総序
- 上古の事は結縄以前で書契が絶えているため知りようがない。羲軒(伏羲・軒轅)以来三代までの神言秘策や図緯の文は世を治める規範を伝えてきたが、秦がこれを焼き尽くし、漢は遺籍を集めて丘山のごとくにした。司馬遷は陰陽・儒・墨・名・法・道徳の六家を区別し、劉歆は七略を著し班固は芸文志を記したが、いずれも仏教はまだ記録していなかった。
仏教の中国伝来
- 漢の武帝の元狩年間、霍去病が匈奴を討ち皐蘭・居延に至り昆邪王を降し休屠王を殺してその衆五万を降した際、金人(仏像)を得て帝はこれを大神として甘泉宮に安置し、香を焼いて礼拝したのが仏教流通の始まりとされる。張騫が大夏に使いした帰路、身毒国(天竺)に浮屠の教えがあることを伝えた。
- 哀帝元寿元年、博士弟子秦景憲が大月氏王の使者伊存から浮屠経を口授されたが、中土の人々はまだ信じなかった。後漢の明帝が金人の夢を見て傅毅の進言により仏と知り、郎中蔡愔・博士弟子秦景らを天竺に遣わし浮屠の遺範を写させた。蔡愔は沙門摂摩騰・竺法蘭とともに洛陽に帰り、中国での沙門・跪拝の法はここに始まった。得た仏経四十二章と釈迦の立像を清涼台・顕節陵に安置し、経は蘭台石室に収めた。蔡愔が白馬に経を負わせて帰ったことから洛陽に白馬寺を建てた。
- 「浮屠」の正号は「仏陀」で、浮図と音が近く、いずれも西方の言葉である。教義は、生あるものはみな行業によって生じ、過去・現在・未来の三世を通じて識神が常に滅せず、善悪には必ず報応があり、修行を積んで無数の形を経て神明を練り上げ無生に至って仏道を得るとする。修行の初めには仏・法・僧の三帰を守り、殺・盗・淫・妄言・飲酒を戒める五戒を保つ。守れば天や人の勝れた境涯に生まれ、犯せば鬼畜諸苦に堕ちるとされ、生処には六道がある。出家者は鬚髪を剃り家を離れて師に付き律を守り、心を治め乞食で自給するのを沙門(桑門)といい、僧と総称する。在家の信者は男を優婆塞、女を優婆夷という。沙弥は十戒、大僧は二百五十戒、比丘尼は五百戒を守る。すべては十善道(防心摂身正口・貪忿癡を去り殺淫盗を除き妄語を断つ)を本とし、これを具えることを三業清浄という。
- 修行の階梯には声聞乗・縁覚乗・大乗の三乗があり、小根の人は四諦法を修める小乗、中根の人は十二因縁を受ける中乗、上根の人は六度を修める大乗とされる。仏の本号は釈迦文(能仁の意)で、釈迦の前に六仏があり釈迦はその後を継いで成道した賢劫の仏であり、未来には弥勒仏が続くとされる。釈迦は天竺迦維衛国王の子で、四月八日夜に母の右脇から生まれ、三十二種の瑞相があったという。生誕は周の荘王九年(魯の荘公七年)とされ、魏の武定八年まで凡そ千二百三十七年になる。釈迦は三十歳で成道し四十九年間衆生を導き、拘尸那城の娑羅双樹の間で二月十五日に般涅槃した。
- 仏の法身には真実身と権応身の二義があり、真実身は形量に限られず感応する常住の体、権応身は六道に和光同塵して生滅を現す仮の形とされ、仏の生滅は実の生滅ではないと説く。荼毘の後、遺骨(舎利)は瓶に納められ塔(塔廟)に祀られた。後の世に阿育王が神力で仏舎利を分けて八万四千の塔を同日に建てたとされ、いま洛陽・彭城・姑臧・臨渭にある阿育王寺はその遺跡とされる。
- 釈迦滅後、大迦葉・阿難ら五百人の声聞弟子が経典を編纂し、三蔵十二部経としてまとめられた。後の数百年に羅漢・菩薩が経義を論じて外道を破り、摩訶衍・大小阿毗曇・中論・十二門論・百法論・成実論などが著された。
