後漢演義第三十七回 継嗣を立て太后が再び臨朝し、重囲を解き副尉が連戦して虜を斃す (立繼嗣太后再臨朝 解重圍副尉連斃虜)
鄭衆封侯の余波
- 鄭衆は竇氏誅殺の功で封侯された宦官の先例となった。宦官が公卿並みの地位を得たことが、後の禍乱の端緒になったと語られる。
諸王の処遇
- 永元十五年、日食を理由に有司が諸王を封国へ帰すよう奏請したが、和帝は兄弟への情から留めていた。
- 冬、和帝は章陵の旧宅に参り、宗室と宴を催した後、雲夢に出向いたが、留守の太尉張禹の諫めで引き返した。
- 清河王慶の傅・衛訢が旅先で不正に財を蓄えたことが発覚し処罰されたが、慶自身は責任を問われず、没収した財は慶に賜られた。
- 嶺南から荔枝・龍眼を早馬で運ばせる貢献の弊害を臨武県長唐羌が訴え、和帝はこれを禁じた。
和帝の崩御と鄧太后の摂政
- 司徒・司空の人事が入れ替わり、元興と改元、大赦が行われる。
- 十二月、和帝は病が重くなり二十七歳で崩御(在位十七年)。
- 後継の子は宮中で育てず民間に預けられていたため、群臣は鄧后に諮って対処した。長子の勝は持病があり、生後百日の少子・隆を迎えて太子とし、その夜に即位(殤帝)、鄧后が皇太后として臨朝聴政した。
- 年号を延平と改め、張禹を太傅、徐防を太尉とし、皇兄勝は平原王に封じられた。和帝は慎陵に葬られ、廟号は穆宗。
- 和帝は仁恕で名君であったが、晩年に鄭衆を厚遇したことが宦官専横の禍根となったと評される。
清河王慶の薨去
- 就国した清河王慶は和帝への哀慕から病を得て亡くなった(二十九歳)。母・宋貴人の墓の傍らへの合葬を望む遺表を残した。
- 鄧太后は哀悼し、龍旗・虎賁百人を賜り、東海王強の故事に倣った葬儀を行わせた。左姫(生母)の棺も合わせて葬り、諡は孝王とし、長子の虎威が爵位を継いだ。
周馮両貴人の処遇と鄧太后の善政
- 周・馮両貴人には策書とともに賜り物をして宮外へ退かせた。
- 鄧太后は大赦、官費の削減、貢物の半減、宮女・没入婢の解放、水害への租税免除、淫祀の禁止など、施政の初期に善政を行った。
殤帝の夭折と安帝の即位
- 司空陳寵の死去に伴い尹勤が後任となり、鄧太后の兄・鄧騭が車騎将軍に抜擢された(三司の待遇は前例のない特例)。
- 殤帝はわずか二歳で病没。鄧太后と鄧騭は清河王慶の子・祐(長安侯)を迎えて即位させることを決め、太尉張禹が策命を授けて即位(安帝)。まだ十三歳のため引き続き鄧太后が臨朝した。
- 安帝の生母・左姫は清河王慶の寵姫であったが早世しており、実父慶は無実の廃太子の子であった経緯が語られる。
鄧氏一族の封侯
- 鄧騭とその弟たち(悝・弘・閶)が上蔡侯などに封じられ、鄧騭は辞退の上表を重ねたが、最終的に受け入れられた。
- 鄧太后自身も曹大家(班昭)に経学を学び、政務に励んだ。
西域の混乱と任尚の失策
- 都護任尚が班超の遺誡に反して厳格に過ぎた統治を行い、西域諸国の離反と包囲を招いた。
- 梁慬が援軍として派遣され、包囲は解けたが、任尚は召還された。
- 後任の段禧・趙博は亀茲に入城したが、亀茲王白霸が漢軍を城内に招いたことに反発した亀茲部衆が温宿・姑墨と結んで包囲。
- 梁慬が奮戦して数度の勝利を収め、最終的に大勝して亀茲を平定した。
- しかし公卿らは西域経営の負担を嫌い、都護の撤廃と将士の帰還を決定した。
羌人の反乱の再燃
- 帰還のための徴発に応じたくない羌人(麻奴ら)が逃亡・離反し、これを叛徒として弾圧したことから諸羌が一斉に反乱した。
- 先零の滇零や鐘羌が隴道を占拠して寇掠。鄧太后は鄧騭に討伐を命じ、任尚もその指揮下で出征することになった。
評語
- 鄧太后は賢徳とされる一方、実際には得失が半ばする人物である。殤帝の擁立は幼帝を立てて権力を握る意図が疑われ、安帝の擁立も兄妹の私意によるものであった。
- 即位後まもなく兄弟四人を一斉に侯に封じたのは私情に基づく処置であり、鄧騭らが辞退を重ねたことでかろうじて竇氏の轍を踏まずに済んだ。
- 西域政策では梁慬の功績を活かせず西域を放棄し、結果として西羌の乱を招いたのは宮廷の失策であると批判される。