略陽氐呂光(後涼の建国)
- 略陽の氐、呂光、字は世明、本は略隄の出、父の婆樓は苻堅の太尉。光は十歳の頃から戦陣の遊びを好み、身長八尺四寸、肘に肉印があった。王猛の征討に従い破虜将軍に進み、堅により驍騎将軍として七千を率い西域討伐に遣わされ、経過した諸国は皆降った。
- 亀茲王帛純が拒んだ際、西域諸胡の救援七十余万人が集まったが、光は勾鎖の陣法で城西で大破し、斬首万余、帛純は逃げ、降る者三十余国に及んだ。光は駱駝二千余頭に外国の珍宝や竒伎異戯・珍禽異獣千余品、駿馬万余匹を積んで帰還した。苻堅の涼州刺史梁熙が拒むと光はこれを破って姑臧に入り、熙を斬って自ら護羌校尉・涼州刺史を称した。
- 登国初、使持節・大都督・大将軍・涼州牧・酒泉公を自称した。主簿の尉祐は姦佞浅薄な人物だったが光に寵任され、名士の姚皓・尹景ら十余人を讒殺したため人望を失った。四年、光は私かに三河王を称し朝貢の使者を送り、官を丞郎以下も置いたが依然として州事を摂った形とし年号を麟嘉とした。皇始初、光は天王を僭称し百官を置き、年号を龍飛と改め、子の紹を太子に立て朝貢した。光は病篤くなると紹を天王とし自らは太上皇帝と号し、光の死後、長子の纂が紹を殺して僭立した。
呂纂・呂隆(後涼の滅亡)
- 纂、字は永緒。即位して年号を咸寧とした。弟の大司馬洪(名は顕祖の廟諱に触れるため表記を憚る)が猜忌され容れられずに起兵すると纂はこれを殺し掠奪させた。纂が「今日の戦、いかがであった」と笑って問うと、侍中の房晷は「先帝崩御後、太子(紹)は幽逼で薨じ、大司馬(洪)は疑懼して逆を為した。京邑での兄弟の兵刃は、洪の自業自得とはいえ陛下の棠棣の義の欠如にもよる。洪の妻は陛下の弟婦、娘は姪、それを小人の婢妾に貶めるのは天地神明も忍びまい」と涙ながらに諫め、纂は謝して洪の妻子を収容した。
- 纂は昏虐で遊猟に度なく酒色に耽り、猜忌深く残虐であった。従弟の超が纂を殺し、纂の弟緯は単騎で入城したが超に殺され、超は兄の隆を立てた。
- 隆、字は永基、光の弟寶の子。超は隆に位を譲ろうとし隆はこれを難じたが、超は「今や竜に乗って天に上る勢い、途中で下りられようか」と説き、隆は僭位して年号を神鼎とした。超は纂の妻楊氏らを城西で殯するにあたり、楊氏が珍宝を持ち出すことを疑って捜索させると、楊氏は「郎君兄弟が手ずから殺し合った上、この身が金宝を何にしよう」と超を責めた。楊氏は絶世の美女で超が娶ろうとすると、父の桓は「后が自殺すれば宗族に禍が及ぶ」と諭したが、楊氏は「父上は元々私を氐族に嫁がせ富貴を図ったが、二たび氐に辱められてよいものか」と自殺した。
- 沮渠蒙遜・秃髪傉檀が頻繁に河西を攻め、農耕できず穀価が高騰(一斗五千銭)、人が人を食い餓死者が千余人に及んだ。姑臧の城門は昼も閉ざされ薪採りの道も絶え、民は夷虜の奴婢となることを望んで日に数百人が城を出た。隆は動揺を恐れてことごとく坑殺し、死屍が道に満ち十戸に九戸が絶えるほどとなった。しばしば沮渠蒙遜に攻め逼られ、姚興に迎えを請うて降り、長安に至ったがまもなく興に誅された。
史論
- 史臣曰く。夷狄が恭順でなく中国に害を為すことは、帝王の世に絶えたことがない。劉淵らは名目を仮り借り、暴虐で害を為し、神器を汚し黎元を毒し、喪乱が甚だしく多かったのはここに極まる。怨みが積もり禍が満ちれば、巣穴ごと天に傾け滅ぼされる――天意はこうして大人(真の天命を受けた者)を待つのであろう。