漢代の仏教
- 漢の章帝の時、楚王英は浮屠の斎戒を喜び黄縑白紈三十匹を国相に贖罪として奉ったが、詔で「浮屠の仁を尊ぶ祠祭を三月続けている、疑う理由はない」と称え、伊蒲塞・桑門への布施に充てさせた。桓帝の時、襄楷が仏陀・黄老の道を説いて殺生を戒め欲を少なくするよう諫めた。
- 魏の明帝が宮西の仏図を壊そうとした際、外国沙門が金盤に水を張り仏舎利を投じると五色の光が起こり、帝は感嘆して道の場所に移し百間の周閣を作らせた。天竺沙門曇柯迦羅が洛陽に入り戒律を宣訳したのが中国戒律の始まりである。白馬寺の仏図画は四方の規範となり、晋代の洛陽には仏図四十二か所があった。
- 晋の元康中、胡沙門支恭明が維摩・法華・三本起などを訳したがまだ意味を究めきれなかった。常山の沙門衛道安は独坐十二年で精思を重ね旧訳の誤りを正した。石勒の時代、天竺沙門仏図澄が石勒に信任され「大和尚」と号し軍国の謀に頗る予言を的中させた。道安は仏図澄に師事したが没後、中原の乱を避けて南遊し、弟子を各地に分遣した(法汰は揚州、法和は蜀、道安自身は苻堅のもとへ)。苻堅は道安を師礼で遇し、西域の鳩摩羅什を招くよう勧めさせた。道安の没後二十余年で羅什が長安に至り、道安の校訂した経義が羅什の訳と符合したため、法旨は中原に大いに広まった。
北魏建国と仏教の受容
- 魏(拓跋氏)はもと幽朔に建国し、風俗は素朴で西域と隔絶していたため仏教はほとんど伝わらなかった。神元帝が魏晋と通聘し、文帝が洛陽に、昭成帝が襄国に至って南朝の仏法を知るに至った。太祖(道武帝)は中山を平定し燕趙を経略した際、通過する郡国の仏寺・沙門・道士を敬い軍紀を保たせ、自らも黄老を好み仏経も読んだが、建国当初で戦乱が続き寺宇や僧衆を整える余裕はなかった。それでも時折求めるところがあり、泰山の琨瑞谷に隠れていた沙門僧朗に使いを送り繒素・幢罽・鉢錫を礼として贈った(今も朗公谷と呼ばれる)。
- 天興元年、詔して「仏法の興りは久しく、その功徳は生死を超えて及ぶ」として京城に仏像を建て宮舎を整え信者の居所とすることを命じ、この年に五級仏図・耆闍崛山殿・須弥山殿を作り、講堂・禅堂・沙門座も併設した。
- 太宗(明元帝)も太祖の業を継ぎ黄老を好むとともに仏法を崇め、京邑四方に図像を建て沙門に民俗を教導させた。皇始年間、趙郡の沙門法果は太祖に召され道人統として僧徒を統括し、太宗の代には輔国宜城子・忠信侯・安成公の号を与えられたがいずれも固辞した。太宗は法果の門が狭いことを気にかけ広げさせ、法果は八十余歳で泰常年間に没し、帝は三度その喪に臨み老寿将軍・趙胡霊公と追贈した。法果はつねに太祖を「当今の如来」として拝したが、「私は天子を拝しているのではなく仏を礼しているのだ」と語った。
東晋南朝と西域における仏教の展開
- 鳩摩羅什は姚興に敬われ長安の草堂寺で八百人の義学僧を集めて経を重訳し、道彤・僧略・道恒・道悰・僧肇・曇影らが訳業を助けた。とくに僧肇は羅什の訳の際に筆を執り辞義を定め、維摩経の注や論を著した。
- 沙門法顕は律蔵の不備を嘆いて長安から天竺に赴き三十余国を経て律を学び、南海の師子国から海路で青州長広郡に至った(神瑞二年のことである)。法顕の旅の記録は今も世に伝わる。得た律は江南で天竺の禅師仏駄跋陀羅と共に再校訂され「僧祇律」としてまとめられ、現在の沙門が受持している。沙門法領は揚州から西域に入り華厳経を得、後に仏駄跋陀羅・法業と共に訳撰した。
