後漢演義第二十八回 西域に使いし班超が敵陣を焼き、北の寇を防ぐ耿恭が泉を拝む (使西域班超焚虜 御北寇耿恭拜泉)
班超、西域へ出発す
- 天山で戦功を挙げた竇固は北匈奴征討で専断の権を得、前漢の故事にならい西域を招撫して匈奴の勢力を断とうと考え、属吏班超を郭恂とともに西域へ派遣した。
- 班超は文人班彪の子で兄は史家班固。若くして志を抱き、書写の仕事に飽き足らず「大丈夫たるもの傅介子・張騫のように異域で功を立てるべきだ」と筆を投げ捨てた逸話(投筆従戎)が伝わる。相者に「万里侯の相」と言われたこともあった。竇固に才を認められ仮司馬に抜擢され、伊吾廬城の戦いでも先鋒を務めた。
西域諸国の情勢と莎車・于置の争い
- 光武帝が対外不干渉の方針を取っていたため、車師・鄯善などは匈奴に依存していた。莎車王賢が強勢を誇り于置・大宛などを併呑していたが、于置の将休莫霸が反乱を起こして自立、莎車と激しく争った末に休莫霸の甥広徳が于置王となった。
- 広徳は莎車の疲弊に乗じて攻め、莎車王賢は娘を差し出して和議を結んだが、翌年広徳は和議に見せかけて賢を捕らえ、国相且運の内応もあって莎車を滅ぼし賢を殺した。匈奴はこれを警戒して大軍で于置を包囲し、広徳は降伏して人質を出し、莎車には賢の子齊黎が新王として立てられた。西域では広徳の于置が最強、次いで匈奴に服属した鄯善が有力だった。
鄯善での火攻めと帰順
- 班超一行は鄯善で当初厚遇されたが、次第に待遇が冷え込んだため、匈奴の使者が来訪していると見抜き、吏属三十余人を集めて「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と説き、夜襲を決断させた。
- 強風に乗じて匈奴使節の陣営に放火、太鼓と鬨の声で混乱させ、班超自ら数名を斬り、使者とその従者を皆殺しにした。同行していた郭恂は事後にこれを知り驚いたが、班超は功を独占せず分かち合う姿勢を見せた。
- 鄯善王広は匈奴使者の首級を見せられて恐れ入り、子を人質として差し出し漢に服属した。竇固の上奏を受けた明帝は班超を軍司馬に任じ、続けて西域撫慰を命じた。班超は大兵を求めず、従前の三十六人だけで于置へ向かった。
于置での巫殺しと疏勒平定
- 于置王広徳は当初傲慢だったが、巫が「漢使の駃馬を神に捧げよ」と唆したのに対し、班超は巫自身を呼び寄せて斬殺し、その首を広徳に示して鄯善での顛末を語った。広徳は驚いて漢への服属を決め、監視していた匈奴の将吏を討って首を班超に献じた。班超は金帛を贈って懐柔し、六十五年途絶えていた西域との交流が再開された。
- 匈奴が擁立した龜茲王建は疏勒王を殺し、龜茲の貴人兜題を疏勒王に据えていた。班超は従吏田慮を先発させ、兜題を捕らえさせた後、疏勒の旧臣たちに「故主の遺児を立てよ」と説き、榆勒(改名して忠)を疏勒王に立てた。兜題は殺さず放免し、龜茲に漢の威徳を伝えさせた。
車師平定と西域都護の再設置
- 疏勒平定後、竇固は車師攻略に向かい、耿秉の進言で先に車師後王を攻めて降し、これを機に前王も服属させ車師を平定した。西域都護が再置され、陳睦が都護、耿恭が戊己校尉として車師後王部金蒲城に、関寵が己校尉として前王部柳中城に駐屯した。竇固は朝命により兵を引いて帰京した。
耿恭の籠城戦
- 永平十八年、北匈奴左鹿蠡王が車師後庭を攻め、車師後王安得は殺され、匈奴軍は金蒲城に迫った。耿恭は毒を塗った矢で応戦し「漢の矢には神の助けがある」と唱えて敵を動揺させ、暴風雨にも助けられて撃退した。
- その後、耿恭は水の得やすい疏勒城(疏勒国とは別の同名の地)に拠点を移したが、匈奴軍が城を包囲し水源を断った。井戸を十五丈掘っても水が出ず、馬糞の汁を飲むほど困窮したが、耿恭が李広利の故事にならい祈ると泉が湧き出し、士気を取り戻した。匈奴はこれを神威と恐れて退いた。
明帝晩年の皇子・人事
- 明帝の在位十八年、太子炟(後の章帝)は馬皇后に愛され立太子。他に八人の子があり、各地の王に封じられたが、明帝は先帝の子より領地を絞り、質素を旨とした。
- 司徒に鮑昱が就任。鮑昱は鮑宣の孫、鮑永の子で、祖母桓少君の質素な内助の逸話(鹿車を挽いた話)とともに三代にわたり司隸校尉を務めた家系として称えられる。淮陽王延の謀反事件では邢穆が連座して獄死し、延は阜陵王に減封された。
評語
著者は張騫と班超を比較し、張騫が財貨で夷狄を結んだのに対し班超はわずか三十六人で虎穴に飛び込み、中華の財力を浪費せず西域を平定した点で騫にまさる才智を評価する。耿恭についても、毒矢と祈りによる泉で孤軍を守り抜いた節義を「古今未有」と讃える一方、陳睦・関寵が耿恭ほどの器でなかったために車師の平定が完全でなかったことを惜しむ。