魏書卷八十 列傳第六十八 賈顯度

出自と爾朱氏誅殺への参加

  • 賈顯度、中山無極の人。父の道は沃野鎮長史。顕度は容貌偉壮で志気があった。初め別将として薄骨律鎮を防守、正光末(524-525年)北鎮が擾乱し賊に攻囲された際、顕度は長く拒守したが賊勢が強まり久しく立てられないと考え、鎮民を率いて河を下り秀容に至って爾朱栄に留められた。まもなく表で直閤将軍・左中郎将を授けられた。建義初(528年)汲郡太守を除せられ仮に平東将軍、爾朱栄に従い葛栄を破り、また撫軍将軍・光禄大夫・都督を除せられ、石艾県開国公・邑千戸を封じられた。上党王天穆に従い邢杲を破り、元顥が洛陽に入った際、天穆と共に黄河を渡り河内の行宮に赴いた。顥平定後、本将軍のまま広州刺史を除せられ、仮に鎮南将軍、南兖州刺史に転じた。
  • 爾朱栄が死ぬと顕度は心安からず南の蕭衍に奔り、衍は厚遇した。普泰初(531年)朝に還り、衛大将軍・儀同三司・左光禄大夫を授けられ、また済州事を行い、再び爾朱度律らに従い北で義旗を拒み韓陵で敗れ、斛斯椿・弟の顕智らと共に軍を率い先んじて河橋に拠り爾朱氏を誅した。出帝の初め尚書左僕射を除せられ、まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司・定州大中正を加えられ、まもなく本官のまま徐州刺史・東道大行台を行い、永熙3年(534年)5月雍州刺史・西道大行台に転じ、関中で死去した。

賈顯智――弟としての武功と晩年

  • 弟の智、字顕智は若くして胆決があった。孝昌中(525-527年)毛謐らの反逆を告発、霊太后はこれを嘉し伏波将軍・冗従僕射・直斎を領した。蕭衍の将夏侯夔が郢州を攻めた際、智を龍驤将軍・別将として討伐に赴かせると夔は退き、智はそのまま入城、刺史元顕達が城を挙げて蕭衍に降ろうとすると、智は叛くことを望まない城人を率いて顕達と交戦、共に朝廷に帰順した。後に都督となり太宰上黨王天穆の邢杲征討に隷属、陣中で流矢に胸を射られながら戦い続けた。元顥が洛陽に入ると天穆に従い黄河を渡り河内で莊帝に朝謁、爾朱兆と共に先に黄河を渡り顥軍を破った功で持節・征南将軍・金紫光禄大夫、義陽県開国伯・邑500戸を封じられ、仮に衛将軍として行台樊子鵠と共に呂文欣を東徐州で討ち平定した。侍中・驃騎大将軍を加えられ邑300戸増、まもなく東中郎将を行い散騎常侍を加えられた。
  • 爾朱仲遠が徐州刺史になると智はこれに隷属し彭城に赴いた。爾朱栄が死ぬと仲遠は洛陽に向け挙兵したが、智はこれに従わず部下を率いて清水の東に出て州民を招き対抗した。莊帝はこれを聞き善しとし、右光禄大夫・武衛将軍を除せられ爵を侯に進め邑200戸増(前と合わせ1千戸)、徐州鎮を継続。普泰初(531年)洛陽に還ると仲遠はその裏切りを怒り殺そうとしたが、智の兄顕度が先に世隆に厚遇されており、世隆が仲裁して助かった。
  • 趙脩延が荊州で反乱を起こした際、蕭衍が兵を送って援助、世隆は智に功を立てさせようとしこれを討たせ、使持節・散騎常侍・車騎大将軍・左光禄大夫、仮に驃騎大将軍・荊州大都督、爵を公に進めることとし出発しようとしたが、ちょうど荊州が趙脩延の首を斬って送ってきたため行かなかった。また爾朱度律に従い北で義旗を拒み陽平で爾朱兆と合流したが、兆と度律は互いに疑い退き、智は驃騎大将軍を除せられ、後に度律らに従い韓陵で敗れた。智は兄の顕度・斛斯椿と共に爾朱氏誅殺を謀り、椿・顕度は北中を守り、智らに京師に入らせ世隆兄弟を捕らえさせた。
  • 出帝の初め散騎常侍・本将軍・開府儀同三司・滄州刺史を除せられたが、州で貪縦、民の害となったため出帝は京師に召還し、まもなく侍中を加え本将軍のまま済州刺史を除せられ、軍を率いて東郡に至ったがそのまま進まず、長夀津で相州刺史竇泰に破られ洛陽に還った。天平初(534年)晋陽に赴いたが、智は去就がしばしば変わり、後に事に坐して死去、時に年45。子の羅侯は秘書郎。