- 世祖(太武帝)は即位当初、太祖・太宗の業を継ぎ高徳の沙門を招いて論談し、四月八日には仏像を輿に載せて行道させ自ら門楼で観覧・散花して敬礼した。沮渠蒙遜も涼州で仏法を好み、罽賓沙門曇無讖が姑臧で沙門智嵩らと涅槃経など十余部を訳し、術数・禁呪にも通じ多く的中させた。神䴥年間、世祖は蒙遜に曇無讖を京師へ送るよう命じたが、蒙遜は惜しんで送らず、後に魏の威を恐れて人を遣わし曇無讖を殺させた。智嵩は涼土で経論を講じ涅槃義記を著し、涼州が兵乱に見舞われると弟子とともに胡地へ向かう途中、飢えて肉食を勧められたが戒を守って餓死し、遺骸を焼くと舌だけが焼け残ったという。
- 涼州では張軌以来仏教が信仰され、敦煌は西域と接して塔寺が多かった。太延年間に涼州が平定されると住民は京邑に移され仏事も東遷し、教えはますます盛んになった。まもなく沙門が多すぎるとして五十歳以下の還俗が詔された。
恵始・道安門下の名僧
- 世祖が赫連昌を平定した際、沙門恵始(清河出身)を得た。恵始は長安で羅什の新経を聞き学び、劉裕が姚泓を滅ぼし子の義真を長安に鎮めたときも敬われた。義真が長安を退く際、赫連屈丐に追われ道俗が皆殺されたが恵始だけは白刃を受けても傷つかず、屈丐が怒って剣で撃っても害せず、ついに謝罪した。統万平定後、恵始は京師で人々を教化し、五十余年裸足で歩いても足が汚れず「白脚師」と呼ばれた。太延中、八角寺で端坐したまま没し、十余日たっても容色が変わらず、六千余人が葬送に集まった。中書監高允がその伝を著した。
世祖の廃仏に至る経緯
- 世祖は初め武功を先んじ、仏法を尊びつつも経教を深く究めてはいなかった。寇謙之の道を得て清浄無為の仙化の証があるとして信奉するようになった。司徒崔浩は寇謙之の道を奉じ、仏を虚誕・世の害と非毀しており、帝もその弁論に頗る従うようになった。
- 蓋呉が杏城で反乱を起こし関中が騒動したため世祖は西征し長安に至った。長安の沙門が寺内に麦を種え、御用の馬を麦の中で放牧させたことに帝が入って見た際、沙門が従官に酒を勧め、従官が私室で弓矢・矛楯を見つけて奏上したため帝は激怒し、寺を捜索させると醸酒具や州郡牧守・富人の隠匿財産が大量に見つかり、密室で貴家の女と淫乱を行っていたことも発覚した。帝は崔浩の進言により長安の沙門を誅し仏像を焚き破らせ、四方にも同様の処置を命じた。
- 続けて詔し、「王公以下で私に沙門を養う者は今年二月十五日を期限に官へ送れ、過ぎれば沙門は死罪、匿った者は誅す」と命じた。太子恭宗(景穆帝)は監国として仏道を敬い、繰り返し諫めたが許されず、真君七年三月、詔は「後漢以来の胡神を廃絶し、これより後に胡神を事とし形像を造る者は門誅とする」との廃仏令を発し、征鎮諸軍・州刺史に仏図・胡経の破却と沙門の坑殺を命じた。恭宗は宣詔を緩め、遠近に予め知らせたため四方の沙門の多くは逃れ、京邑でも助かる者があり、金銀の宝像や経論の秘蔵は多く守られたが、土木の宮塔は教えの及ぶ限りことごとく毀された。
