魏書卷一百八之三 志第十二 禮四之三

文明太后(馮太后)の喪をめぐる論争

  • 魏では太祖から武泰帝まで、太皇太后・皇太后・皇后が崩じた際は漢魏の例に倣い葬後に喪を公除してきたが、太和十四年(490年)九月、文明太后が崩じ山陵を営むにあたり、この時だけは異例の展開となった。
  • 安定王休(東陽王丕以下、齊郡王簡・咸陽王禧・河南王幹・広陵王羽・潁川王雍・始平王勰・北海王詳・太尉録尚書事東陽王丕・司徒淮陽王尉元・司空長楽王穆亮・尚書左僕射平原王陸叡ら百官)が上表し、三年の喪は自古の礼だが中代以降は行われておらず、先朝の成式や聖后(文明太后)が定めた終制(金冊)に従い喪期の礼数を通常通りとするよう求めた。詔は「凶禍甫爾、未忍所請」として拒否。
  • 休らは重ねて上表し、五帝以前の喪期の不定、三代の制度が名のみで実行されなかった歴史(高宗の諒闇、康王の即位の礼)、二漢・魏晋の政治が喪を早く終えたことによる利点を述べ、天下の政務が滞ることを懸念して重ねて求めたが、詔はなお「山陵の遷厝を聞くに忍びない」として拒否した。
  • 十月、既葬の後も休らはさらに上表し、周康王・漢文帝・漢景帝の先例、及び聖后自身が定めた終制の重みを説いて重ねて求めた。詔は「大意は典冊の通りとするが、衰服の可否は別に心中で定める」と応じた。
  • 帝は太尉丕らを太和殿前に引見し哭拝したのち、尚書李沖を通じて群臣に対し、逺祖以来の大諱の慣例(侍送梓宮の者のみ凶服)や、金冊の遺令を守り前式に従うよう求める丕の言葉が伝えられた。帝は「祖宗は武略を専らとし文教は未だ修まっていない。朕は聖訓を仰ぎ古道に習おうとしている」と応え、髙閭・游明根らに詳しい議論をさせることとした。
  • 髙祖は游明根に対し、山陵が既に過ぎ公卿がなお金冊に基づき除服を求めることに深い悲しみを示し、聖人の卒哭・小祥の礼が奪情を漸進的に行うものであることを説き、旬日の間に即吉を求めるのは理に反すると述べた。明根は金冊の遺旨(葬後即ち即吉)に従うべきと応じた。
  • 高祖はさらに、中代に三年の喪が行われなかった理由は継嗣の君の徳がまだ天下に示されていないためであり、自分は聖母の訓育を長く受け既にその徳を知られているのだから、この機に哀慕の心を遂げないのは情理を損なうと述べた。髙閭は漢文帝・景帝の例(三旬の喪礼)や杜預の説(古来天子で三年の喪を行った者はいない)を挙げ、遺冊の趣旨に従うよう求めた。
  • 高祖は漢景帝の例も嫡子即位で状況が異なるとし、聖母の徳への報恩は服喪のみでは足りないとしつつ、金冊の趣旨は政事の停滞を懸念してのものであり、萬機を廃さない範囲で衰服を続け朔望に哀を尽くすという中間案を示した。李彪は漢の明徳馬皇后の喪の際に章帝が旬を出でずして即吉した先例を挙げ従吉を勧めたが、高祖は「事の性質が異なる」として退けた。
  • 高祖は、太祖以来歴代の帝が武功に専念し文徳を修める暇がなかった事情と自分の代の違いを述べ、末朝の因循を先例とするのは不適切だとした。髙閭はなお先朝の慣例に基づき重ねて求めたが、高祖は卒哭後は庶事を理めながらも衰服を続けるという方針を重ねて示した。髙閭は君が上で除服せず臣が下で釈衰するのは服従の義に反すると指摘したが、高祖は「朕は遺冊に逼られて三年の喪を遂げられないが、せめて期年(一年)を目安に、寒暑一巡するまで服喪の心を保ちたい」との折衷案を提示。以後の除服は爵位・官職に応じ段階的に行う具体案(庶民・小官は即吉、内職羽林中郎以下虎賁郎以上と外職五品以上は素服で三月、内職・外臣で衰服の者は練礼に変え三月で除く、諸王三都駙馬及び内職は来年三月晦の練まで、帝自身はそれ以降とする)を示した。
  • 明根はなお期年での即吉を求めたが、高祖は「既に段階的に降除しており政務に支障はない」として退けなかった。髙閭・李彪はさらに王孫倮葬・士安の倹葬の故事や「三年不改父之道」の語を引いて金冊への服従を求めたが、高祖は「王孫・士安が子に命じたのは倹葬についてであり、遺令に従わないこととは違う」「梓宮・玄房・明器の倹約は既に実行している」と反論した。
  • また春秋の宗廟祭祀を廃すべきでないとする休らの表に対し、高祖は「祭るに祭らざるが如し、との孔子の言葉があり、有司による代行で十分だった先例もある」「宗廟の霊もまた喪に服し歆祀を輟めているだろう」として、自ら吉礼を行うことに強く抵抗した。髙閭・李彪は「三年礼を行わなければ礼は壊れ楽は崩れる」と諌めたが、高祖は宰予の不仁の説(孔子に退けられた説)に等しいとして退けた。
  • 高祖はさらに、康王の即位の礼が三年の喪を欠いたとする休らの表現について「服の美を安んじないという前賢の説がある」と応じ、髙閭は曾子が父の喪に七日食を断った故事(孔子はこれを非礼としたが三年ではなく七日と記録したのは初めの哀慕を重んじたため)を引き、陛下が既に五日不食し三食も半溢に満たない状況を案じ、聖人は「及ばざるは企ちてこれに及び、過ぎたるは俯してこれに就く」とする原則に従うよう求めた。高祖は曾参の例は特例であり自分の現在の孝心の議論には当たらないとした。
  • 高祖は、二漢・魏晋が葬後即吉としたのは季世の権宜策であり治世の本質ではないと反論し、公卿がかつて自らの治世を軒唐虞禹に比していながら今は喪礼だけ魏晋の簡略に倣わせようとするのは矛盾していると指摘。聖母(文明太后)の徳が古今に並ぶものがないことを強調し、堯・舜の故事(舜が禅譲を受けたにもかかわらず堯の喪に三年服した)にも触れ、なお公卿の意見に理があれば従うと述べた。
  • 髙閭・李彪はなお、江南の呉、朔北の異民族、東西二蕃の情勢が不穏であることを懸念材料として挙げたが、高祖は魯公・晋侯が絰を帯びたまま出師した前例を引き、有事の際にすら喪服を妨げとしない以上、太平の今それを理由に喪紀を廃す必要はないと述べた。李彪は太伯が父の喪中に越に行った故事を引いたが、高祖は事情が異なるとして退けた。
  • 最終的に高祖は「王者が衰を除いて諒闇のまま喪を終える方式か、朕の衰を許さないなら朕が除衰して政務を冢宰に委ねる方式か、二つのうち公卿が選べ」と迫った。游明根は衰服を保ちつつ政務も執るという方針(前述の折衷案)を支持し、東陽王丕・尉元も先朝の旧事(三月間の迎神の吉礼)を持ち出したが、高祖は「大禍の三月の間に吉礼を備え行うのは忍びがたい」として退けた。
  • こうして議論は往復を重ねたが結論が出ず、群臣は哭いて退出した。壬午、詔は「公卿は金冊遺旨や中代の成式を根拠に葬後即吉を求めるが、朕は三年の礼を遵じたい。既に虞卒哭を経たので、この月二十日をもって以葛易麻の受服とする。公卿は下で独り釈服できないため、朕の授変から練に至るまでの各段階に応じ節を降す」との最終決定を示し、遺旨の速除の一節だけを取り入れる形で決着した。

