後漢演義第五十九回 大悪人を誅し酷吏が奸を除き、重い賄賂を受けた舅が禍を人に嫁す (誅大憝酷吏除奸 受重賂婦翁嫁禍)

盧植の八事の建言

  • 涿郡の盧植はかつて竇武に封を辞退するよう勧めたが用いられなかった。その後博士から太守を経て尚書に至った。若い頃、鄭玄と共に馬融に師事し、華美に流されず学問に専心した硬骨漢だった。
  • 光和元年、宋皇后の冤罪死や種々の弊政を見て、賢良の登用・党錮の赦免・宋后一族の弔い・諸侯への手当・鄭玄ら有徳者の登用・地方官の任期の適正化・請託の禁止・天子の倹約など八事を上奏したが、霊帝はほとんど採用しなかった。

三公人事の混乱と橋玄の子の死

  • 太尉張顥は成果なく罷免され陳球が後任、司空には袁逢が就任するなど、宦官の推薦による人事が続いた。隠者・袁閎は一族が権勢争いに巻き込まれることを憂い、土室に籠り続けた。
  • 陳球は忠直さゆえ二か月で罷免され、橋玄が太尉となるも病でたびたび辞任した。橋玄の幼い息子が盗賊に人質に取られた際、橋玄は身代金を拒み、司隷校尉陽球に厳しい捕縛を求めた結果、子は殺されたが盗賊も討たれた。橋玄はこれを機に人質による恐喝への断固たる対応を上奏し、以後同様の事件は減った。

売官の横行

  • 霊帝は内帑の不足を補うため西園に売官の場を設け、官位ごとに定価を付けて公然と売買させた。永楽宮の董太后もこれに便乗し、三公九卿の位まで内々に売買された。侍中楊奇(楊震の曾孫)は「陛下と桓帝の差は舜と堯のようなもの」と皮肉を込めて答え、地方に出された。
  • 光和二年、疫病・地震・日食が相次ぎ、司徒・司空が更迭される中、太尉段熲だけは宦官の後ろ盾で罷免を免れた。

王甫・段熲の誅殺

  • 王甫の養子・王萌・王吉は貪暴で、王吉は殺した罪人の遺骸を晒すなど残虐を極めた。司隷校尉となった陽球(酷吏だが公憤で動いた)は、王甫の門生の不正蓄財が発覚したのを機に、王甫・段熲・王萌・王吉を一斉に逮捕し拷問。王甫父子と王吉は杖殺され、段熲も自殺した。王甫の屍は城門に晒され「賊臣王甫」と大書された。
  • 曹節は王甫の屍を見て仲間割れを恐れ、霊帝に陽球の酷薄さを訴え、陽球は衛尉に左遷された。陽球はなお曹節らの追及継続を願い出たが許されなかった。
  • 郎中審忠は曹節・朱瑀らの専横と竇武・陳蕃誅殺の経緯を上奏したが黙殺された。中常侍呂強も曹節らを批判する上奏を重ねたが、これも聞き入れられなかった。

陳球・劉郃らの謀議とその露見

  • 前太尉陳球は永楽少府として、竇武の同党として誅された兄を持つ司徒劉郃と共に宦官誅殺を密議した。劉郃は逡巡していたが、尚書から左遷された劉納の勧めで決意し、陽球を司隷校尉に復職させて宦官を除く計画を立てた。
  • 陳球は自分の妾(実は中常侍程璜の娘)に密議を漏らしてしまい、妾は父・程璜に密告。程璜は曹節に脅され買収されて計画を曹節に漏らした。曹節らは先手を打って霊帝に讒言し、劉郃・劉納・陳球・陽球の四人は一斉に捕らえられ拷問死した。

評語

  • 桓帝・霊帝のような凡庸な君主のもとで中常侍の専横が続いたが、正士に対しては宦官同士も結束して対抗した。陽球の宦官掃討は志士の行いと言えるが、程璜の娘を寵姫としたことが機密漏洩を招き、自らと劉郃・陳球らの命を失う結果となった。婦人に謀を漏らしてはならないという教訓を示す出来事であった。