- この間、寇謙之は崔浩と車駕に従い廃仏に強く反対したが崔浩は聞かず、「お前は間もなく処刑され一族も滅びるだろう」と告げたという。四年後、崔浩は誅殺され五刑を受け七十歳であった。世祖はやや悔いたが事はすでに行われ中断は難しく、恭宗は密かに復興を図ったが公言できなかった。仏教の廃絶は世祖一代の七、八年に及んだが、禁はしだいに緩み、篤信の家では密かに沙門を奉じることができ、法服を隠し持って誦経する者もいたが、京都で公然と行うことはできなかった。
- 沙門曇曜は恭宗に知られる操行の持ち主で、廃仏の際に多くの沙門が還俗を装ったが、曇曜は死守を誓い、恭宗の再三の勧めにも屈せず法服・法具を身から離さなかった。
高宗(文成帝)による仏教復興
- 高宗は即位して詔し、「帝王たる者は明霊を敬い仁道を彰らかにすべきである。釈迦如来の功徳は大千世界に及び、王政の禁律を助け仁智の善性を益すもので、前代より崇尚され我が国家も常に尊事してきた。世祖の代、山海の怪物のように姦淫の徒が講寺に紛れ込み兇党を成したため先朝は罪ある者を誅したが、有司が意を誤り一切を禁断してしまった。景穆皇帝(恭宗)はこれを常に嘆いていた。朕はその志を継ぎこの道を隆んにしたい」として、諸州郡県に仏図を一区ずつ建てることを許し、良家の性行篤実な者を選んで出家を認め、大州五十人・中州四十人・小州二十人程度を目安とした。これにより天下は朝に及ばず夕には応じ、毀された図寺は次々と再興された。
- 京師の沙門師賢(もと罽賓国王の一族)は廃仏中に医術を装って還俗していたが、復興の日に沙門に戻り、帝が自ら剃髪させ道人統とした。この年、有司に命じて帝の姿に似せた石像を造らせ、完成すると顔と足に黒い石紋があり帝の身の黒子と一致したため、人々は純誠の感応と評した。興光元年秋、五級大寺に太祖以下五帝の釈迦立像を鋳造させ、各高さ一丈六尺、赤金二万五千斤を用いた。
- 太安初め、師子国の胡沙門邪奢遺多・浮陀難提ら五人が仏像三体を奉じて至り、西域諸国で見た仏の面影を語った。師賢没後、曇曜が代わって沙門統(統の名を改称)となり、京城西の武州塞に石窟五所を開き、高さ七十尺・六十尺の仏像を彫らせた(雲崗石窟)。曇曜は平斉戸や年に穀六十斛を僧曹に納める民を僧祇戸・僧祇粟とし、凶年の賑給に充てるよう提案し、重罪人や官奴を仏図戸として寺の掃除・営田に充てることも請い、高宗はこれを許した。曇曜はまた天竺沙門常那邪舎らと新経十四部を訳出した。
顕祖(献文帝)の代
- 顕祖は仏道を篤く信じ、老荘も好み沙門・玄談の士を招いて理を論じた。高宗太安末年、劉駿の丹陽中興寺での斎会に容儀秀でた沙門が現れ「恵明」と名乗り「天安寺から来た」と告げて消え去った逸話があり、その七年後に顕祖が即位し年号を「天安」と改めた。この年、劉彧の徐州刺史薛安都が魏に降り、翌年淮北の地を得、高祖(孝文帝)が誕生した。
- 永寧寺に七級仏図(高さ三百余尺)を建て、天宮寺には赤金十万斤・黄金六百斤を用いて高さ四十三尺の釈迦立像を造った。皇興中には三級の石仏図(高さ十丈)も建てられ、京華の壮観とされた。
- 高祖の即位後、顕祖は北苑崇光宮に移り玄籍を学び、苑中西山に鹿野仏図を建てて禅堂を設けた。延興二年夏、詔して寺舎を離れて村落を徘徊し姦猾に交わる比丘を取り締まり無籍の僧を糾すこととし、また塔寺の高さを競って財を費やし生き物を傷つける弊風を禁じ、鴛鴦を狩った際に雌雄の情に感じ入り鷙鳥の飼育を禁じる詔も出した。
高祖(孝文帝)の代
