魏書卷八十一 列傳第六十九 宇文忠之

宇文忠之

  • 宇文忠之、河南洛陽の人、その先は南単于の遠属で世々東部を拠点とし、後に代都に移住した。祖の阿生は安南将軍・巴西公。父の侃は治書侍御史で死去。忠之は文史に広く通じ筆札(文才)があり、太学博士から出仕。天平初(534年)中書侍郎を除せられ、裴伯茂と同省だったが常に侮り忽せにされ、忠之の顔が黒いため「黒宇」と呼ばれた。後に勅で国史を修め、元象初(538年)通直散騎常侍を兼ね鄭伯猷の副として蕭衍への使いを務めた。武定初(543年)安南将軍・尚書右丞となり国史を修めたが、まもなく事に坐して除名された。
  • 忠之は栄利を好み、中書郎に自らあること6、7年、たまたま尚書省の選で右丞の選に預かる者は皆射策(試験)を受けねばならず、忠之は入試して丞の職を得、大いに得意満足し、志気は驕り物を見下す色があり、識者はこれを笑った。既に官爵を失うと悵然として病を発し死去した。子は君山。

史論

  • 史臣曰く、綦儁は時運に遭遇して職を受けた。山偉は位と行いがやや齟齬した。仁之は内に矯詐を抱きつつも交友の情には篤かった。忠之は文史においては十分な才があったが雅道(高潔な道)には聞こえるところがなかった、完全な徳を備えることの難しさをこれに見る。