五代史演義第五十六回 唐の孫晟、使いを奉じ忠を効し、李景達、師を喪い命に奔る (唐孫晟奉使效忠 李景達喪師奔命)

唐使、周に和を乞う

  • 南唐の使者・鍾謨と李德明が後周の世宗に謁見し、南唐主李璟の上表文を奉る。文面は「小をもって大に事える」道理を説き、罷兵を懇願する内容だった。
  • 世宗は上表を一読して退け、「唐は隣国でありながら六年間一度も修好の使いを寄越さず、遼と通じて中華を裏切った」と叱責。「速やかに来朝して謝罪すれば罷兵を考えるが、さもなくば金陵まで進んで国庫を軍資に充てる」と告げる。
  • 鍾謨・李德明は威に呑まれ一言も抗弁できず退出。世宗は鍾謨を留め、李德明のみ帰した。

揚州・泰州の陥落

  • 後周軍の韓令坤・白延遇らが広陵(揚州)へ進撃。南唐の東都営屯使賈崇は抗戦できず城を焼いて南走し、副留守馮延魯は僧に変装して隠れたが発見され捕らえられた。
  • かつて揚州で狂人が「顯德三年に韓・白の二将が来なければ皆殺しになる」と触れ回っていた話が、そのまま的中したという逸話が語られる。
  • 令坤はさらに泰州へ進む。泰州には旧呉の楊氏(楊溥の子孫)一族が幽閉されていたが、李璟は江北の戦乱に乗じて楊氏が変を起こすことを恐れ、園苑使尹延範に命じて男子六十余人を江辺で皆殺しにさせた。事後、李璟は延範に責任を負わせ腰斬に処す。李璟は後に側近へ「延範は忠義を尽くしただけだが、国人の反発を恐れ処刑せざるを得なかった」と涙し、その遺族を厚遇させた。
  • 泰州刺史方訥は逃走、鄂州長山寨の陳澤は朗州節度使王逵に捕らえられ後周へ送られる。天長制置使耿謙は開城降伏、常州・宣州には呉越の兵が侵入し、静海軍制置使姚彦洪は呉越へ亡命。李璟は動揺し、宋齊丘・馮延己らと協議するが妙案なく、遼への救援要請を試みるも使者は後周軍に捕らえられ密書を押収される。

孫晟、使者として周に赴く

  • 馮延己の提案で、司空孫晟と礼部尚書王崇質が使者に立てられ、呉越・湖南と同様に後周の正朔を奉じることを願い出ることになる。
  • 孫晟は延己に「本来はあなたが行くべきだが、自分は先帝の厚恩を受けた身、和議が叶わなければ死ぬ覚悟で行く」と述べ、暗に延己の無為を諷する。工部侍郎李德明も同行を命じられる。
  • 孫晟は王崇質に「一族の身の振り方は各自考えよ、自分は先帝の陵墓に恥じない生き方を貫く」と告げ、出発。
  • 道中、光州・舒州・蘄州が相次いで後周に降ったとの敗報が届き、孫晟は「もう生きて帰れぬだろう」と嘆息しつつ壽州へ進み、世宗に謁見して上表文を奉る。文面は臣従と罷兵を願うもので、黄金・銀・羅綺の献上も添えられていた。

世宗との交渉、決裂

  • 世宗は上表を「虚文にすぎぬ」と一蹴。孫晟は「臣従は虚言ではない」と反論するが、世宗は「江北の州県をすべて差し出せ」と要求。
  • 孫晟は「江北の地は先朝より伝わるもので、大周から得たものではない」と拒む姿勢を示すが、世宗は「割譲せねば兵を退かぬ」と一歩も譲らない。
  • 李德明は馮延己の密命を受けていた通り、濠・壽・泗・楚・光・海の六州割譲と歳幣百万を条件に罷兵を願い出てしまう。世宗はさらに「壽州節度使劉仁贍を降すよう説得せよ」と孫晟に命じる。孫晟は怒りを堪えつつも、あえてこれを引き受ける。

孫晟、劉仁贍に降伏を勧めず

  • 世宗は中使を付けて孫晟を壽州城下へ送るが、孫晟は劉仁贍に対し逆に「和議はまだ定まっていない、決して開城するな、援軍はすぐ来る」と伝えてしまう。
  • 世宗はこれを知り孫晟を叱責するが、孫晟は「唐の宰相として節度使に叛くよう勧められようか。大周に同様の叛臣がいたら陛下は許すか」と正論で応じ、世宗も反駁できず、以後孫晟を厚遇しつつ帳中に留め置く。
  • 世宗は李德明・王崇質と江北割譲を条件に和議を進め、二人を帰国させて詔書を持たせる。詔書は「郡県がことごとく帰順すれば大軍を退く、さもなくば絶交する」という強硬な内容だった。

