じて軍紀を保ち、敵の樵採を敢えて見逃す持久策を用いて包囲を固め、ついに襄平を陥落させ公孫淵父子を討ち取り、七千余人を誅滅して京観を築く。凱旋の途上、洛陽への召還命令が届く。

評語

魏延と楊儀は本質的に同類であり、魏延は早く動いた分だけ自滅を早めたに過ぎないとする。楊儀が費禕に「魏に降ればよかった」と漏らした言葉は、魏延以上に卑しい心根を示すものであり、諸葛亮の統率がなければ両者ともとうに乱を起こしていただろうと評す。曹叡の奢侈と乱倫は亡国の兆しでありながら公孫淵討伐に成功したのは、天がかえってその悪を助長させ滅びを早めさせているのだとする。司馬懿は王莽・曹操の類でありながら功績も地位もまだ突出していなかったが、公孫淵の滅亡と共にその権勢は増しており、魏の滅亡もそう遠くないと結ぶ。