後漢演義第六十八回 洛陽に入り都を見て玉璽を得、磐河を出て怨みを構え兵を興す (入洛陽觀光得璽 出磐河搆怨興兵)
劉虞擁立の挫折
- 袁紹・韓馥の使者が劉虞に帝位就任を勧めたが、劉虞は厳しく拒絶し、話は立ち消えとなった。関東諸軍の多くは兵糧が尽きて解散していった。
孫堅の奮戦と洛陽奪還
- 長沙太守孫堅は南陽で太守張咨から兵糧を得られず、これを斬って軍を掌握。袁術のもとで破虜将軍・豫州刺史に任じられ、董卓軍と各地で戦った。
- 梁東で夜襲を受け敗走したが、部将祖茂が身代わりとなって孫堅を逃した。その後陽人聚で董卓の驍将華雄を討ち取るなど連勝を重ねた。
- 袁術は孫堅の勢力拡大を恐れて兵糧を止めたが、孫堅の抗議で撤回。孫堅は董卓軍を破って洛陽へ進撃し、董卓自ら出陣したが敗れて長安方面へ退いた。
- 孫堅は洛陽入城後、荒廃した宗廟を修め、董卓が暴いた陵墓を修復させた。城南の井戸(甄官井)から伝国の玉璽を発見し、密かに魯陽へ持ち帰った。
韓馥の冀州放棄
- 袁紹は兵糧不足に苦しみ、逄紀の献策で公孫瓚に冀州攻撃を促す一方、荀諶・郭図を使って韓馥を説得し、冀州を無血で譲らせた。耿武・関純・李歴・趙浮・程渙らの反対も聞かれなかった。
- 冀州牧の座を失った韓馥は張邈のもとへ逃れたが、疑心から自殺した。
曹操の東郡平定と荀彧の来投
- 曹操は鮑信の勧めで内輪もめから距離を置き、黒山賊を破って東郡太守となった。荀彧が袁紹を見限って曹操に投じ、「わが子房なり」と高く評価された。
公孫瓚と袁紹の対立
- 献帝の東帰を図る動きの中、劉虞の子劉和が袁術に抑留され、公孫瓚の従弟公孫越が孫堅を助けて戦死したことをきっかけに、公孫瓚は袁紹への復讐を誓った。
- 公孫瓚は長安の朝廷に袁紹の十の罪状を列挙した上表文を送り、冀州へ進撃を開始し、部将を各州刺史に任じた。
- このころ劉備は公孫瓚のもとで平原相となり、関羽・張飛とともにあった配下の一少年将軍と親交を結んだ(趙雲を指す)。
評語
- 曹操と孫堅の二人だけが討卓の義に殉じ、曹操は孤軍にして敗れながらも名を惜しまなかった、孫堅は洛陽を奪還し陵廟を修めたが玉璽を得た途端に東帰してしまい、その志が変わったことを惜しむ。公孫瓚と袁紹の離合は私利によるもので、特に盟主でありながら国恥を雪がず私闘に走った袁紹の罪は公孫瓚より重いと断じる。