後漢演義第五十回 密謀を定め梁氏一族を誅し、忠諫を嫉み李雲を冤罪で殺す (定密謀族誅梁氏 嫉忠諫冤殺李雲)
梁皇后の死と梁氏一族の栄華
- 桓帝の梁皇后は姉(順烈皇后)の威光を背景に贅を尽くしたが、子がなく嫉妬深く、身ごもった宮人を陥れることが多かった。姉の死後、桓帝の寵は衰え、梁皇后は延熹二年に病没、懿陵に葬られた。
- 梁氏一門は七人が侯に、三人の女子が皇后、六人が貴人となり、父子ともに大将軍、外戚関係者五十七人が高位に就くという未曾有の栄華を極めていた。
梁冀の専横と粛清
- 梁冀は独断で政治を動かし、官吏の任免も自らへの謝礼を経なければ進まない有様だった。
- 下邳の吳樹は宛令赴任の挨拶で梁冀の私的な口利きを拒絶した。着任後、梁氏縁者の不正を摘発したため深く恨まれ、後に荊州刺史転任の挨拶に訪れた際、梁冀に毒殺された。
- 遼東太守侯猛は梁冀への挨拶を怠ったため無実の罪で腰斬に処された。
- 郎中袁著(十九歳)は梁冀の専横を憂い上書し、権臣は功成れば退くべきと諫めたが、梁冀に露見。偽死を図るも見破られ、笞殺された。友人の郝絜・胡武も連座し、胡武一家六十余人が殺され、郝絜は服毒自殺。
- 安帝の嫡母耿貴人の甥耿承も、梁冀の遺品要求を拒んだため一族十余人を殺された。
- 文人崔琦は「外戚箴」で梁冀を諷刺し、面と向かって批判したため、帰郷の途上で刺客に殺された。
- 桓帝は梁冀の専横と度重なる殺戮に不満を募らせていた。
密謀による梁氏誅滅
- 和熹皇后の縁者鄧香の娘・鄧猛は美貌により梁冀の妻孫壽の縁で後宮に入り貴人となった。梁冀は鄧猛を自分の養女にしようと図り、事情を知る鄧猛の姉婿邴尊を刺客に殺させ、さらに鄧猛の母宣まで殺そうとした。
- 刺客が中常侍袁赦の屋根伝いに宣の家に侵入しようとして発覚、捕らえられた刺客の自白で梁冀の関与が判明。宣は鄧猛を通じて桓帝に訴えた。
- 桓帝は宦官単超・左悺・徐璜・貝瑗らが梁氏に含むところがあると知り、単超・左悺を召して梁氏討伐を密議、自ら腕を噛んで血で盟約した。
- 梁冀もこの動きを察知し、中黄門張惲を宮中に入れて備えさせたが、桓帝側は張惲を拘束し、尚書令尹勛に諸符節を回収させ、貝瑗が禁兵約千余人と司隸校尉張彪を率いて梁冀邸を包囲。光禄勲袁盱が大将軍印綬を没収し、梁冀を都郷侯に降格させた。
- 梁冀は自殺、妻孫壽も鴆酒を仰いで自害。子の梁胤、弟の梁譲・梁淑・梁忠・梁戟ら一族は捕らえられ、孫壽の親族ともども老幼を問わず誅殺された(梁不疑・梁蒙は既に病死していたため難を免れた)。連座して死んだ公卿・列校・刺史・二千石は数十人に及び、四府の故吏・賓客三百余人も罷免された。
- 梁冀の家財は没収され三十余万万緡に達し、朝廷はこれを元に税を半減、梁冀の私園を貧民に開放した。梁皇后(懿陵)も貴人の身分に格下げされた。
- 討伐に功のあった単超(新豊侯)・徐璜(武原侯)・貝瑗(東武陽侯)・左悺(上蔡侯)・唐衡(汝陽侯)の「五侯」が厚く封じられ、尹勛ら七人も亭侯に封じられた(策文を要旨紹介)。さらに劉普・趙忠ら八宦官も郷侯に封じられ、宦官の権勢が急速に拡大した。