- 承明元年八月、高祖は永寧寺で法会を設け良家の男女百余人を得度させ自ら剃髪して仏門に入らせ、顕祖の福を祈った。建明寺も建立させた。太和元年、永寧寺に幸し斎を設けて死罪囚を赦し、方山の太祖営塁の跡には思遠寺を建てた。正光年間までに京城内の寺は新旧あわせて百か所ほど、僧尼二千余人、四方諸寺は六千四百七十八か所、僧尼七万七千二百五十八人に達した。
- 太和四年、鷹師の官署を報徳寺とした。九年、上谷郡の比丘尼恵香が北山の松の下で死に屍が朽ちなかったと有司が奏し、多くの人が見物に訪れた。十年、無籍の僧尼を検括し州ごとに還俗させた者は合計千三百二十七人であった。十六年、四月八日・七月十五日に度僧する人数を大州百人・中州五十人・下州二十人と定め令に著した。十七年、僧制四十七条を定めた。
- 十九年、高祖は徐州白塔寺に幸し、成実論の伝承(嵩法師が羅什に学び淵法師・登法師・紀法師と伝わった系譜)を語った。沙門道登は高祖に重んじられ講論に侍したが二十年に没し、高祖は帛千匹を施し七日間の行道を命じ、深く哀惜した。西域の沙門跋陀は少林寺を建てて住させた。二十一年、羅什の旧堂跡に三級浮図を建てることを命じ、羅什の子孫を捜させた。監福曹(後の昭玄)が置かれ僧務を統括し、道順・恵覚・僧意・恵紀・僧範・道弁・恵度・智誕・僧顕・僧義・僧利らが義行で重んじられた。
世宗(宣武帝)の代
- 永平元年、詔して僧の殺人罪は俗法で裁き、それ以外は昭玄に付し内律で処断することとした。永平二年、沙門統恵深の上言により僧尼の律を整え、州鎮郡の維那・上座・寺主に戒律の自修を求め、出家者が私財を蓄えることや、父母の喪に際する不当な儀礼、私営の寺(僧五十人未満)の禁止、外国僧の検審などを定めた制が詔許された。恒農荊山で造られた珉玉丈六像は洛浜の報徳寺に迎えられ世宗が自ら礼を尽くした。
- 永平四年、僧祇粟の運用の弊害(利息の過剰徴収など)を正す詔が出され、尚書令高肇の奏により、涼州軍戸趙苟子ら二百家が僧祇戸とされていたものが都維那僧暹・僧頻らの不当な召致で自縊・溺死者五十余人を出した事件が糾され、趙苟子らの帰郷が認められ僧暹らは処罰を免ぜられた。
- 世宗は仏理を篤く好み毎年宮中で自ら経論を講じ名僧を集めた。延昌中には天下の州郡の僧尼寺は一万三千七百二十七か所に達した。
- 熙平元年、沙門恵生を西域に遣わし経律を求めさせ、正光三年冬に帰京し経論百七十部を得た。正光二年、霊太后の令により度僧の人数(大州三百人・中州二百人・小州百人)と選抜の厳格化、奴婢の出家禁止、私度の禁止と連座罰(隣長・里党・県郡州鎮の等級に応じた免官)が定められたが、法禁は緩み実効は上がらなかった。
- 景明初め、大長秋卿白整に代京霊巌寺の石窟に倣い洛南伊闕山(龍門)に高祖文昭皇太后のため石窟二所を開かせた。正始二年、大長秋卿王質が高すぎるとして計画を下方修正し、永平中には中尹劉騰が世宗のため石窟一所を加え、景明元年から正光四年六月までに八十万二千三百六十六の労働力を要した。粛宗熙平中、霊太后が城内太社の西に永寧寺を建て、九層仏図(高さ四十余丈)を自ら基を定めて建立、費用は計り知れず、景明寺の仏図もこれに次ぐ規模であった。
神亀元年 任城王澄の上奏(寺院乱立の弊)
