魏書卷一百三 列傳第九十一 髙車

出自伝説と狼祖神話

  • 高車はけだし古の赤狄の余種である。初めは狄歴と号し、北方では勑勒、諸夏では高車丁零とした。その語は略々匈奴と同じだが時に小異があり、あるいはその先は匈奴の甥という。その種には狄氏・袁紇氏・斛律氏・解批氏・護骨氏・異竒斤氏がある。
  • 俗に伝えられるところでは、匈奴単于に二人の娘があり姿容が甚だ美しく、国人は皆神と見なした。単于は「吾にこの女あり、どうして人に配せようか、天に与えよう」と言い、国の北の無人の地に高台を築いて二女をその上に置き「天が自らこれを迎えるよう請う」と言った。三年経って母がこれを迎えようとすると、単于は「まだよくない、まだ通じていない」と言った。さらに一年経って一匹の老狼が昼夜台を守って嘷え、台下を穿って空穴を作りしばらく去らなかった。小女は「父が私をここに置いたのは天に与えるためであった、今この狼が来たのは神物で天がこれを使わしたのかもしれない、下って就こう」と言ったが、姉は大いに驚き「これは畜生である、父母を辱めるものだ」と言った。妹は従わず下って狼の妻となり子を産み、後に繁殖して国を成した。それゆえその人々は声を長く引いて歌うことを好み、また狼の嘷えるのに似ている。
  • 都統大帥はなく、種ごとに君長があり、性は麤猛で党類は同心し、寇難に際しては翕然として相い依るが、闘いには行陳なく別々に衝突し、乍ち出て乍ち入り堅く戦うことができない。俗は蹲踞して媟黷(みだら)で忌避するところがない。

婚姻・葬送・信仰の習俗

  • 婚姻は牛馬を納聘として栄とし、話が決まると男の家は車で馬を囲い、女の家は恣に取らせ、上馬して裸乗りで囲いから出し、主人は囲いの外に立って手を振って馬を驚かせ、落ちなければすなわちこれを取り、落ちればまた取り、数が満ちれば止める。俗に穀がなく酒を作らず、婦を迎える日は男女相い将いて馬酪・熟肉を節解して持ち、主人が賓を延くにも席次はなく、穹廬の前に叢がり座して終日飲宴し、なおその宿を留めて明日婦を将って帰る。既にして夫の党を将ってその家に入れば、馬群から良馬を極めて取るが、父母兄弟は惜しんでも終に言う者はない。寡婦を娶ることを頗る諱むが優しく憐れむ。畜産には自ずと記識があり闌に縦されて野にあっても妄りに取ることはない。
  • 俗は清潔でなく震霆(雷鳴)を招きやすいとされ、震があれば叫び天を射てこれを棄て移り去り、来年の秋、馬が肥えると再び相い率いて震のあった場所で候い、羖羊を埋め火を燃やして刀を抜き、女巫が祝説するのは中国の祓除に似ているが、群隊が馬を馳せて百帀旋繞して止まり、人は一束の柳桋を持って回して立て乳酪を灌ぐ。婦人は皮で羊骸を裹んで頭上に戴き、髪鬢を縈屈させて綴り、軒冕に似せる。
  • その死亡の葬送は地を掘って坎を作り、屍を中に坐らせ、臂を張り弓を引き刀を佩び矟を挟み生前と異ならぬが、坎は露わで掩わない。時に震死や疫癘があれば祈福し、安全で他事がなければ報賽をなし雑畜を多く殺し骨を焼いて燎とし、馬を走らせ遶旋すること多くて数百帀、男女は大小となく皆集会し、平吉の人は歌舞し楽を作すが、死喪の家は悲吟して哭泣する。その遷徙は水草に随い、皮を衣て肉を食し牛羊の畜産は尽く蠕蠕と同じだが、車輪だけは高大で輻の数が至って多い。後に鹿渾海の西北百余里へ徙り、部落は彊大で常に蠕蠕と敵対し、また毎に国家を侵盗した。

