五代史演義第十四回 趙将を助け兵を発し鎮州を囲み、唐統を嗣ぎ壇に登り即位す (助趙將發兵圍鎮州 嗣唐統登壇即帝位)
王鎔の遊興と成德軍の内乱
- 趙王王鎔は晋との連和に安んじて驕り、方士王若訥に耽溺し政務を宦官に委ねた。李弘規の諫言で寵臣石希蒙は誅殺されたが、王鎔自身も養子王徳明(張文禮)の企てで弑逆され、王氏一族はほぼ滅ぼされた(末子昭誨のみ僧として逃れ生存)。
張文禮の両属外交と晋の出兵
- 文禮は晋に対しては王氏が乱兵に殺されたと偽り、梁にも通じて援軍を求めるなど両天秤をかけたが、密書が晋軍に発覚。趙将符習が晋王に泣訴し、旧主の仇討ちを名目に晋は鎮州討伐に乗り出す。
鎮州攻防と定州の離反
- 文禮は病死し子処瑾が後を継いで抗戦。戦の最中、定州の王処直が晋に翻意され契丹を頼ろうとしたが、養子王都のクーデターで幽閉・憤死し、王都が晋側に転じて事態は決着した。
契丹の南下と晋軍の撃退
- 幽州・定州へ契丹(阿保機)が大挙南下したが、郭崇韜・李嗣昭の進言により晋王自ら迎撃、新城の桑林での奇襲と沙河での追撃で契丹軍を撃破。奚族の来援も李嗣昭の救援で退けた。契丹軍は大雪にも祟られ多くの凍死者を出して撤退した(王鬱の讒言が発端であったが、述律氏は当初から反対していた)。
鎮州陥落
- 閻寶の敗退、李嗣昭の戦死、李存進の戦死など晋軍にも損害が続いたが、最終的に城内の内応(李再豐)により鎮州は陥落。張文禮の妻子・党類は趙人の手で処刑・報復され、王鎔の遺骸は礼を尽くして改葬された。符習・任圜らが功により重用された。
澤潞の離反と晋の即位
- 澤潞の李継韜が晋を離れ梁に降る一方、旧将裴約は忠節を守って抵抗を続けたが晋王の援軍は間に合わなかった(この間、晋王は即位の礼式準備に忙殺されていた)。
- 監軍張承業の死を機に晋王存勗の即位への迷いが消え、群臣の勧進と祥瑞の献上(古鼎)を受けて魏州で登壇し皇帝を称した。国号を唐、同光と改元。文武百官・宗廟の制を定め、生母曹氏を皇太后、嫡母劉氏を皇太妃とした。劉氏は嫉妬なく曹氏を立て、両者は和やかに宴を共にした。
評語
張文禮の弑逆討伐は当然の義挙だが、同じく主君を害した王都を晋王が私情から不問に付したのは公正を欠く。鎮州平定の一方で衛州・潞州が梁に帰したのは晋の隙を示す。張承業の死や献鼎を機に即位に踏み切った晋王の態度は、以前の建前をかなぐり捨てたものであり、識者はすでにその末路を予見していた。加えて生母を尊び嫡母を軽んじる序列の乱れは、後の劉后専権の禍根となる。