後漢演義第六十三回 奸臣誅殺を請い孫堅が議を献じ、賊を討たんとして傅燮が命を捨てる (請誅奸孫堅獻議 拚殺賊傅燮捐軀)
傅燮、崔烈を弾劾
涼州の乱が長引く中、司徒崔烈が涼州放棄を唱えると、議郎となっていた傅燮は「司徒を斬るべし」と痛烈に非難し、涼州の要衝としての重要性を説いた。霊帝はこれを容れ、皇甫嵩に長安鎮守と討賊を命じたが、宦官張譲・趙忠に賄賂を拒んだ嵩は讒言により左車騎将軍の印綬を奪われ都郷侯に降格される一方、宦官十三人が黄巾討伐の功で列侯に封じられるという不条理がまかり通った。
董卓の台頭と孫堅の進言
司空張温が車騎将軍として涼州討伐に赴き、董卓も破虜将軍として従軍。星異に乗じて夜襲を仕掛け敵を破るなど戦果を上げた董卓は、しだいに驕慢になり、召還にも応じず張温に対して無礼な態度をとった。参軍の孫堅は張温に、董卓の三つの罪(無礼・進撃拒否・応召遅延)を挙げて処断するよう進言したが、張温は董卓の武名を惜しんで決断できなかった。
孫堅の出自
孫堅は呉郡富春の人、孫武の後裔とされる。少年時に海賊を単身で追い払った逸話や、会稽の反乱鎮圧の功が語られる。張温の推薦で議郎に昇る。
諫言と粛清の犠牲
楊賜の死後、劉陶が中陵郷侯・諫議大夫に任じられ、西羌の脅威を訴える上奏を行うが、宦官張譲・趙忠らの讒言により投獄され獄死。前司徒陳耽も同様に獄死させられた。趙忠は私党を軍功者として次々に登用し、傅燮にも懐柔を図るが拒絶され、恨みを買って辺境の漢陽太守に左遷される。
傅燮の最期
漢陽太守となった傅燮は、涼州刺史耿鄙の無謀な出兵を諫めたが聞き入れられず、耿鄙は反乱軍に殺害される。韓遂・王国らに漢陽城を包囲された傅燮は、味方の羌胡が助命を申し出ても拒み、幼い息子乾の勧めにも「大義に殉ずる」として応じず、説客の勧誘も一喝して退け、力戦の末に戦死した。息子の乾は後に扶風太守となった。
陳実の逝去
在野の名士陳実が84歳で世を去り、多くの人がその死を悼んだ。盗みに入った者を「梁上の君子」と諭し改心させた逸話などが伝えられ、文范先生と諡された。
評語
董卓は張温の命に従わず跋扈の兆しを見せており、張温が孫堅の進言を容れて誅殺していれば後の禍を防げたであろうに、優柔不断により禍根を残した。傅燮は孤城を守り、逃げようと思えば逃げられたにもかかわらず、大義のために踏みとどまり殉じた。その最期は「板蕩に忠臣を識る」の言葉どおりである。