道武帝期の討伐と内附

  • 太祖は自らこれを襲い諸部を大破した。後に太祖は再び弱洛水を渡り西行して鹿渾海に至り、駕を停めて軽騎を簡んで西北へ百余里行きこれを襲破し、生口・馬牛羊二十余万を虜獲した。さらにその余種を狼山で討ち大破した。車駕巡幸し諸将を分けて東西二道とし、太祖は自ら六軍を勒して中道より駮髯水より西北へその部を徇略し、諸軍同時に雲合してその雑種三十余落を破った。衛王儀は別に将を督して西北から絶漠すること千余里、さらにその遺迸七部を破った。ここに高車は大いに懼れ諸部は震駭した。
  • 太祖は牛川より南へ大校猟を引き、高車を囲騎とし徒遮の列は周ること七百余里、雑獣をその中に聚めて平城まで駆り、高車の衆をもって鹿苑を起した(南は台陰に因り、北は長城に距り、東は白登を包み、西は西山に属した)。まもなく高車の姪利曷莫弗勑力犍がその九百余落を率いて内附し、勑力犍を揚威将軍に拝し司馬参軍を置き穀二万斛を賜った。後に高車解批莫弗幡豆建がまたその部三十余落を率いて内附し、威遠将軍に拝され司馬参軍を置かれ衣服を賜い歳ごとに廩食を給された。
  • 蠕蠕の社崘が破敗した後、部落を収拾し広漠の北へ転徙し高車の地に侵入した。斛律部の部帥倍侯利はこれを患い「社崘は新たに集まったばかりで兵は貧しく馬は少ない、与しやすい」と言い衆を挙げてその国落を掩撃した。高車は利を昧って後患を顧みず廬室を分け婦女を妻にして安息し寝臥して起きなかったが、社崘は高きに登って望み見て亡散を招集し千人を得ると晨に掩殺し、走って脱した者は十のうち二、三であった。倍侯利はついに来奔し孟都公に爵された。

倍侯利の来奔

  • 倍侯利は質直・勇健で衆に過ぎ、戈を奮って陳を陥れること衆と異なった。北方の人で嬰児の啼くのを畏れる者の間で「倍侯利来たれば便ち止む」と語られ、処女の歌謡には「良夫を求めるなら倍侯のようであれ」と歌われるほど、衆を服したことがこのようであった。五十の蓍で吉凶を占うのに善く、しばしば中ったので親幸を得て賞賜も豊厚であった。その少子曷堂に内侍を命じ、倍侯利が卒すると太祖は悼惜し国礼をもって葬り、諡を忠壮王とした。
  • 後に将軍伊謂に詔して二万騎を帥いさせ北の高車の余種袁紇烏頻を襲わせ破った。太祖は当時、諸部を分散させたが、ただ高車だけは麤獷(粗野)で使役に堪えぬ性質のため別に部落として存続を許された。

太武帝期の高車東部平定

  • 後に世祖が蠕蠕を征しこれを破って還る際、漠南に至って高車東部が已尼陂にあり人畜甚だ多く官軍を去ること千余里と聞き、左僕射安原らを遣わして討たせようとした。司徒長孫翰・尚書令劉潔らが諫めたが世祖は聴かず、安原らを遣わし新附の高車を並発して合わせ万騎で已尼陂に至ると、高車諸部で軍を望んで降る者は数十万落に及び、獲た馬牛羊もまた百余万に及んだ。皆漠南千里の地に徙し置き、高車に乗じて水草を逐い畜牧させると数年の後に次第に粒食を知り歳ごとに献貢を致し、これにより国家の馬及び牛羊はついに賤しくなるほど増え、氈皮は積み重なった。
  • 高宗の時、五部の高車が合聚して天を祭り衆は数万に及び、大会で馬を走らせ牲を殺し遊び遶って歌吟すること忻忻とし、その俗は前世以来これより盛んなものはないと称した。車駕が臨幸するたびに忻悦しない者はなかった。後に高祖が高車の衆を召し車駕に随って南討させようとしたが、高車は南行を願わず、袁紇樹者を推して主となし相い率いて北叛し金陵を遊践した。都督宇文福が追討したが大敗して還った。また平北将軍江陽王継を都督として討たせると、継は先に人を遣わし樹者を慰労し、樹者は蠕蠕に入ってまもなく悔い相い率いて降った。

高祖期の反乱と十二姓

  • 高車の族にはまた十二姓がある。一に泣伏利氏、二に吐盧氏、三に乙旃氏、四に大連氏、五に窟賀氏、六に達簿干氏、七に阿崙氏、八に莫允氏、九に俟分氏、十に副伏羅氏、十一に乞袁氏、十二に右叔沛氏という。
  • 先に副伏羅部は蠕蠕に役属していたが、豆崘の世に蠕蠕は乱離し国部は分散し、副伏羅の阿伏至羅は従弟の窮竒と共に高車の衆十余万落を統領していた。太和十一年、豆崘が塞を犯すと阿伏至羅らは固く諫めたが従われず、怒って所部の衆を率い西叛し、前部の西北に至って自立して王となり、国人はこれを候婁匐勒と号した(猶魏語で大天子の意)。窮竒は候倍と号した(猶魏語で儲主の意)。二人は和穆に部を分けて立ち、阿伏至羅は北に居り窮竒は南にいた。豆崘は追討したがしばしば阿伏至羅に敗れ、衆を引いて東へ徙った。

