後漢演義第八十二回 塞外に出て道を迂回し敵を殲滅し、隆中を訪ね策を決し天下三分を定める (出塞外繞途殲眾虜 顧隆中決策定三分)
陳琳の赦免と崔琰・杜畿の活躍
- 捕らえられた陳琳は曹操に問い詰められるが、率直に応対して赦され、記室として登用される。
- 崔琰も陳琳の助力で釈放され、曹操に招かれる。戸籍上の兵力を誇る曹操に対し、崔琰は民の疲弊を先に憂うべきと諫め、曹操はこれを容れて丕の師傅とした。
- 河東太守杜畿は反乱勢力を離間させ、馬騰の協力も得て衛固・范先を討ち取り、河東を平定する。
高幹の滅亡と并州平定
- 建安十一年、曹操は壺口関を攻略。高幹は匈奴に助けを求めるが拒絶され、荊州へ逃れる途上、上洛で王琰に討たれる。これで袁紹の旧領はすべて曹操の手に帰した。
- 荀彧・荀攸の功績が称えられ、荀彧の子は曹操の娘婿となる。
烏桓遠征
- 袁尚・袁熙は烏桓の蹋頓を頼る。曹操は郭嘉の進言により北伐を決行、田疇の案内で盧龍口から奇襲路を取り、柳城で烏桓軍を撃破。蹋頓は張遼に討たれ、二十余万の胡漢民が投降した。
- 遠征の帰途、郭嘉が病没(38歳)。曹操は深く哀惜し手厚く葬った。
- 遼東の公孫康は逃げ込んだ袁尚・袁熙を謀殺し首級を曹操に献上した。曹操は事前にこの成り行きを見通していた。
田疇の去就と劉備・徐庶
- 田疇は封侯を固辞し議郎にとどまる。
- 荊州の劉表は劉備を新野に置く。劉備は久しぶりに馬に乗らず脾肉の付いたことを嘆く(「髀肉之嘆」)。
- 新野で徐庶と出会い軍師として迎える。徐庶は夏侯惇らの奇襲を計略で撃退する。
三顧の礼
- 徐庶は「臥龍」諸葛亮を推挙。劉備は司馬徽にも意見を求め、伏龍・鳳雛の evaluation を得る。
- 劉備は隆中に三度足を運び、三度目にようやく諸葛亮と面会する。
- 諸葛亮は天下三分の計を説く。曹操とは正面から争わず、孫権とは結び、荊州・益州を得て天下統一を図るという構想である。
- 劉備は深く心動かされ、諸葛亮は出仕を決意。「水魚の交わり」の故事もここに由来する。
評語
- 田疇は袁紹には仕えなかったが、曹操の求めには一度で応じ、蹋頓討伐に加担した。しかし蹋頓討伐の結果、袁尚兄弟まで死に追いやられたのは行き過ぎであり、田疇の行動には矛盾があると批判する。
- 対して諸葛孔明は容易に世に出ず、劉備の三顧を経てようやく応じた。その慎重さこそ真の名士のあり方であり、三国の人材の中でも卓越した存在であると評する。