鄧皇后の冊立と新体制
- 鄧猛は桓帝の継后となり、母宣は長安君に。当初「薄」姓に改めさせられていたが、実父が鄧香であったことが確認され鄧姓に復した。鄧香は車騎将軍・安陽侯を追贈された。
- 黄瓊が太尉、祝恬が司徒、盛允が司空に。黄瓊は汚吏十余人を弾劾する一方、清廉な范滂を掾吏に起用。范滂は冀州按察で不正官吏を次々に辞職に追い込み、後に光禄勲陳蕃のもとでも節を曲げず辞職した。
- 陳蕃は徐稚・姜肱・韋著・袁閎・李曇の五名の高潔な処士を推挙したが、いずれも出仕を固辞(徐稚の質素、姜肱兄弟が盗賊に互いを庇い合った逸話、韋著・袁閎・李曇の隠逸ぶりを紹介)。安陽の魏桓も、後宮や厩馬・権豪の縮小が実現しない限り出仕しても無益だと悟り、征召を辞退した。
- 一方で桓帝は宦官侯覽らへの過分な恩賞は惜しまず、単超ら五侯はますます驕り高ぶった。
李雲の直諫と処刑
- 白馬令李雲は上書し、梁冀誅殺の功臣への過剰な封賞や、詔書が皇帝の親裁を経ずに乱発される現状を批判し、「帝欲不諦(陛下は物事をお分かりでないのではないか)」との強い表現を用いた。
- 桓帝は激怒し李雲を投獄、厳しい取り調べを命じた。弘農掾杜衆は李雲と運命を共にしたいと自ら願い出て同じく投獄された。
- 陳蕃・楊秉・沐茂・上官資らが赦免を求める上疏をしたが、桓帝はこれに応じず彼らを処罰。宦官管霸が「李雲・杜衆は狂妄なだけで罪に問うほどではない」と取りなしても、桓帝は「帝欲不諦とは何事か」と一蹴し、李雲・杜衆はともに処刑された。
- 太尉黄瓊は病と称して引退(二年後に免官)、劉矩が太尉に。種暠が司徒、虞放が司空となり、単超は車騎将軍に昇進し権勢を強めた。
陳蕃の諫言と楊秉の受難
- 光禄勲陳蕃は桓帝の過剰な封賞・後宮の肥大化を諫める上疏を行った(要旨:無功者への濫賞、後宮女官の増大による民の困窮、獄・官の腐敗を批判)。桓帝はこれを一部採用し宮女五百余人を放ち、一部の封侯を格下げした。
- 楊秉は河南尹として、単超の弟単匡(済陰太守)の不正を追及する兗州刺史第五種を支持したが、単匡は刺客を放ち従事衛羽の暗殺を図って失敗、逆に楊秉が「任方を捕らえて単匡を糾明すべき」と主張したことが仇となり、単超の讒言で楊秉は罷免・左校送りに、第五種も朔方へ流された。楊秉は後に大赦で赦されたが、第五種は瀕死の目に遭う(次回に続く)。
評語
- 梁冀の悪逆は竇憲以上であり、その受けた禍もまた最も激しかった。竇憲は一族皆殺しには至らず、閻顕誅殺後も太后は存命だったが、梁冀の場合は妻族に至るまで一人も残らず、三公すら連座するという徹底ぶりであった。これは平時からの積悪の結果に他ならない。
- ただし外戚を除いたのが宦官の手によるものであった点は憂慮すべきで、十九侯に続き五侯が現れたことは、漢廷の人材難を物語る。桓帝はこの大変を経てもなお目覚めず、恩賞を濫発し正論を厭い、李雲の直言に激怒して処刑し、杜衆の助命嘆願にも同じ処置を下した。このような帝であれば、いかに善臣がいても国を救うことはできない。