副伏羅阿伏至羅の自立

  • 十四年、阿伏至羅は商胡越者を京師に遣わし二箭を奉貢させ、「蠕蠕は天子の賊臣であり、諫めても従わず叛いてここに来て自ら立った、当に天子として蠕蠕を討除すべきである」と述べた。高祖はまだこれを信じず、使者于提を遣わし虚実を観させると、阿伏至羅と窮竒は使者簿頡を遣わし于提に随って来朝しその方物を貢いだ。詔して員外散騎侍郎可足渾長生に于提と共に高車への使者として、各々繡袴褶一具・雑綵百疋を賜わせた。
  • 窮竒は後に嚈噠に殺され、その子弥俄突らは虜われ、その衆は分散しあるいは来奔しあるいは蠕蠕へ投じた。詔して宣威将軍羽林監孟威を遣わし降人を撫納させ高平鎮に置いた。阿伏至羅の長子蒸は阿伏至羅の余妻と共に阿伏至羅の殺害を謀ったが、阿伏至羅がこれを殺した。阿伏至羅はまた残暴で大いに衆心を失い、衆が共にこれを殺し、その宗人跋利延を主に立てた。歳余りで嚈噠が高車を伐ち弥俄突を納れようとすると、国人は跋利延を殺し弥俄突を迎えて立てた。

弥俄突・伊匐と嚈噠・蠕蠕の抗争

  • 弥俄突が立つと再び朝貢を遣わし、また表を奉じ金方一・銀方一・金杖二・馬七匹・駝十頭を献じ、詔して使者慕容坦が弥俄突に雑綵六十匹を賜った。世宗は詔した。「卿は遠く沙外に拠りしばしば誠款を申べ、忠志を揖むを覧て特に欽嘉する。蠕蠕・嚈噠・吐谷渾が交通するのは皆高昌を路とし掎角相い接するためであるが、今高昌が内附し使を遣わし迎引すれば蠕蠕との往来路は絶え姦勢は通じ得ない、群小に陵犯を許してはならぬ、王人を擁塞する罪は赦されない」。
  • 弥俄突はまもなく蠕蠕主伏圖と蒲類海の北で戦い伏圖に敗れ西へ三百余里を走り、伏圖は伊吾の北山に次した。先に高昌王麴嘉が内徙を表で求め、世宗は孟威を遣わし伊吾に迎えさせると、蠕蠕は威の軍を見て怖れて遁走した。弥俄突はその離駭を聞いて追撃し大破し、伏圖を蒲類海の北で殺しその髪を割いて孟威に送った。また使者を遣わし龍馬五匹・金銀貂皮及び諸方物を献じ、詔して東城子于亮に報じさせ、楽器一部・楽工八十人・赤紬十四・雑綵六十匹を賜った。弥俄突はその莫何去汾屋引叱賀真を遣わしその方物を貢いだ。
  • 粛宗の初め、弥俄突は蠕蠕主醜奴と戦い敗れて禽われ、醜奴はその両脚を駑馬に繋いで頓曳し殺し、その頭を漆って飲器とした。その部衆は悉く嚈噠に入り、数年を経て嚈噠は弥俄突の弟伊匐が国に還ることを聴した。伊匐は国を復すと使者を遣わし表を奉じた。ここに使者谷楷らを遣わし鎮西将軍・西海郡開国公・高車王に拝された。伊匐は再び蠕蠕を大破し、蠕蠕王婆羅門は涼州へ走り投じた。正光中、伊匐は使者を遣わし朝貢し、朱画歩挽一乗並びに幔褥鞦𩊚一副・繖扇各一枚・青曲蓋五枚・赤漆扇五枚・鼓角十枚を乞い、詔してこれを給わせた。
  • 伊匐は後に蠕蠕と戦い敗れて帰り、その弟越居が伊匐を殺して自立した。天平中、越居は再び蠕蠕に破られた。伊匐の子比適は再び越居を殺して自立した。興和中、比適はまた蠕蠕に破られた。越居の子去賓は蠕蠕より来奔し、斉献武王は遠人を招納しようとし去賓を高車王に封じることを上言し、安北将軍・肆州刺史に拝されたが、まもなく病死した。

