魏書卷一百五之一 志第一 天象一之一

前上十志啓(魏収等の上表文)

  • 魏収らが謹んで啓す。司馬遷(子長)は世に稀な才で史記を著し、班固(孟堅)もその時代随一の史家として前人の憲章を受け継ぎ、紀伝の間に書志を設けて後世に伝えた。その後、司馬彪(叔峻・ここでは「叔峻」表記のまま)が班固の志を刪り補い、劉昭がそれを継いで整理したが、蜀漢の十志は班固・司馬遷の体を模範としながらも欠を残した。曹魏一代の記録には備わった志が無く、西晋(典午)の記録も精粗まちまちで、四夷の動静も俗説が交じり考証に耐えない。永嘉の乱以降、中原が混乱し偏偽の諸小国の記録は取るに足りない。しかし魏は天下を継承し、初めから終わりまで譲位・継承の筋目を正しく保ってきた。今上陛下は天意を奉じ、百王を見渡し、万世に思いを致され、魏の天下平定の事業と中原の人倫の系譜を後世に伝えることを臣らに命じられた。志とは紀伝に付随させることのできない散逸した事跡を網羅するものであり、疎かにできない。そこで晩年に至るまで長い歳月をかけて撰録し、旧記を採り新しい知見を加えて、十志二十巻を完成させた。これを伝の末尾に続け、既存の紀伝と合わせて全百三十一巻とすることを謹んで申し上げる。臣らは官にありながら浅学で、拙い作に過ぎず恐縮であると結んでいる。
  • 上表は十一月、持節都督梁州諸軍事・驃騎将軍・梁州刺史・前著作郎・富平県開国子である臣魏収が啓し、平南将軍・司空司馬・修史臣の辛元植、冠軍将軍・国子博士・修史臣の刁柔、陵江将軍・尚書左主客郎中・修史臣の高孝幹、前西河太守・修史臣の綦毋懐文が連署した。

総序(天象志の趣旨)

  • 天に現れる象は聖人が観測するものであり、日月五星の変異、すなわち暈食・疾行・逆行・侵犯・守護・流星・彗星などの異常はすべて天譴と応験を伴う。明晦・暈蝕・彗孛などの現象は、天が道無き君を退け有徳の君を立てる兆しであったり、王者の徳の欠如に感応して起こるとされる。『易』は「天は象を垂れて吉凶を示す。天文を観て時の変化を察する」といい、『書』は「暦象日月星辰、民に時を授く」という。それゆえ国家を保つ者はこれを畏れ敬う。班固の『漢書』は日暈・五星の類を天文志に、薄蝕・彗孛の類を五行志に分けて記したが、これを陸機は「学者の疑うところ」と評した。魏収はこれに倣わず、天にある諸々の異変をすべて「天象」としてまとめ、応験があれば付記し、無ければ省くとした。

太祖(道武帝)期

  • 天興五年(402年)8月、天が鳴るという怪異があった。
  • 天興六年(403年)9月、再び天が鳴った。
  • 皇始二年(397年)10月壬辰、日暈に佩璚(環状の暈)が現れた。占いは「兵が起こる」とし、翌天興元年(398年)9月、烏丸の張超が亡命者を集めて三千余家を率い、勃海郡南皮に拠って征東大将軍・烏丸王を自称し諸郡を略奪したため、将軍の庾岳に討伐を命じた。
  • 天興三年(400年)6月庚辰朔、日食があった。占いは「外国が侵し、土地が分かたれる」とし、天興五年(402年)5月、姚興が弟の義陽公平に四万の兵を率いさせて平陽の乾壁に来攻し、乾壁は平に陥落させられた。
  • 天興六年(403年)4月癸巳朔、日食があった。占いは「兵がやや出る」とし、10月、太祖は将軍伊謂に騎兵二万を率いさせて北方の高車を襲わせ、大破した。
  • 天賜五年(408年)7月戊戌朔、日食があった。占いは「后が死す」とし、翌六年(409年)7月、夫人劉氏が薨じ、後に宣穆皇后と諡された。
  • 太宗神瑞二年(415年)8月庚辰晦、日食があった。
  • 世祖始光四年(427年)6月癸卯朔、日食があった。占いは「補佐の臣が適任でない」とし、神䴥元年(428年)2月、司空の奚斤と監軍侍御史の安頡が赫連昌を安定で討ってこれを捕らえたが、残党が昌の弟の定を主に立てて平涼へ逃走したため斤がこれを追い、逆に定に捕らえられた。将軍の邱堆は甲を棄てて守将の高涼王礼とともに蒲坂へ東走し、世祖は怒って堆を斬った。
  • 神䴥元年(428年)11月乙未朔、日食があった。
  • 太延元年(435年)正月己未朔、日食があった。