- 神亀元年冬、司空公尚書令任城王澄は、高祖が洛陽に都を定めた際「城内には永寧寺一所のみ、郭内には尼寺一所のみを置く」と制したにもかかわらず、景明初めから禁を犯す者が現れ、世宗は城内への新規建立を禁じたが、正始三年に沙門統恵深の求めで既成の寺は取り壊さない例外を認めたことが私営の乱発を招いたと指摘した。永平二年に恵深らが立てた「僧五十人以上を条件に上奏の上で建立」との条制も守られず、遷都以来二十余年で寺が民居の三分の一を奪うに至ったと述べ、京邑だけでなく諸州鎮の僧寺も民の田宅を侵しているとし、僧の質の玉石混淆(真の修行者と法服を借りた者の別)を分けるべきこと、明詔がたびたび出ても違犯が絶えないのは厳罰の欠如によることを論じ、標榜(禁令の掲示)の実効性のなさ、郭外への移転・売却規定、既存の霊像は移さず維持しつつ周辺の屠殺業を禁じることなど具体的な措置を提案した。詔はこの奏を許可した。
- まもなく天下が喪乱し河陰の変で死んだ朝士の家が多く邸宅を寺として施捨したため、京邑の邸第の多くが寺となり、以前の禁令は行われなくなった。
東魏(鄴遷都後)
- 元象元年秋、詔して「梵境は清曠を旨とし伽藍浄土は塵囂を絶つべきもの。鄴遷都の当初、百官士民には新城の宅を給し旧城の宅は一時的な貸与にすぎなかったのに、多くの者がこれを私に寺として立てている」として有司に精査させ、新立の寺は取り壊すこととした。冬にも、州郡牧守・県令に寺の建立を禁じ、違反者は資金・労役をすべて枉法として論じる詔が出た。興和二年春、鄴城の旧宮を天平寺とした。
- 世宗以来武定末まで名の知れた沙門には恵猛・恵辨・恵深・僧暹・道欽・僧献・道晞・僧深・恵光・恵顕・法栄・道長らがいた。魏の建国から禅譲までに流通した仏経は合計四百十五部一千九百十九巻に及んだ。
- 正光以後、天下に工役が多く、民が調役を逃れるために出家を装う例が横行し、中国の仏法史上かつてない規模となった。おおよその見積もりで僧尼は二百万人、寺は三万余に及び、識者はこれを嘆息した。
道教の起源と教義
- 道家の源は老子に出る。老子は自ら「天地に先んじて生まれ万類を資け、上は玉京で神王の宗となり下は紫微で飛仙の主となる」と説き、千変万化して有徳・不徳に応じ迹を現すとされ、軒轅に授け、帝嚳に教え、大禹に長生の訣を伝え、尹喜が道徳の旨を受けたなど、多くの伝承がある。丹書紫字・昇玄飛歩の経、玉石金光の霊洞の説などが数多く伝わり、秦の始皇・漢の武帝もこれを求めてやまなかった。霊帝は華蓋を灌龍に置き壇場を設けて礼を行った。張陵が鵠鳴で道を受け天官の章本を伝え、千二百人余りの弟子に授けたことから斎祠・跪拜の法が大いに行われるようになった。道教には三元九府百二十官の神格の体系があり、劫数の観念(延康・龍漢・赤明・開皇など)は仏教の劫の説に類する。化金銷玉・行符勅水などの方術があり、上は羽化飛天、次には消災滅禍を説くため、異を好む者はしばしばこれを尊事した。
- 魏の文帝が晋に人質として入った際、従者務勿塵の姿が神奇であったため伊闕山寺で仙人になったとされ、識者は魏の国運が大いに興る兆しと評した。太祖は老子の言を好んで誦し、天興中、儀曹郎董謐が服食仙経数十篇を献じたことから仙人博士を置き仙坊を立てて薬を煉らせ、死罪人に試飲させたが多くは死んで効験がなかった。それでも太祖はなお修めようとしたが、太医周澹が煎採の労役を厭い仙人博士張曜の隠罪を利用して辟穀を願わせ、練薬の官はしだいに廃れた。
寇謙之の伝