太和廟の遷奉と山陵の儀礼

  • 太和十五年(491年)四月癸亥朔、太和廟で薦を設け、帝以下服喪者が朝夕臨み、初めて蔬食を進めた。帝は哀哭のあまり食が進まず、侍中南平王馮誕らの諌めで一夜明けて食した。甲子、朝夕の哭を罷めた。
  • 九月丙戌、有司が祥日の占いを求めたが、帝は「筮の吉凶を問うのは敬事の志に反する」として、金冊の趣旨に従いこの晦日をもって行うとした。丁亥、帝は廟に宿し、翌未明にかけて神主を新廟へ遷す一連の儀礼(易服・薦羞・哭拝・刺史以下の入哭・蕭賾(南朝斉)使者や雑客の入哭など)が細かく執り行われた。十月、太尉丕は移廟の日に神主を遷す役目を国の大姓が担うべきで神部尚書王諶(庶姓)は不適とする先朝の旧例を奏上し、詔は太尉自らが行事し、王諶には賛板のみを担当させることとした。
  • 是年(太和十五年)、高麗王璉が死去。詔は、高麗が歴代朝貢の職を尽くしてきた蕃国であることを踏まえ、同姓は廟で哭し異姓は方角に応じて服するという古礼が久しく廃れているため衰を作らず、素委貌・白布深衣で城東において哀を尽くし使者を迎えることとした。
  • 太和十六年(492年)九月辛未、高祖は文明太后陵で終日哭した。壬申、忌日として陵で哭し、癸酉には朝中夕三時に陵前で哭拝し監玄殿に宿した。甲戌、陵を辞して永楽宮に還った。

童子の喪服制(太師馮熙の喪)

  • 太和十九年(495年)、太師馮熙が薨じたが遺された子は幼く、童子の喪服の程度が議論となった。当初の議者は、童子は成人と異なり衰はあっても裳はなく、免はあっても絰はなく、腰麻・繆垂もなく絞帯のみとすべきとした。
  • 博士孫恵蔚は上書し、礼記玉藻・喪服記の各条を引き、童子であっても居喪の節・冠杖の制は成人の衰麻の服に大きく異ならないとし、童子が既に錦紳・佩觹の革・錦紐の紳という二帯を備えている以上、凶礼に転じれば腰絰も存すべきであると論じた。また「童子無緦服」の鄭注(免はしても服はしない意で、裳の有無を否定するものではない)を根拠に、居喪の斬衰であるにもかかわらず裳を欠くのは筋が通らないと述べた。さらに、童子が無裳とされる記述は幼少期に限った話であり、志学の年齢を過ぎ冠を控える年頃であれば成人に准じるべきだとし、女子が二十歳で嫁がずとも祭祀を助ける礼服を備える例を引いて、男女とも幼くとも裳を備えるべきだと結論づけた。
  • 詔はこの孫恵蔚の議に従った。