後漢演義第四十八回 父が死に弟が孤り残り文姫が命を託し、夫は驕り妻は悍く孫寿が淫を恣にする (父死弟孤文姬托命 夫驕妻悍孫壽肆淫)
李固・杜喬の粛清
- 李固・杜喬は罷免後も都に留まっていた。桓帝は宦官唐衡・左悺らから「李固・杜喬は陛下の即位に反対していた」と讒言され憤慨する。
- 甘陵の劉文が南郡の妖賊劉鮪と結び清河王蒜を天子に擁立しようと図り、清河相謝暠を脅すが拒絶され殺害。清河王蒜の衛兵がこれを討ち取ったにもかかわらず、蒜は謀反の疑いをかけられ尉氏侯に貶され、憤慨のあまり服毒自殺した。
- 梁冀はこの機に乗じ、李固・杜喬が劉文・劉鮪と通謀したと誣告。梁太后は杜喬の逮捕は許さなかったが、李固は投獄された。門生の王調や河内の趙承ら数十人が命がけで冤罪を訴え、梁太后は一度は李固を釈放。しかし梁冀が「李固が人心を買って後患となる」と迫り、太后の許可を得ないまま李固を再投獄した。
- 獄中の李固は太尉趙戒・司空胡広に宛てて書を送り、梁氏の専横に迎合する両名を非難しつつ「わが身はこれまで、後世の史家の評に委ねる」と記した。趙戒・胡広は心中恥じ入るのみで何もできず、李固は五十四歳で獄死した。
- 梁冀は杜喬にも自裁を迫ったが応じず、翌日太后への虚偽報告により投獄、その夜のうちに暴死した。二人の遺体は洛陽城北に晒され、弔問した者も同罪とする布告が出された。
- 李固の門人郭亮は遺体を守り、亭長の詰問にも「義のためなら生死を問わない」と答えて心を動かした。南陽の董班や杜喬の元属官楊匡らも遺体のそばで喪に服し続け、十二日目にようやく梁太后の憐憫により埋葬が許された。
- 李固の子李基・李茲・李燮のうち、姉の文姫が機転を利かせ末弟李燮を密かに匿い、逃した。基・茲は捕らえられ獄死したが、燮は父の門生王成に託され、姓名を変えて徐州に逃れ、酒屋の下働きとして育った。後に酒屋の娘と結ばれ、学問を修めた。梁冀の失脚後、大赦によって身元を明かし朝廷に戻り、議郎に任じられた。
梁太后の崩御と桓帝親政
- 建和年間、災異が相次いだ(宮殿火災、地震、雨肉、彗星、洪水など)。梁太后は自責の詔を出し流民救済を命じた。
- 翌年正月、梁太后は病のため桓帝に政を返し、和平と改元(帰政の詔文を要約して紹介)。
- ほどなく梁太后は病篤くなり、諸梁一族への遺言を紙に記させ(要旨:内外に心を尽くさせたが力及ばず、皇帝と将軍兄弟に後事を託す)、まもなく四十五歳で崩御。順烈皇后と諡され憲陵に合葬された。
- 桓帝の生母匽貴人が孝崇皇后に追尊され、政治の実権は名目上桓帝親政となったが実質は梁冀が握り続けた。
潁川の名士たち
- 潁川の荀淑(当涂長)と陳寔(太丘長)は徳望高い名士。荀淑には八人の子(儉・緄・靖・燾・汪・爽・肅・旉)がおり「八龍」と称された。陳寔にも六子あり、長男紀・次男諶は父と並び「三君」と称された。
- 両家が会した際、天に瑞兆(徳星の集合)が現れたと太史が奏上したが、梁冀は意に介さなかった。
- 荀淑は賢良方正に推されるも策文で梁冀を諷刺したため左遷され、後に隠棲し六十七歳で没した。李固・杜喬もかつて荀淑に師事していた。陳寔も権幸に迎合せず不遇のまま終わった(後に再登場)。
梁冀夫妻の奢侈と淫乱
- 梁冀は和平元年、食邑を加増され合計三万戸に。妻孫壽も襄城君に封じられ、長公主並みの待遇を得た。
- 孫壽は妖艶な容姿で「愁眉」「啼粧」「堕馬髻」「折腰歩」「齲歯笑」といった作り物めいた媚態を流行させた(当時これらは不吉の兆しとされた)。梁冀は孫壽に骨抜きにされ、機嫌を損ねると家中が乱れるほどであった。
- 梁冀は父の喪に服すと称して別居し、実は歌妓の友通期と密会を重ねた。友通期はもと梁商が順帝に献上した女で、後に梁家に戻されていた。孫壽がこれを知り、健児を率いて喪廬に踏み込み友通期を捕らえ、髪を切り顔を傷つけ数百回鞭打つ暴行を加えた。梁冀は妻の母に取りなしを頼み、ようやく友通期を取り戻して手厚く看病した。
- 友通期は密かに男児伯玉を産んだが、これも孫壽に知られ、子の梁胤に命じて友氏一族を皆殺しにさせた。伯玉だけは壁の中に隠れて難を逃れた。梁冀は嘆きつつも妻を恐れて咎めず、伯玉を乳母に預けて民間に匿った。
- 孫壽も夫に対抗して太倉令秦宮と密通。秦宮はもと梁家の奴僕で、容姿端麗・弁舌巧みなことから梁冀に取り立てられていたが、実際は梁家に出入りしたまま孫壽と情を通じ、権勢を笠に着て賄賂を取るまでになった。秦宮の仲介で梁冀夫妻はよりを戻し、対の豪邸(大将軍府と襄城君第)を建てて贅を尽くした。
- 梁冀は郊外にも広大な兎苑を築き、狩猟区域を侵した者は死罪に処すなど横暴を極めた(弟が誤って猟をした従者を殺害した例も)。孫壽の讒言で梁氏の外官が数人罷免され、孫氏一族が代わりに要職に就いた。
- 扶風の富豪孫奮が梁冀の金銭要求に応じなかったため、無実の罪をでっち上げられ、拷問死・財産没収(一億七千万緡)という悲劇も起きた。
- 侍御史朱穆は梁冀の旧属吏として諫書を送り、権勢を頼みに賄賂・略奪を働く配下を戒め、質素倹約と民心の回復を説いたが、梁冀は「私に落ち度でもあるのか」と開き直り、聞き入れなかった。
- 翌年元旦、桓帝の朝賀で梁冀が帯剣のまま入朝しようとしたところ、ある人物に大声で咎められ剣を取り上げられる一幕があった(次回に続く)。
評語
- 李固・杜喬は忠直の士として知られるが、質帝毒殺の際に賊を討つことも禍を避けて隠棲することもできなかったのは、忠はあっても智に欠けていたのかもしれない。しかし無実の死は遠近に知れ渡り、天も憐れんだのか、郭亮・董班・楊匡らの義士が現れて遺骸を守り、李固の娘文姫の機転により弟李燮の血筋が保たれた。梁氏一族が滅んだ後もこの子孫が生き延びたことは、善行が報われる証と言えよう。
- 梁冀は凶暴無比でありながら、妻の前ではまったく頭が上がらなかった。「身をもって道を行わなければ妻子にも行われない」との古語の通りである。梁冀が友通期と密通すれば妻も秦宮と密通する、この因果応報の速さは影が形に添うようなものである。それでも梁冀は悟らず、いよいよ奢侈と横暴を極めていった。