吐突隣・紇突隣・薛干など諸部の帰服

  • はじめ太祖の時、吐突隣部が女水の上にあり常に解如部と唇歯の関係にあったが職事に供しなかった。登国三年、太祖は自ら西征し弱洛水を渡り、さらに西行してその国に趣き女水の上で解如部落を討ちこれを破り、翌年春にはその部落・畜産をことごとく略取して徙して還った。
  • また紇突隣と紇奚があり、世々同部落だが各々大人・長帥を擁し種類を集め常に意辛山で寇をなした。登国五年、太祖は衆を勒して自ら討ち、慕容驎が師を率いて会し大破した。紇突隣の大人屋地鞬・紇奚の大人庫寒らは皆部を挙げて帰降した。
  • 皇始二年、車駕は中山を伐ち柏肆に軍したが、慕容宝が夜に来て営を攻め軍人は驚走して還り、国路が并州を経由したためついに反して晋陽を攻めようとし、并州刺史元延がこれを討ち平らげた。紇突隣部帥匿物尼・紇奚部帥叱奴根らは再び党を聚めて陰館で反し、南安公元順が討ったが克たず死者は数千人に及んだ。太祖はこれを聞き安遠将軍庾岳を遣わして匿物尼らを討たせ皆殄した。
  • また侯呂隣部衆万余口があり常に険に依って畜牧し、登国中その大人叱伐が苦水河で寇をなしたが、八年夏、太祖は大破し併せてその別帥焉古延らを禽えた。
  • 薛干部は常に三城の間に屯聚していたが、衛辰を滅ぼした後、その部帥太悉伏は軍に望んで帰順し、太祖はこれを撫安した。車駕が還ると、衛辰の子屈丐がその部へ奔ったため、太祖はこれを聞き使者を遣わし太悉伏に執えて送るよう詔した。太悉伏は屈丐を出して使者に示し「今、窮まって身を投じてきた者を、どうしてともに亡ぶことなく忍んで送れようか」と言い、ついに遣わさなかった。太祖は大いに怒り自ら討伐すると、折しも太悉伏は先に出て曹覆寅を撃っており、官軍は虚に乗じその城を屠り太悉伏の妻子・珍宝を獲てその人を徙して還った。太悉伏は赴くも及ばず、ついに姚興へ奔り、まもなく嶺北へ亡帰した。上郡以西の諸鮮卑・雑胡はこれを聞いて皆呼応した。天賜五年、屈丐はことごとく劫掠しこれを総服し、統万を平定するに及んで薛干の種類は皆編戸となった。
  • また率屯山鮮卑の別種の破多蘭部は世々部落を主として伝え、木易干に至って武力壮勇があり左右を劫掠し西は金城に及び東は安定を侵し、数年の間、諸種はこれを患いとした。天興四年、常山王遵を遣わし高平でこれを討たせると、木易干は数千騎を将いて国を棄て遁走し、その人をことごとく京師に徙した。余種は分迸し、後に赫連屈丐に滅ぼされた。
  • また黜弗素古延ら諸部は富みて不恭であったため、天興五年、材官将軍和突が六千騎を率いてこれを襲い獲た。また越勒倍泥部は永興五年、跋那山の西へ転牧したが、七月に奚斤を遣わして討破し、その人を徙して還った。

史論

  • 史臣は言う。周の獫狁・漢の匈奴が中国に害をなしたのはまことに久しい。魏晋の頃には諸種族が瓜のように分立し、沙漠のほとりを往来して辺塞をうかがったが、いずれも東胡の残流・冒頓の末裔であった。とりわけ蠕蠕は匈奴の裔で、その根本は尋ねようもなく、逃亡者が寄り集まって小さきものから大きくなり、風のように馳せ鳥のように赴き、たちまち来てたちまち去ったので、代京(平城)はこれによってしばしば驚かされ、戎車が寧んじなかった。それゆえ魏の祖宗は威を揚げ武を曜かし、その家畜を駆りその部落を収め、これを人跡絶えた荒野に翦り、無人の郷に逐った。好んで兵を極め鋭を尽くしたのではなく、凶器を用いてやまなかったのも、思うに病を急ぎ悪を除く、やむを得ざる事であったからである。