後漢演義第二十七回 哀牢王は一族を挙げて帰順し、匈奴兵は営を望んで計にはまる (哀牢王舉種投誠 匈奴兵望營中計)

梁鴻と孟光の隠逸

  • 東漢初期の高士としては嚴子陵に続き、扶風の梁鴻(字伯鸞)とその妻孟光が名高い。父が非業の死を遂げ困窮した鴻は太学で学んだ後、上林苑で人に雇われて豚を飼い、失火の際は自ら弁償し、さらに雇い主のもとで働き続けるほど誠実だった。
  • 同郷の孟氏の娘(三十歳、肥満で色黒、力持ち)は「梁伯鸞のような賢潔の士でなければ嫁がない」と言い、鴻はこれを聞いて娶った。婚礼当初、鴻は着飾った妻に七日間口をきかなかったが、妻が質素な身なりに改めると喜び、名を光、字を徳曜とした。
  • 二人は霸陵山に隠棲し耕作と機織りで暮らし、前代の高士二十四人を頌にまとめた。後に姓名を隠して各地を転々とし、呉で富豪臯伯通の元で雇われ舂きの仕事をした。孟光が食事を眉の高さまで捧げて夫を敬う様子(「案を眉に斉しくす」)に感心した臯伯通は鴻を邸に住まわせ、鴻はそこで著述に専念した。
  • 鴻は死に際して真の姓名を明かし、延陵季子の故事にならい子を故郷に呼ばず葬るよう託した。臯伯通は要離の墓の傍らに鴻を葬った。友人高恢との友情の詩も伝わる。

井丹の気概

  • 扶風の井丹(字大春)も太学で学び五経に通じた才人。沛王らに招かれても応じなかったが、信陽侯陰就が策を弄して強引に招いた際、粗末な食事でもてなされると席を立って抗議し、御輦を人に引かせようとした陰就には「桀のような振る舞いか」と皮肉って一同を驚かせ、悠然と立ち去った。

汴渠の修治と哀牢の内附

  • 明帝の治世十余年、国は栄えたが汴渠の決壊が兗豫の民を悩ませていた。楽浪人王景が起用され、滎陽から千乗河口まで千余里にわたり十里ごとに水門を設けるなど大規模な治水を行い、一年余りかけて完成させ、以後の漕運は安定した。
  • 哀牢の酋長柳貌が五万余戸を率いて内附を願い出て許された。哀牢の起源伝説として、沙壹という婦人が川で感じて十人の男児を産み、水中から現れた龍が末子を舐めて去ったため末子を「九隆」と名付け王に推したという物語が語られる。
  • 建武二十三年、哀牢王賢栗は隣部族鹿籮を攻めたが暴風雨で兵の多くを失い、再度の攻撃も鹿籮側の反撃で大敗、屍は虎に食われるという凶事が続いた。賢栗はこれを天譴と解し、建武二十七年に漢へ内附を申し出て哀牢王に封じられた。
  • 永平十二年、賢栗の跡を継いだ柳貌がさらに五万戸を率いて内附。明帝は哀牢・博南の二県を新設し永昌郡を置いた。険路を詠んだ歌謡(「漢徳広く…」)も紹介される。西部都尉から永昌太守に転じた鄭純の善政により西南一帯は安定した。

北匈奴征討の四路軍

  • 北匈奴は表向き和議を装いながら侵掠を続けていた。耿秉らの上奏を受け、明帝は永平十六年、祭彤・吳棠、竇固・耿忠、耿秉・秦彭、来苗・文穆の四方面軍を編成し北匈奴を討たせた。
  • 竇固・耿忠は天山で北匈奴の呼衍王を破り蒲類海まで追撃、伊吾廬の地を得て宜禾都尉を置いた。耿秉・秦彭も匈奴の勾林王を破ったが、来苗・文穆と祭彤・吳棠の軍は敵を捉えられず空しく引き返した。
  • 祭彤・吳棠は南匈奴左賢王信の誤った案内で山を越えられず逗留したとして革職・下獄となった。祭彤は無実を訴えられぬまま病を得て、功を立てられなかったことを恥じて息絶え、子に自ら陣中に赴き功を立てて詫びるよう遺言した。烏桓・鮮卑の民や遼東の吏民も彼の徳を慕い祠を建てて祀った。

廉范の知略と孝義

  • 同年秋、北匈奴が雲中に再び侵入した際、太守廉范は寡兵ながら夜に篝火を多く焚いて大軍の来援と見せかけ、動揺した匈奴軍を奇襲して撃退した。
  • 廉范は若くして父の死に立ち会い、蜀郡太守張穆の厚意ある贐りも辞退し、柩を守って川で溺れかけながらも守り抜いた孝子であった。師の薛漢が楚獄に連座し処刑された際、周囲が及び腰の中、廉范だけが遺骸を収め弔った咎で明帝に詰問されたが、「師弟の情として見過ごせなかった」と答え、また廉頗の子孫であると知った明帝はその胆力を評価し赦した。
  • 廉范は雲中・武威・武都の太守を歴任し、蜀郡太守としては訴訟を好む風習を醇厚な教化で鎮め、火災を恐れて夜業を禁じていた旧法を廃して貯水を徹底させ民に喜ばれた。「廉叔度、来ること何ぞ遅き」と歌われるほど慕われた。洛陽の慶鴻とは刎頸の交わりで知られた。

白狼王の内附と献歌

  • 益州刺史朱輔の報告により、白狼王唐菆らが漢への帰順を願い、通訳を介して「遠夷楽徳歌」「遠夷慕徳歌」「遠夷懐徳歌」の三章を献上した。いずれも漢の徳を慕い、遠方から帰順する喜びと永遠の臣従を誓う内容であった。
  • 白狼のほか槃木など百余の部落も相次いで漢に帰順し、東漢の隆盛は西京(前漢)に劣らぬものとなった。

評語

著者は、哀牢の龍種伝説を文教に通じない夷人の誇張と評し、班固の史書がこれを取り上げたことでかえって誤伝が広まったと批判、中国の史書にも限界があると述べる。四路出兵が功を挙げられず祭彤が憤死したことを惜しみ、寡兵で匈奴を退けさらに歴任の郡守として善政を重ねた廉范を高く評価し、梁鴻・井丹らが己を正すにとどまったのに対し、廉范は人をも正した点でより世道に資すると結ぶ。