  • 太延四年(438年)11月丁卯朔、日食があった。
  • 太平真君元年(440年)4月戊午朔、日食があった。
  • 太平真君三年(442年)8月甲戌晦、日食があった。
  • 太平真君六年(445年)6月戊子朔、日食があった。占いは「九族が皆殺しにされる」とし、七年(446年)正月戊辰、世祖は東雍州に進軍し、庚午に薛永宗の営塁を包囲した。永宗は出撃したが六軍がこれに乗じて大敗させ、永宗の衆は潰走し、永宗の男女は老若を問わず皆汾水に投じて死んだ。
  • 太平真君七年(446年)6月癸未朔、日食があった。占いは「臣ならざる者が主を殺そうとする」とし、八年(447年)3月、河西王沮渠牧犍が謀反し誅殺された。
  • 太平真君十年(449年)4月丙申朔、日食があった。
  • 太平真君十年(449年)6月庚寅朔、日食があった。占いは「将相が誅される」とし、十一年(450年)6月己亥、司徒崔浩が誅殺された。
  • 太平真君十一年(450年)12月辛未、日に南北の珥(暈の左右に生じる光)が現れた。
  • 高宗興安元年(452年)11月己卯、日の出が血のように赤かった。
  • 興安二年(453年)3月、日暈があった。
  • 興光元年(454年)7月丙申朔、日食があった。
  • 和平元年(460年)9月庚申朔、日食があった。
  • 和平三年(462年)2月壬子朔、日食があった。占いは「喪の会がある」とし、六年(465年)5月癸卯、高宗が崩じた。
  • 顕祖皇興元年(467年)10月己卯朔、日食があった。
  • 皇興二年(468年)4月丙子朔、日食があった。占いは「誅される者がある」とし、四年(470年)10月、済南王慕容白曜が誅された。
  • 皇興二年(468年)10月癸酉朔、日食があった。占いは「尊后に憂いがある」とし、三年(469年)夫人李氏が薨じ、後に思皇后と諡された。
  • 皇興三年(469年)10月丁酉、日食があった。
  • 高祖延興元年(471年)12月癸卯、日食があった。占いは「兵事がある」とし、二年(472年)正月乙卯、統万鎮の胡族の民が相率いて北で反乱を起こし、寧南将軍・交阯公の韓抜らを遣わしてこれを平定した。
  • 延興三年(473年)12月癸卯朔、日食があった。
  • 延興四年(474年)正月癸酉朔、日食があった。占いは「崩じる主がある。天下は喪服に改まり、大臣が死ぬ」とし、五年(475年)12月己丑、征北大将軍の城陽王寿が薨じ、六年(476年)6月辛未、顕祖が崩じた。
  • 延興六年(476年)7月丙寅、日に背珥(暈の一種)が現れた。
  • 延興五年(475年)正月丁酉、白虹が日を貫き、珥が一つ現れた。
  • 承明元年(476年)3月辛卯、日暈が五重にかかり、珥が二つ現れた。
  • 太和元年(477年)10月辛亥朔、日食があった。
  • 太和二年(478年)正月辛亥、日暈があり東西に珥が現れた。
  • 太和二年(478年)2月乙酉晦、日食があった。占いは「謀反を企てる者があり、近ければ三月、遠ければ三年で発覚する」とし、四年(480年)正月癸卯、洮陽の羌が反したが抱罕鎮将がこれを討ち平らげた。
  • 太和二年(478年)9月乙巳朔、日食があった。占いは「東方の邦が発兵する」とし、四年(480年)10月丁未、蘭陵の民桓富がその県令を殺し、昌慮の桓和や北方の太山の群盗張和顔らと結び、五固に拠って司馬朗之を主に推戴したため、淮陽王尉元らに討伐を命じた。
  • 太和三年(479年)正月癸丑、日暈に東西の珥、佩戟の暈が一重、その後方に偃戟の暈が四重かかり、白気が日を貫き珥は車輪のような形をしていた。京師では見えず雍州が奏聞した。
  • 太和三年(479年)3月癸卯朔、日食があった。占いは「大臣が誅される」とし、4月、雍州刺史の宜都王目辰が罪により賜死された。
  • 太和四年(480年)正月辛酉、日の東西に珥があり、北に佩の暈が日暈を貫いた。
  • 太和五年(481年)正月庚辰、日暈に東西の珥があり、南北に長さ一丈・幅二尺ほどの白気が並び、北には連環の暈が珥を貫き、内部にはさらに長さ三丈ほどの直気があって内は黄色中は青、外は白の暈が現れては散じて消えた。
