後漢演義第二十回 郭后を廃し寵を陰貴人に移し、蛮婦を誅し金溪の穴を平定する (廢郭后移寵陰貴人 誅蠻婦蕩平金溪穴)

竇融の入朝と論功

蜀平定後、竇融は五郡太守を率いて入朝し、印綬を返上したが光武帝は改めて厚遇し、大司空に任じた。功臣三百六十五人・外戚四十五人が封じられ、宗室諸王は将軍朱祐の進言により公・侯に格下げされた。孔子・周公の後裔もそれぞれ宋公・衛公に封じられた。

光武帝の文治への転換

天下平定後、光武帝は武を厭い文治に努めた。皇太子強が軍略を尋ねた際には「衛霊公の陳を問うたのに孔子が答えなかった故事」を引いて退けた。鄧禹・賈復は兵権を返上し学問に転じ、耿弇らも印綬を返して列侯として引退、功臣は概ね実権を離れ礼遇のみを受けた。宴席で光武帝が功臣たちに「朕に会わなければ何をしていたか」と問う場面もあり、和やかな君臣関係が描かれる。

辺境統治(杜茂・張堪)

北辺では杜茂・張堪が匈奴に対処。張堪は匈奴の侵攻を撃退し、狐奴で水田開発を進めて民の暮らしを豊かにし、「桑に余った枝なく、麦の穂は二つに分かれ、張公の政治で楽しみが尽きない」と謳われた。

韓歆の直言と自殺

沛郡太守韓歆は直言で知られ大司徒に抜擢されたが、帝の怒りを買って左遷され、さらに詔で咎められると憤激して自殺、子も殉じた。世論の同情を受け、光武帝は追って厚く弔った。

郭皇后の廃后

郭皇后とその子四人、陰貴人とその子五人、許美人の子一人がそれぞれ皇子として封じられる中、陰貴人の子陽(東海公)が幼くして聡明さを示し、光武帝の寵愛を集めた。墾田検地の混乱をきっかけに東海公陽の機転が光武帝の目に留まり、以後ますます寵愛が陽に傾いた。郭皇后は不満を隠さず帝との関係が悪化し、建武十七年、光武帝は郭皇后を「怨懟し他子を撫育できない」として廃し、陰貴人を皇后に立てた。郅惲の諫言により東海公の即時立太子は見送られ、郭后の子輔が中山王とされた。

章陵行幸

光武帝は章陵(旧舂陵)に行幸し先祖を祭り、宗室を集めて宴を催した。旧知の老女たちが少年時代の光武帝を語る場に、光武帝自ら「柔道をもって天下を治める」と応じた逸話が記される。

蜀郡の反乱鎮圧

建武十八年、蜀郡で史歆が反乱を起こすが、呉漢・臧宮・劉尚らが討伐しこれを平定、楊偉・徐容らの一味も掃討された。

徴側・徴貳の乱と馬援の南征

交阯の雒将の娘、徴側・徴貳姉妹が蜂起し嶺南六十余城を席巻、徴側は王を自称した。光武帝は馬援を伏波将軍に任じ、劉隆らとともに南征させる。馬援は浪泊で徴側軍を撃破し交阯城を包囲、徴側姉妹は金溪の険阻な洞穴に逃げ込んだ。馬援は柵を築いて包囲を続け、糧道を断って半年以上持久戦を続けた末、建武十九年正月、飢えた反乱軍が突出したところを撃破、徴側・徴貳を捕らえて斬首した。馬援は新息侯に封じられ、交阯に銅柱を建てて漢の威を示し凱旋した。

評語

光武帝は功臣には寛容であったが、妻には寛容になれず、郭后廃立は私意によるものと史家は評する。作者は、誤りは廃后そのものより、当初「妻を娶らば陰麗華のごとくあるべし」との本意に反して郭氏を先に立てた点にあると論じる。徴側・徴貳の乱は南方の異常事とされるが、馬援が根絶やしにするまで一年余り持久したことで、ようやく完全な平定を得た。