五代史演義第四十七回 劉宗を廃し嗣主幽閉され、漢祚を易え新皇詔を伝う (廢劉宗嗣主被幽 易漢祚新皇傳詔)

郭威擁立への地ならし

  • 澶州の兵変後、王峻・王殷は郭崇威を宋州へ派遣して劉贇を牽制する一方、竇貞固・蘇禹珪らも郭威に帰順し勧進文を奉る。郭威は太后の誥を得るまでは受けぬと謙譲を装う。

監国宣言

  • 太后の誥により郭威は監国となる。郭威も教令を発し、漢室への忠誠と已むを得ぬ推戴であったことを強調する。

劉贇の抑留と廃位

  • 徐州から迎えられていた劉贇は宋州で郭崇威に衛兵を奪われる。判官董裔の逃走進言も聞き入れられず、頼みの馮道にも見放される。
  • 太后の誥で劉贇は開府儀同三司・湘陰公に格下げされ、監視下の別館に移される。抗議した董裔・賈貞は郭崇威に斬られる。
  • 許州の劉信(劉知遠の従弟)も監視下に置かれ、絶望して自尽する。

郭威の即位、国号周

  • 太后が伝国の宝を譲る誥を発し、郭威は崇元殿で即位、国号を「周」、元号を広順と改める。詔では楊邠らの追贈、将士への恩賞、租税減免、倹約・迷信抑制などを布告する。
  • 何福進・王彦超・李洪義らを要職に配し、漢の隠帝を諡して許州に葬送する。漢の享年はわずか四年であった。

郭威の出自と一族への追贈

  • 郭威は邢州堯山の出身。幼くして父を失い母とも死別し、姨母に育てられる。若い頃に横暴な屠夫を斬って放免された逸話や、妻柴氏の持参金で再び従軍した経緯が語られる。
  • 即位後、四代の祖先や亡妻・戦禍で失った子姪らを追贈し、高行周・安審琦・符彦卿・馮道・竇貞固・蘇禹珪らにも加封する。

河東劉崇の反応

  • 劉贇の実父である河東節度使劉崇は、当初息子の即位を喜んで静観するが、危険を説いた部下李驤の忠言を怒って処刑してしまう。
  • 劉贇廃位の報を受け、鞏廷美の上表への対応に迫られる。
  • (詩:忠言を退けた劉崇が結局息子を死地に追いやったことを詠む)

評語

  • 傍系から皇位を継ぐこと自体は先例があるが、郭威の専横下ではそれも危険だったと指摘する。郭威の新制は前代の梁・唐・晋・漢よりやや整っているものの、それも范質のような文人の助けによるもので、武力偏重の風潮がのちの趙宋統一を準備したのだと論じる。