  • 太和五年(481年)7月庚申朔、日食があった。
  • 太和七年(483年)12月乙巳朔、日食があった。
  • 太和八年(484年)正月戊寅、白気が日を貫いた。占いは「近臣が乱を起こす」とし、十年(486年)3月丁亥、中散の梁衆保らが謀反し誅殺された。
  • 太和十一年(487年)11月丁亥、日の色が失われた。
  • 太和十二年(488年)3月戊戌、白虹が日を貫いた。
  • 太和十三年(489年)2月乙亥朔、日食が十五分の八にまで及んだ。占いは「喪の会がある」とし、11月己未、安豊王猛が薨じた。
  • 太和十四年(490年)2月己巳朔未の刻、雲気がまだらとなり日食が十五分の一に及んだ。占いは「喪の会がある」とし、9月癸丑、文明太皇太后馮氏が崩じた。
  • 太和十五年(491年)正月癸亥晦、日食があった。占いは「王者が兵を率い天下が動揺する」とし、十七年(493年)6月丙戌、高祖が南伐した。
  • 太和十七年(493年)6月庚辰朔、日食があった。
  • 太和十八年(494年)5月甲戌朔、日食があった。
  • 太和二十年(496年)9月庚寅晦、日食があった。
  • 太和二十三年(499年)6月己卯、日中に黒気が現れた。占いは「内に謀反がある」とし、8月癸亥、南徐州刺史の沈陵が南朝へ叛いた。
  • 太和二十三年(499年)12月甲申、日中に桃の実ほどの黒気が現れた。
  • 世宗景明元年(500年)正月辛丑朔、日食があった。
  • 景明元年(500年)7月己亥朔、日食があった。
  • 景明二年(501年)4月癸酉、日が午から未の刻にかけて二度暈をなし、内は黄、外は白であった。
  • 景明二年(501年)7月癸巳朔、日食があった。
  • 景明二年(501年)8月戊辰、日が赤く光を失い、中に黒子が一つ現れた。
  • 景明三年(502年)正月乙巳、日中に鵝の卵ほどの黒気が現れ、申・酉の刻に再び見え、さらに二つの黒気が日を横に貫いた。
  • 景明三年(502年)2月辛卯、日中に鵝の卵ほどの黒気が現れた。
  • 景明三年(502年)7月丁巳朔、日食があった。
  • 正始元年(504年)12月丙戌、黒気が日を貫いた。
  • 正始元年(504年)壬子、日に冠珥が現れ、内は黄、外は青であった。占いは「天下が喜ぶ」とし、三年(506年)正月丁卯、皇子が誕生し天下に大赦した。
  • 正始三年(506年)2月甲辰、日の左右に珥が現れ、内は赤、外は黄であった。
  • 正始三年(506年)辛亥、日暈があり外は白、内は黄であった。
  • 正始三年(506年)10月乙巳、日が赤く光を失った。
  • 正始三年(506年)12月乙卯、日暈が内は黄、外は青で東西に珥があり、北には背が現れ、巳の刻に白虹が日を貫いた。
  • 永平元年(508年)3月己酉、日の南北に珥が現れ、外は青、内は黄で暈は一周せず、西北には長さ一尺ほどの直気があり、北には白虹が日を貫いた。
  • 永平元年(508年)8月壬子朔、日食があった。
  • 永平二年(509年)8月丙午朔、日食があった。
  • 永平二年(509年)丁卯の朝、日の傍らに月のような形の黒気が現れ、東南から日に衝いて一辰(二時間ほど)でようやく消えた。
  • 永平三年(510年)2月甲子、日中に黒気が二つ現れた。
  • 永平三年(510年)12月乙未、日が交暈し中は赤、外は黄で東西に珥、南北には白い暈が日を貫いて一周した。
  • 永平四年(511年)11月癸卯、日中に桃の実ほどの黒気が二つ現れた。占いは「天子が崩じる」とし、延昌四年(515年)正月丁巳、世宗が崩じた。
  • 延昌元年(512年)12月壬戌朔、牛宿四度で日食があった。占いは「その国が叛き兵が発せられる」とし、延昌二年(513年)正月庚辰、蕭衍配下の郁洲の民徐元明らが、蕭衍鎮北将軍・青冀二州刺史張稷を斬りその首を送って州を挙げて魏に内附した。
  • 延昌元年(512年)2月甲戌から辛巳にかけて、日の出と日没が赤白く光を失った。
