五代史演義第十二回 朱瑾、徐知訓を刃にかけ、病の徐温、計り呉越軍を焼く (莽朱瑾手刃徐知訓 病徐溫計焚吳越軍)
胡柳陂の後戦と梁軍の壊滅
- 晋王は敗色の中、閻寶・李嗣昭・王建及の進言で梁軍が拠る土山を奪う決断をし、総攻撃で賀瓌軍を大破(梁側死者約三万)。梁将中でも名高い劉鄩・賀瓌がこの戦役前後で相次いで世を去り、梁軍の士気は大きく損なわれた。
呉の内紛(徐知訓の暴虐)
- 呉では行軍副使徐知訓が驕慢で淫乱、婦女強奪・主君侮弄など専横を極め、吳王楊隆演を辱め続けた。李球・馬謙による除害の企ては朱瑾の来援で失敗した。
知訓と知誥の対立
- 知訓は同僚徐知誥への嫉妬から暗殺を謀るが未遂に終わる。一方、朱瑾も知訓に妻妓を狙われるなど恨みを募らせていた。
朱瑾の知訓誅殺と自刃
- 朱瑾は策を用いて知訓を自邸に招き、酒宴の隙をついて刺殺、その首を吳王に示すが隆演に拒絶され、追討を受けて自ら首を刎ねて果てた。
徐温の対応と知誥の台頭
- 徐温は激怒して広陵に入り朱瑾の一族を誅したが、後に瑾の霊夢に驚いて改葬するなど心を動かした。知訓派を処分する一方、徐知誥を淮南節度副使に抜擢し、以後の呉の政務は知誥が主導するようになる。知誥は寛政・農桑奨励など善政を敷き、宋斉丘を謀主として重用した。
呉の建国と吳越との抗争
- 厳可求の進言で呉は独立国号を建てることとなり、楊隆演は武義と改元し呉王として即位(帝号は称さず)。徐温は大丞相・都督中外軍事となる。
- 折しも呉越の銭鏐が兵を発して呉を攻めたが、緒戦では呉軍が石灰・火計で大敗(彭彦章戦死)したものの、徐温自ら出陣し火攻めで呉越軍を撃退、以後両国は二十年におよぶ和平を得た。
楊隆演の死と楊溥の即位
- 隆演は徐氏の専権に鬱屈し病を得て崩じ(24歳)、弟楊溥が跡を継いだ。徐温は帝位纂奪の疑いを退け、楊氏を推戴する姿勢を貫いた。
評語
朱瑾の徐知訓誅殺は義であったが、内に暗君、外に強藩を控えた中での軽率な暴発であり、身を滅ぼす結果となった。徐温は子の悪行を知らなかったとはいえ、入朝して簒奪の疑いを自ら払拭した点は評価できる。呉越との戦では徐温の火攻めが功を奏し、淮南の安泰を保った。楊隆演の代は終始徐氏の後見に頼るところが大きかったが、その専政をもって功罪を軽々に断ずることはできない。