- 世祖の代、道士寇謙之(字輔真、南雍州刺史寇讃の弟)は寇恂の十三世孫と自称し仙道を好み張魯の術を修めたが効験がなかった。仙人成公興という人物に出会い、算術を教わり弟子となり、華山・嵩山で修行を積み、成公興が去った後、神瑞二年十月乙卯、太上老君と称する大神に出会い「天師張陵没後、地上に師授する者がないため、お前を天師に任じ雲中音誦新科之誡二十卷を授ける」との啓示を受けたと伝わる。これにより「三張の偽法(租米銭税・男女合気の術)を除き、礼度を首とし服食閉練を加える」道教改革を説いたとされ、王九疑ら十二人に服気導引の口訣を授け、弟子十余人が皆その術を得た。
- 泰常八年十月戊戌、牧土上師李譜文(老君の玄孫と称する)が至り、地方三十六土を治める牧土宮主として謙之に法録(六十余卷、「錄圖眞經」と称する)を授け、北方泰平真君の出現と天宮静輪の法を予言したとされる。仏教についても「西胡で得道した仏は四十二天の延真宮主である」とする位置づけが語られたという。
- 始光初め、謙之はこの書を世祖に献じ、崔浩がひとりこれを信じ師事して法術を受け、上疏して「聖王が受命する際の河図洛書は禽獣の文に寄せるものだったが、今日の人神の直接の対話とそれを記した手筆はさらに深妙である」と称え、世祖もこれを信じ、嵩岳の道士たちを京師に迎えて天師道場(重壇五層)を建て、道士百二十人に衣食を給し六時の礼拝と厨会を行わせた。
- 世祖が赫連昌討伐を太尉長孫嵩に難じられた際、謙之に吉凶を問い「必ず克つ」との答えを得た。太平真君三年、謙之は静輪天宮の法を上奏し、世祖は道壇に至り符録を受け、旗幟をすべて道家の色である青にした。以後の諸帝の即位もこれに倣ったという。恭宗は静輪宮の造営が万計の労役を費やしながら完成しないことを世祖に諫めたが、崔浩の後押しもあり事業は続けられた。太平真君九年、謙之は没し、道士の礼で葬られた。没する前に弟子へ「私が去った後、仙官が来る」と告げ、実際に卒去の前後に不可思議な現象があったと伝えられる。
太武帝期のその他の方士
- 京兆の韋文秀は嵩高に隠れ京師に召され、金丹の術について「神道は幽昧で予測しがたい」と慎重な立場を取り、王屋山で崔頤とともに丹を合成しようとしたが成らなかった。河東の祁纖は人相見に長け上大夫を拝した。潁陽・絳・聞喜の呉劭は道引養気を積んで百余歳でも神気が衰えなかった。恒農の閻平仙は博学だが辞占が聴くに足るとされ、世祖が官を授けようとしたが辞退した。扶風の魯祈は赫連屈孑の暴虐を避けて寒山に隠れ数百人の弟子を教えた。河東の羅崇之は松脂を食して五穀を断ち中条山で道を受けたと称し、世祖が郷里で祈請壇を立てさせたが、洞穴の探査は途中で行き止まりとなり、有司は誣罔として処罰を求めたが世祖は「道を修める者が世を欺くはずがない」として赦した。東萊の王道翼は韓信山に四十余年隠れ、顕祖に召されて京師に赴き僧曹(原文のまま)から衣食を給された。
高祖以降の道教
- 太和十五年秋、詔して都城内の道教施設の乱立を避け、都南の桑乾の陰・岳山の陽に崇虚寺を新設し戸五十を給して祭祀に充て、諸州の隠士を召して定員九十人とし、鄴遷都後も同様の制を続けた。道壇は南郊に方二百歩の広さで設けられ、正月七日・七月七日・十月十五日に道士高人百六人が拝祠の礼を行った。しかし諸道士の多くは精至に至らず才術も見るべきものがなく、武定六年には有司の上奏によりついに廃止された。道術に優れた者として河東の張遠遊・河間の趙静通らがおり、斉の文襄王(高澄)は京師に別館を設けてこれを礼遇した。