  • 延昌元年(512年)5月己未晦、日食が十五分の九に及んだ。占いは「大旱で民が千里も流民となる」とし、二年(513年)春、京師の民は飢えて数万人が死んだ。
  • 延昌二年(513年)閏月辛亥、日中に黒気が現れた。占いは「内に謀反がある」とし、三年(514年)11月丁巳、幽州の沙門劉僧紹が衆を集めて反乱し浄居国明法王を自称したが、州郡がこれを捕らえて斬った。
  • 延昌二年(513年)5月甲寅朔、日食があった。京師では見えず恒州が奏聞した。
  • 延昌三年(514年)3月庚申、日が交暈し内は赤黄、外は青白であった。南北に長さ二丈ほどの佩があり、内は赤黄、外は青白であった。西には白暈が日を貫き、東には長さ二丈ほどの抱があり、内は赤黄、外は青であった。
  • 粛宗熙平元年(516年)3月戊辰朔、日食があった。
  • 熙平元年(516年)丁丑、日の出から酉の刻まで光を失った。占いは「兵が起こる」とし、神亀元年(518年)正月、秦州の羌が反し、2月己酉、東益州の氐が反し、7月、河州の民却鉄怱が衆を集めて反乱し水池王を自称した。
  • 熙平元年(516年)4月甲辰卯の刻、日暈が一周し、西に背が一つ現れ内は赤、外は黄、南北に珥が現れ内は赤、外は黄であったが次第に消えた。
  • 熙平元年(516年)12月己酉、日暈の北に抱が一つ現れ内は赤、外は白、両側に珥、北には白虹が日を貫いた。
  • 神亀元年(518年)3月丁丑、白虹が日を貫いた。占いは「天下に来附する衆がある」とし、二年(519年)11月乙酉、蠕蠕の莫縁梁賀侯豆が男女七百口を率いて来降した。
  • 神亀二年(519年)正月辛巳朔、日食があった。
  • 正光元年(520年)正月乙亥朔、日食があった。占いは「大臣が亡くなる」とし、7月丙子、太傅領太尉清河王懌が殺された。
  • 正光二年(521年)5月丁酉、日食があった。夏州が奏聞した。
  • 正光三年(522年)正月甲寅、日が交暈し内は赤、外は青で、白虹が暈を貫き外に長さ二丈ほどの直気があり内は赤、外は青であった。
  • 正光三年(522年)5月壬辰朔、日食があった。占いは「秦の邦が臣たらず」とし、五年(524年)6月、秦州城の人莫折大提が城に拠って反し秦王を自称した。
  • 正光三年(522年)10月己巳、太史が「8月以来、黄埃が日を掩い、日の出は三丈にわたり色は赭のように赤く光が無かった」と奏した。
  • 正光三年(522年)11月己丑朔、日食があった。占いは「西北に小さな兵事がある」とし、四年(523年)2月己卯、蠕蠕主の阿那瓌が衆を率いて塞を犯した。
  • 正光四年(523年)11月癸未朔、日食があった。
  • 正光五年(524年)閏月乙酉、日暈が内は赤、外は青で南に珥があり、上には抱、両側には背が現れ内は赤、外は青であった。
  • 正光五年(524年)3月丁卯、日暈が三重にかかり外は青、内は赤であった。占いは「その主に対する謀がある」とし、孝昌元年(525年)正月庚申、徐州刺史元法僧が城に拠って反し宋王を自称した。
  • 正光五年(524年)12月丙申、日暈があり南北に珥、上に抱が二つ、背が一つ現れた。
  • 孝昌元年(525年)12月丙戌、白虹が日を刺し貫くことなく、虹の中に背が一つ現れた。占いは「臣がその主に背く、あるいは城が反する」とし、二年(526年)9月己卯、東豫州刺史元慶和が城に拠って南朝へ叛いた。
  • 孝昌三年(527年)11月戊寅辰の刻、日暈の東面が合わず、色は内が赤、外が黄、東西に珥があり内は赤、外は黄で、西北の暈から一尺余り離れて長さ二丈余り・幅三尺ほどの背が現れ内は赤、外は黄であった。
  • 荘帝永安二年(529年)3月甲戌未の刻、日暈が三重にかかり内は黄赤、外は青白、東西二か所の暈が合わず、抱のような形をしていた。
  • 永安二年(529年)5月辛酉、日暈の東西二か所が合わなかった。
  • 永安二年(529年)辛未申の刻、日の南に珥が現れ一尺ほど離れて長さ三丈余り・幅五尺余りの背が現れ内は赤、外は青であった。
