後漢演義第二十一回 雒陽令は柱に頭を撞き忠を明かし、日逐王は図を献じ帰服を通ずる (雒陽令撞柱明忠 日逐王獻圖通款)

馬援の凱旋と決意

交阯を平定した馬援が都に帰還すると、百官が出迎えた。旧友の孟冀が祝いの言葉をかけると、馬援は「南方を平定した伏波将軍路博徳は数百戸しか封じられなかったのに、自分は僅かな功で大邑を賜り功薄く賞厚い」と謙遜し、「匈奴・烏桓がなお北辺を騒がせている、男子たるもの戦場で死に馬の革で屍を包んで葬られるべきで、病牀で女子の手にかかって死ぬわけにはいかない」と語った。光武帝は馬援をねぎらい、兵車を賜った。従軍中に疫病で死んだ兵士が四、五割に及んだため、馬援は上奏して遺族への手厚い撫恤を願い出た。

宗廟の改定と原武の乱

建武十九年正月、五官中郎将張純らの建議により、光武帝は自らを元帝の後裔と位置づけ、宣帝を中宗と追尊し、太廟・長安・章陵に歴代の廟を整えた。折しも河南原武県で単臣・傅鎮ら妖賊が県城を占拠して大将軍を自称し、討伐に向かった臧宮の軍は難航した。東海王陽の献策(包囲を緩めて賊を城外に誘い出す策)により臧宮は原武を攻略し、単臣・傅鎮を討ち取った。

皇太子の交代

光武帝は東海王陽をますます寵愛するようになり、皇太子強は母(郭皇后)が廃されて以来不安を感じていた。侍講の郅惲は太子強に、危うい地位に長く留まるより自ら退いて母に仕える道を勧めた。強はこれに従って譲位を願い出、再三の懇請の末に光武帝は詔を下し、強を東海王とし、東海王陽を皇太子に立てて名を莊と改めさせた。

郭氏一族への恩遇

郭皇后母子は廃されたものの、光武帝は郭氏一族への恩情を保ち、郭況・郭竟・郭匡・陳茂らを次々と侯に封じた。とくに郭況は大鴻臚にまで進み、光武帝がしばしばその邸に集って宴を催し、財を惜しみなく賜ったため、京師では郭家を「金穴」と呼んだ。況の母の死去に際しては光武帝自ら葬儀に臨み、父の遺柩を迎えて合葬させた。

董宣、強項令

帝の姉・湖陽長公主は寡婦として厚遇され、多くの奴僕を抱えていたが、その中に人を殺して主家に匿われる者があった。雒陽令董宣は公主の車を待ち伏せ、殺人犯である蒼頭を引き出して斬った。怒った公主は帝に訴え、光武帝は董宣を打とうとしたが、董宣は「公主の縦奴殺人を許せば天下をどう治めるか」と直言し、自ら柱に頭を打ちつけて血を流した。光武帝は道理を認め、董宣を許して「強項令」と称え、銭三十万を賜った。董宣は後に清貧のまま没し、光武帝は歎じて厚く葬らせた。史書は彼を酷吏に列したが、実は豪強を恐れぬ廉潔な良吏であった。

三公の処遇と呉漢の死

大司徒韓歆は自殺に追い込まれ、後任の戴涉も獄死、大司空竇融も罷免されるなど、光武帝は三公には厳しかった。一方、大司馬呉漢は謹厳実直で信頼が厚く、私財を蓄えず、出征中に妻が田宅を買ったことを咎めて分与させるほど清廉だった。建武二十年、呉漢は病没し、「軽々しく赦してはならない」と遺言した。光武帝は厚く葬り、劉隆を驃騎大将軍、蔡茂を大司徒、朱浮を大司空に任じた。

馬援の北辺出屯と烏桓・鮮卑

馬援は再び北辺防衛を願い出て襄国に出屯した。見送りの梁松・竇固に「富貴なればこそ謙虚であれ」と諭したが、二人は内心不満だった。烏桓・鮮卑はもと東胡の末裔で、匈奴に服属しつつ漢の辺境を騒がせていた。馬援は烏桓を討ったが大きな戦果を得られず、逆に追撃されて多くの馬を失った。建武二十一年、鮮卑が遼東に侵入すると、太守祭肜が自ら先陣を切って撃破し、多数を斬獲、鮮卑は震え上がって以後侵犯しなくなった。

西域と莎車・鄯善

匈奴が旱害で衰えるなか、西域諸国は漢への内属を願い出たが、光武帝は当初これを謝絶した。莎車王賢は西域都護の印綬を授けられたが、敦煌太守裴遵の反対で取り消され、賢はこれを恨み、詐って都護を僭称し西域諸国を圧迫、鄯善・亀茲を攻めた。光武帝は諸国の求めに応じず、諸国はついに匈奴に服属することとなった。

南匈奴の内附

匈奴では単于継承をめぐる争いが続き、日逐王比は単于輿に不満を抱いていた。輿の死後、蒲奴が単于位を継いだが、旱蝗の災で国力が衰えた。比は密かに漢に内属を願い出て察知され、身の危険を感じて八部の兵を集めて蒲奴に対抗、呼韓邪単于を名乗って漢に款塞・臣従を申し出た。群臣の反対を五官中郎将耿国が説き伏せ、光武帝はこれを許した。匈奴はここに南北に分裂した。

(詩:仁徳を慕って夷狄が自ら誠を通じ、以後北方の争いが減ることを詠う)

南匈奴の内附に朝廷は喜んだが、折しも南方から武威将軍劉尚が蛮地で戦没したとの急報が届いた。詳細は次回に語られる。

評語

兼聴すれば明らか、偏聴すれば暗くなるという道理は為政者にとって特に重要である。光武帝ほどの英主でも、姉の一言で董宣を死に追いやりかけたのは、公主の縦奴殺人の罪を問わず逆に守法の臣を罰しようとした過ちであり、董宣の直言がなければ危うく冤罪となるところだった。西域の内附についても、耿国が異論を唱えねば拒絶されたままであったろう。兼聴の徳がここでも証されている。