後漢演義第七十六回 十の勝算を説き郭嘉が意見を述べ、再進撃を勧め賈詡が謀に長ける (策十勝郭嘉申議 勸再進賈詡善謀)
曹操、鄒氏に溺れ張繡の夜襲を受く
- 張繡は曹操に降ったが、操が叔母の鄒氏を強引に側に置いたことに激怒し、賈詡と密議して操の陣営を襲う計を練る。
- 鄒氏は不安を覚え操に警戒を促すが、操は名将典韋が守るから安心だと聞き入れず、鄒氏との歓楽にふけった。
- 操は繡配下の勇士胡車兒を金で買収して繡暗殺を図ったが、胡車兒はかえって繡に密告し、繡は急遽夜襲を決行した。
典韋の奮戦と戦死
- 典韋は寝込みを襲われながらも奮戦し、双戟で多数を斬り倒すが、武具も尽き、素手で敵兵を打ち倒すほどの死闘の末、力尽きて壮絶な戦死を遂げた。
- 敵は典韋の死を確認してからようやく前進し、首級を挙げて後営へ運んだ。
曹操の逃亡、曹昂・曹安民の死
- 曹操は鄒氏とともに逃走し、長子曹昂・甥曹安民が護衛に付いたが、追撃を受けて曹安民は戦死、操の馬も傷つく。
- 曹昂が自らの馬を操に譲ったため操は難を逃れたが、曹昂と鄒氏はその場に残され命を落とした。
- 操が油断していたのは、鄒氏との情事のため各将を分散させ、本営には親族と典韋の親兵のみを残していたためであった。
曹操の帰還と典韋の弔い
- 操は許都へ帰る途上で典韋の死を知り涙し、遺骸を捜索させて厚く葬り、子の典満を郎中に任じた。
袁術の僭称と袁紹の書状
- 袁術が寿春で帝を僭称し「仲氏」と称したことを操は嘲笑する。
- 同時に袁紹から傲慢な書状が届き、操は不機嫌になり数日心が定まらなかった。
郭嘉の「十勝十敗」論
- 荀彧が様子を窺うと、郭嘉が進み出て、道義・大義・寛厳・用人・決断・徳・仁・明察・信賞必罰・武略の十点で操が袁紹に優ると説き、勝敗はすでに定まっていると励ました。
- 操は喜びつつも謙遜し、郭嘉はさらに呂布の脅威を先に除くべきと進言、荀彧も同意する。
- 操が関中への懸念を語ると、荀彧は鍾繇を関中統括に起用し馬騰・韓遂を懐柔する策を勧め、操はこれを容れて鍾繇を司隸校尉に任じた。
呂布と陳珪父子の策
- 呂布は袁術と婚姻を結ぼうとするが、陳珪が「袁術と結べば逆賊の与党とみなされる」と説き、呂布は娘を呼び戻し、袁術の使者韓胤を捕らえた。
- 朝廷の使者王則が呂布を左将軍に任じる詔と操の私信を届け、呂布は喜んで陳登を使者として韓胤を都へ護送させた。
- 陳登は密かに操へ徐州牧推挙を頼まれたが、操は約束せず、呂布は激怒するも、陳登が「操は将軍を鷹のように使おうとしている」と弁明して収める。
袁術軍撃退
- 折しも袁術配下の張勛らが徐州へ侵攻するが、陳珪の策により韓暹・楊奉を寝返らせ、呂布は挟撃して張勛軍を大破、南下して袁術を淮水の北まで追い詰めた。
- 韓暹・楊奉はのちに劉備によって宴席で誅殺される。李傕・郭氾ら旧涼州勢もそれぞれ非業の死を遂げた。
陳王殺害と操の袁術討伐
- 袁術の刺客が陳王劉寵・陳相駱俊を殺害したため、操は袁術討伐の名分を得て出兵、蘄陽を落として橋蕤らを斬り、袁術を淮水の南へ追い払った。
許褚の帰順
- 帰途、怪力の壮士許褚が一党を率いて帰順し、操はその力量を試して喜び都尉に任じ、「わが樊噲」と評した。典韋亡き後の護衛役となる。
張繡・劉表との攻防、賈詡の予言
- 張繡が劉表と結んで許都を窺うとの報に、操は許褚を先鋒に湖陽・舞陰を落とし穰城を包囲するが、荀彧の急報で袁紹の許都急襲を懸念し撤兵。
- 撤退中、安眾で伏兵を用いて追撃してきた繡・劉表連合軍を撃破。
- 賈詡は「勝った操を再度追えば必ず勝てる」と繡に進言し、実際に大勝。理由を問われた詡は、操の用兵心理を的確に読んでいたことを説明する。
- 李通の援軍により操は無事許都へ帰還した。
劉備が呂布に攻められる
- 操が袁紹の動静を探り一安心した矢先、劉備が呂布に攻められ援軍を求める急報が届く。劉備・呂布は馬の一件で不和になっており、呂布は高順・張遼を派遣して沛城を攻撃。
- 援軍の夏侯惇は高順の陥陣営に敗れ左目を負傷、劉備も敗走し、甘・糜二夫人が捕らえられ徐州へ送られた。
評語
- 曹操が最も懼れたのは袁紹のみであり、十勝十敗の説は誇張も含むが、操の必勝・紹の必敗はおのずと定まっていたと評す。
- 操が張繡・呂布・袁術らへの対処を先行させたのは、後顧の憂いを断って袁紹に専念するための布石であったと論じ、操の智謀を孫呉に例えつつも、宛城での危機や賈詡に翻弄された失策も指摘し、呂布程度は取るに足らないと結ぶ。