唐廷の混乱、李德明の処刑

  • 帰国した李德明・王崇質が詔書を奉ると、李璟は決めかねる。宋齊丘は「江北を失えば江南も保てない、李德明らは領土を献ずるも同然の使いをした」と非難。
  • 李德明は「周の勢威に抗しきれず、割譲せねば江南も蹂躙される」と反論するが、齊丘は「張松が西川の地図を献じたのと同じ売国行為だ」と痛罵。
  • 枢密使陳覚・副使李征古も李德明を弾劾し、李璟は激怒して李德明を売国の罪で斬首させる。
  • 唐は精鋭六万を選び、太弟斉王李景達を諸道兵馬元帥とし、陳覚を監軍使、辺鎬を応援都軍使に任じて後周に対抗させる。中書舎人韓煕載は監軍設置に反対する上書をするが容れられない。潘承祐の推挙で許文縝・鄭彦華・林仁肇らも将として起用され、右衛将軍陸孟俊も常州から泰州攻略に向かう。

泰州・揚州の攻防

  • 韓令坤は維揚に帰還し泰州には僅か千人しか残していなかったため、陸孟俊の攻撃に抗しきれず泰州は再び唐の手に落ちる。孟俊はさらに揚州へ迫る。
  • 令坤は新たに迎えた愛妾楊氏との情に流され一時逃げ腰になるが、援軍派遣の詔と趙匡胤の六合守備の報を受けて思い直し、決戦を決意。楊氏を呼び戻し籠城の構えを固める。

令坤、孟俊を討つ

  • 孟俊は揚州城東に布陣するが、令坤は先手を取って決死隊千人で急襲、孟俊軍は総崩れとなる。令坤は孟俊を追撃し弓で射落として生け捕りにし、凱旋する。
  • 護送を準備していたところ、愛妾楊氏が現れ孟俊への復讐を訴える。楊氏はもと潭州の人で、かつて孟俊が辺鎬に従い潭州を攻めた際に一族二百余人を殺され、自身は楚王馬希崇の妾となっていた経緯があった。令坤は求めに応じ孟俊を処刑し、その心肝を楊氏の父母への手向けとした。

六合の戦い、趙匡胤の勝利

  • 唐の元帥李景達は孟俊敗死の報に瓜歩から渡江し、六合を守る趙匡胤を恐れて手前に布陣したまま進撃を控える。
  • 趙匡胤は諸将の即時攻撃案を退け、「向こうが攻めてくるのを待ち、こちらは逸を以て労を待つ」との方針を示す。
  • 数日後、唐軍が来襲するが決着つかず、翌朝匡胤は兵士の笠を検分し、自分が戦中に付けた剣の切れ込みがないまま生き残った者数十人を「戦いを怠った」として処刑し、軍紀を引き締める。
  • 匡胤は牙将張瓊に別動隊を率いさせ唐軍の背後を断たせ、自らは唐営を強襲。李景達の帥旗が突き落とされたことで唐軍は総崩れとなり、景達は江口まで敗走。部将岑楼景の奮戦でかろうじて船で逃れるが、唐軍は追撃を受け五千余人が討ち取られ、さらに数千人が渡河中に溺死した。

戦後処理と孫晟らの帰還

  • 六合の大勝を受け、世宗はなお揚州へ進もうとするが、宰相范質らの諫言でようやく帰還を決意する。折しも李璟が改めて罷兵を懇願する上表を送ってきたこともあり、世宗は軍を引き上げる。
  • 世宗は李重進に壽州包囲を継続させ、向訓を淮南節度使兼沿江招討使、韓令坤を副招討使に任じ、自身は濠州・渦口を巡視。舒州節度使馬希崇が兄弟十七人を率いて後周に降り、右羽林統軍に任じられる。孫晟・鍾謨や捕虜の馮延魯らも伴って帰還する。
  • 趙匡胤は滁州で病の癒えた父・趙弘殷を伴い帰還の途につく。壽州では李継勲が劉仁贍の出撃を受け大敗し攻具を焼かれるなど苦戦していたが、匡胤が助勢して立て直し、態勢を整えてから帰還した。
  • 世宗は趙弘殷を検校司徒・天水県男に、匡胤を定国軍節度使兼殿前都指揮使に加封。匡胤の推薦で趙普も定国軍節度推官に任じられる。
  • その後、呉越王からは常州で唐の燕王李弘冀に大敗した旨の上表があり、また荊南からは朗州節度使王逵が部下に殺され周行逢が推されて帥となった旨の報告が入る。世宗は「呉越も湖南も兵を失い、唐がこれに乗じて猖獗を極めるなら、また自ら出陣せねばなるまい」と嘆息した。

評語

  • 南唐にも孫晟のような剛直の忠臣はいたが、馮延己に疎まれて危険な使いに立たされ、借刀殺人の対象にされたに過ぎない。孫晟が周に至って理を尽くし、劉仁贍に対しても君命を辱めなかった態度は淮南の名誉というべきである。にもかかわらずこの忠臣を用いきれなかったことが、南唐が日に日に衰亡へ向かった一因である。
  • 李景達は唐主の実弟でありながら一戦にも堪えられず、なんとも卑しい。皇族に頼るべき者がなく、ただ美辞麗句の上表文で罷兵を乞うばかりでは愚かというほかない。武備が伴わなければ、いかなる美文も無益であることを、南唐の相次ぐ上表は物語っている。