  • 永安二年(529年)7月丙寅、日から東に三尺ほど離れて長さ二丈余りの背が現れ内は赤、外は青、半食ほどの間、北頭から次第に消え、半ばで再び最初のように現れ、内は赤、外は青でその色が鮮明であった。
  • 永安二年(529年)10月己酉朔、地平線下から日食が始まり十五分の七に及び、西南の角から欠け始めた。占いは「西の夷が殺そうとし、後に大兵が必ず西へ向かう」とし、三年(530年)4月丁卯、雍州刺史の爾朱天光が安定で万俟醜奴・蕭宝寅を討って捕らえ、京師に送って斬った。
  • 永安三年(530年)5月戊戌辰の刻、日暈が一周し内は赤、外は白で暈の内に珥が二つ、西には白虹が日を貫き、東北に背が一つ内は赤、外は青、南にも背が一つ内は赤、外は青、東には抱が一つ内は青、外は赤であった。京師では見えず青州が上表した。
  • 永安三年(530年)6月辛丑、日暈があり白虹が日を貫いた。
  • 前廃帝普泰元年(531年)3月丁亥、日と月がともに赤褐色となり天地が濁った。
  • 普泰元年(531年)6月己亥朔、日食が西南の角から始まり、雲が陰って見えず定州・相州の二州が上表した。占いは「主が弱く小人が政をとる」とし、この時、爾朱世隆兄弟が権勢を専らにしていた。
  • 後廃帝中興二年(532年)2月辛丑辰の刻、日暈の東西が合わず色は内が赤、外が青、南北に珥があり、西北の暈から一尺余り離れて長さ二丈余り・幅三尺ほどの背が現れ内は赤、外は青であった。
  • 中興二年(532年)11月、日暈が二重にかかり、上に長さ三丈余りの背が現れ内は青、外は赤であった。
  • 出帝太昌元年(532年)5月、日暈が二重にかかり、上に一尺ほどの背が二つ現れた。
  • 太昌元年(532年)癸丑午の刻、日の南に珥が現れ一尺ほど離れて長さ三丈余り・幅五尺の背が現れ内は赤、外は青であった。
  • 太昌元年(532年)10月辛酉朔、地平線下から日食が始まり西南の角から欠けた。占いは「兵事がある」とした。
  • 永熙二年(533年)正月甲午、大丞相・斉献武王(高歓)が晋陽から出撃して爾朱兆を討ち、丁酉に赤洪嶺で大破し、兆は逃走して自殺した。
  • 永熙二年(533年)4月己未朔、丙の方位で日食があり南から欠けた。占いは「君に陰謀がある」とし、三年(534年)5月辛卯、出帝は斛斯椿ら佞臣にそそのかされて斉献武王への疑いを深め、蕭衍討伐を名目に猛暑の中で河南諸州の兵を徴発し、天下がこれを怪しみ悪んだ(詳細は斛斯椿伝にある)。
  • 永熙三年(534年)4月癸丑、日食があった。占いは「乱があり天子を殺す者がある」とし、7月丁未、出帝は斛斯椿らに脅迫されて長安へ出奔した。
  • 孝静元象元年(538年)春正月辛丑朔、日食があった。占いは「大臣が死ぬ」とし、8月辛卯、司徒公高敖曹が河陰で戦没した。
  • 元象元年(538年)6月己丑、日暈が一重にかかり珥が二つ、上に長さ二丈余りの背が現れた。
  • 元象元年(538年)11月己巳辰の刻、日暈の南面が合わず東西に珥があり、背に白虹が及んだが珥までは透らなかった。
  • 元象二年(539年)2月己丑巳の刻、日暈が一周し白虹が日を貫いたが透らなかった。
  • 興和二年(540年)閏月丁丑朔、日食があった。占いは「小さな兵事がある」とし、7月癸巳、元宝炬配下の広豫二州行台趙継宗・南青州刺史崔康が陽翟を侵したが、鎮将がこれを撃退した。
  • 武定三年(545年)冬11月壬申、日暈が二重にかかり東南の角が合わず、西南・東北に珥、西北に二重の背、東北・西北に白気が現れ、珥も二つ、中間にも東西に横たわる白気があり珥に及んだ。
  • 武定三年(545年)12月乙酉、空一面に薄く白雲がかかり、日暈の東南の角が合わず、西南・東北に珥、西北に一尺離れて背が一つ現れた。
  • 武定五年(547年)正月己亥朔、日食が西南の角から始まった。占いは「崩御か、さもなくば大臣が死に天下が喪服に改まる」とし、丙午、斉献武王(高歓)が薨じた。
  • 武定五年(547年)2月辛丑、日暈が一周し西北で交わる暈が日を貫き珥と抱がそれぞれ一つ現れた。
  • 武定六年(548年)7月庚寅朔、日食があり西北の角から欠けた。