後漢演義第三十一回 叛王を誘い杯酒の間に巧計を施し、権戚を弾劾し病を押して遺言を草す (誘叛王杯酒施巧計 彈權戚力疾草遺言)
竇憲の失態と竇皇后のとりなし
竇憲が章帝から厳しく叱責され震え上がっていると、妹の竇皇后が化粧を取り繕わずに現れ、兄のために涙ながらに詫びを入れた。章帝はその哀れな様子に心を動かされ、怒りを収めて竇憲を許した。以後、竇憲は虎賁中郎将にとどめ置かれ、それ以上の重用はされなかった。
新任の雒陽令・周紆は権門を恐れず、馬氏・竇氏など外戚の子弟の不正を厳しく取り締まった。ある夜、黄門侍郎の竇篤が亭長の霍延に誰何され、従者が乱暴を働いたことから竇篤が周紆を讒訴し、周紆は詔獄に下されたが、道理が通っていたため釈放され、のちに御史中丞に抜擢された。
班超の西域経略
烏孫が入朝し、班超は将兵長史に任じられた。護送使の李邑は龍茲の動静を恐れて出兵をためらい、班超を讒言する上奏をしたが、班超は動じず、章帝も李邑を戒めて班超を支持した。李邑はやがて烏孫の侍子を伴って班超のもとへ赴くことになったが、班超は器量の広さを示すためにあえて李邑にその護送を任せた。
その後、莎車の調略により疏勒王・忠が班超に叛いて烏即城に籠城し、康居の援軍も得た。班超は月氏を通じて康居を説得し、忠を捕らえさせて烏即城を降した。忠は康居のもとで再起を図り、詐りの降伏を申し出て龍茲と内通しようとしたが、班超は見破って忠を誅殺し、康居の駐屯軍も撃破した。さらに班超は莎車を攻め、龍茲・温宿・姑墨・尉頭の連合軍が来援すると、偽って退却を装い夜襲によって莎車軍を大破、莎車王を降伏させた。この大勝により西域諸国と北匈奴は班超を恐れ、辺境は久しく平穏となった。
章帝の内治と清廉な官吏たち
章帝は刑罰を減らし、妖言による連座を除くなど善政を敷いた。臨淮太守朱暉は民に慕われて尚書僕射に抜擢された。魯人孔僖・涿人崔駰は武帝批判の廉で訴えられたが、孔僖の上書により章帝は不問に付し、むしろ蘭台令史に任じた。廬江の毛義は母の喪に服して隠棲し、清廉の誉れを得た。任城の鄭均は兄の不正を諌めて改めさせ、清貧を貫き「白衣尚書」と称された。会稽の鄭弘は徳政と実務手腕で知られ、南嶺の道を開いて交阯の貢納輸送を安全にし、経費を大幅に節減、のちに太尉に上った。
鄭弘、竇憲を弾劾して憂死
太尉となった鄭弘は竇氏の専横を憂い、章帝に自制を促したが聞き入れられなかった。竇憲配下の尚書張林・雒陽令楊光の不法を弾劾しようとしたところ、機密が竇憲側に漏れて逆に讒訴され、鄭弘は印綬を没収された。無実を知った鄭弘は憤りのあまり病に倒れ、死の床でなお竇憲の奸悪を弾劾する上疏を認めたが、上奏が届く前に没した。遺言により質素に葬られた。
第五倫の引退と袁安・任隗の登用
司空第五倫も老病により引退し、清廉の誉れ高く手厚く遇された。太僕の袁安が司空を継ぎ、のち司徒に転じた。光禄勲の任隗も清廉で知られ司空となり、袁安とともに「得人」と評された。博士曹褒は章帝の命により古礼を整理して新たな儀礼百五十篇を編んだが、拙速な編纂であったため章帝崩御後に群臣の批判を浴び、廃棄された。
評語
著者は、疏勒王忠が莎車の賄賂に転んで裏切ったことに戎狄の貪利忘義を見て取り、班超が策謀をもって忠を討ったのは詐術を恥じるべきものではなく、むしろ知略で西域を平定した功績を高く評価する。一方で章帝については、竇憲の奸悪を知りながら遠ざけきれず、鄭弘の再三の諫言も容れず、かえって竇憲の讒言を信じて鄭弘の印綬を奪ったことを、自己矛盾として厳しく批判し、皇后への情に流されたためだと断じている。