後漢演義第八十回 烏巣を焼き曹操がしばしば謀を施し、荊州へ奔り劉備が再び難を避ける (焚烏巢曹操屢施謀 奔荊州劉備再避難)
孫策の死
- 于吉の幻影に驚き倒れた孫策は再起できず、張昭らに後事を託し、弟の孫権に印綬を譲り「戦陣は及ばぬが、賢を用い国を保つ才は自分に勝る」と評して逝去した。享年二十六。
孫権の家督相続
- 孫権は張昭の励ましで軍務に復帰し、周瑜も喪に馳せ参じて張昭と共に国事を支えた。曹操は張紘を通じて孫権を討虜将軍に任じ懐柔、魯粛・諸葛瑾・呂蒙・駱統・周泰・陸績ら人材が続々と孫権を支え、江東の基盤は固まっていった。(陸績の幼少時の孝行逸話にも触れる)
官渡の戦い
- 曹操は袁紹と官渡で対峙。沮授の持久策を袁紹は退け、兵を出して一進一退の攻防となる。
- 袁紹軍が土山から弓矢を射かけると、曹操は投石機(霹靂車)を造って対抗し、地下道による奇襲も水堀で防いだ。
- 兵糧が乏しくなった曹操は荀彧に相談、荀彧は「今は勝機を見出す時であり退くべきでない」と返書し(要旨:曹操は寡兵ながら要地を扼しており、情勢は必ず変化する好機であるとの激励)、曹操はこれに従い持久を続けた。
兵糧をめぐる攻防
- 徐晃・史渙が袁紹方の輸送隊を急襲し兵糧数千台を焼き払う。
- 沮授・許攸の献策(烏巢防備の強化、許都急襲策)を袁紹はいずれも退け、許攸は身内の罪を理由に審配に糾弾されたことで怒り、曹操の元へ出奔する。
烏巢焼き討ち
- 許攸の情報により、曹操自ら精鋭を率いて烏巢を急襲し、油断していた淳于瓊の守備隊を撃破して兵糧を焼き払う。
- 袁紹は郭図の献策で曹操の本営を逆に攻めさせるが、張郃・高覽は烏巢救援を主張するも容れられず、攻撃は失敗。二将は郭図に讒言され、処罰を恐れて曹操に投降した。
- 兵糧を失った袁紹軍は動揺し、曹操の流した偽情報も相まって総崩れとなり、袁紹は長子袁譚と共に単騎で河を渡って逃走。曹操は降兵数万を悉く生き埋めにした。
沮授の最期
- 捕らえられた沮授は降伏を拒み、「速やかな死こそ幸い」として節を曲げず、脱走を図った末に曹操に処刑されたが、丁重に葬られた。
袁紹の没落と死
- 袁紹は黎陽で敗残兵を収拾するが、田豊が獄中で嘲笑したとの讒言を信じて田豊を殺させる(田豊自身も敗戦を知り自らの死を悟っていた)。
- 継妻劉氏の勧めで末子の袁尚を偏愛し後継に据えようとする中、曹操の再攻撃(倉亭)に敗れた袁紹は吐血して急死。劉氏は審配・逢紀と共に袁尚を後継に立て、寵妾五人を惨殺するなど酷薄な行いに及ぶ。長子袁譚は継承できず不満を募らせ、逢紀を殺害して黎陽へ向かう。(詩:兄弟の内紛を招いた袁紹の失策を詠む)
劉備、荊州へ
- 劉備は鄴で趙雲と再会、汝南で関羽とも合流し古城で家族が団結する。
- 袁紹敗北の報を受け、劉備は関羽・張飛・趙雲に命じて曹操配下の蔡陽を討ち取るが、曹操本隊の南下を察知し、荊州の劉表を頼って避難することを決める。
- 曹操は汝南を接収したのち許都へ戻り、荀彧の諫めもあって荊州進攻は見送り、河北平定を優先することとした。
評語
- 曹操が諫言をよく用い、袁紹が諫言に背き通したことに両者の興亡の必然を見る。兵糧の失策(韓猛・淳于瓊)による用人の誤りが袁紹敗因の核心であったと指摘。
- 劉備が袁紹の敗亡を見抜いていた慧眼と、曹操が劉備を英雄として警戒し追い詰めたことを対比し、袁紹が身を誤り子にも禍根を残したのに対し、劉備は敗れても屈せず後の基業につなげたとして両者の器量の差を結論づける。