魏書卷八十 列傳第六十八 斛斯椿

出自と爾朱栄への接近

  • 斛斯椿、字法夀、広牧富昌の人。父の敦は肅宗の時左牧令。当時河西で賊が起こり牧民が不安だったため、椿は家を率いて爾朱栄に投じた。栄は椿にその都督府鎧曹参軍を兼ねさせ、栄の征伐に従い功があり、表で厲威将軍を授けられ、中散大夫・外兵事を署するに稍遷。椿の性は佞巧で栄の心をよく得、軍の密謀にも与った。肅宗が崩じると椿は栄に従い洛陽に入った。莊帝の初め陽曲県開国公・食邑千戸を封じられ、散騎常侍・平北将軍・司馬に遷り、まもなく爾朱栄大将軍府司馬を除せられ、葛栄平定に従い功で上党太守を除せられた。

寝返りを重ねた末の爾朱氏誅殺

  • 元顥が洛陽に入った際、椿は栄に従い荘帝を奉迎、顥攻撃に従い、顥が敗れると安北将軍・建州刺史に遷り、深沢県に改封、鎮東将軍・徐州刺史に転じ、さらに征東将軍・東徐州刺史に転じた。爾朱栄が死ぬと椿は大いに恐懼した。当時蕭衍は汝南王悦を魏主とし士馬を資して国境に次いでいたため、椿はこれを聞き大いに喜び、部下を率いて州を棄て悦に帰した。悦は椿に使持節・侍中・大将軍・領軍将軍・領左右・尚書左僕射・司空公、靈邱郡開国公・邑万戸を授け、大行台前駆都督とした。
  • 爾朱兆が洛陽に入ると、椿は再び部下を率いて悦に背き兆に帰した。爾朱世隆が前廃帝を立てた際、椿はその謀に参画し定策の功で侍中・驃騎大将軍・儀同三司・京畿北面大都督を拝命、城陽郡開国公に改封、邑500戸増(前と合わせ1500戸)、まもなく開府を加えられた。当時椿の父敦は先に秀容にいたが、突然死んだという知らせがあり、自ら階を減じて追贈させたいと請い、襄城将軍から超えて車騎将軍・恒州刺史を贈られたが、まもなく父がなお生きていることが判明し、詔で椿の官が復され、その父には車騎将軍・揚州刺史が除せられた。世隆の椿への厚遇はこのようだった。
  • 椿は爾朱度律・仲遠らと共に北で斉献武王を拒み陽平に次いだが、爾朱兆と度律らが互いに疑い合い遁走した(『爾朱兆伝』にある)。椿は後に再び度律らと共に義旗を拒み韓陵で敗れた。椿は都督賈顕智らに「もし先に爾朱を捕らえなければ我らは死に絶えるだろう」と述べ、顕智らと共に夜に桑の下で盟約、昼夜を通して急行し、椿は北中城に入り爾朱の部曲を収めことごとく殺し、長孫稚・賈顕智らに数百騎を率いさせ爾朱世隆・彦伯兄弟を襲わせ、閶闔門外で斬った。椿は洛陽に入り世隆兄弟の首をその門の樹に懸けた。椿の父は出て見て椿に「お前は爾朱と兄弟の約束をした、今どうしてその頭を家門に懸けることに忍びるのか、天地に愧じ背かないか」と述べた。椿は世隆らの首を伝え、度律・天光を囚えて斉献武王に送った。出帝は椿に侍中・儀同開府を拝命した。

出帝との策謀と裏切り

  • 初め献武王が洛陽に入り邙山に駐屯していた際、爾朱仲遠の帳下都督橋寧・張子期が滑台から至った。献武王は寧らを「お前らは仲遠に仕えその栄利を専らにし盟契は百重、同生死を許した、先に仲遠が徐から反逆した際お前らはその戎首(先鋒)となった、今仲遠が南に逃げるとお前らはまたそれに背く、臣節においては不忠、事人において不信、犬馬もなお恩養を知る、お前らは犬馬にも劣る」と責め、これを斬った。
  • 椿は自らたびたび反覆(裏切り)を重ねてきたため、寧らの死を見て常に不安になり、密かに間隙を構え、出帝に閣内都督部曲を置き武直の人数を増すことを勧め、直閤以下の別に数百人を選び天下の軽剽な者で充てた。また帝にたびたび遊幸に出て号令部曲を別に行陳とすることを説き、椿が自ら約勒指揮した。これ以後軍謀朝政は一に椿の決するところとなった。
  • 椿はまた帝に徴兵を勧め、偽って南討と称し実は斉献武王を伐とうとした。帝はこれに従い、城の西北から邙山に接し南は洛水に至るまで兵を陳し、帝は詰旦に戎服で椿と共に閲兵した。献武王は椿が政を乱すとして誅そうとしたが、椿の讒説が既に行われ、これにより互いに恐動した。出帝は河橋に兵を勒し、椿を前軍として邙山北に営させ、まもなく椿に歩騎数千を率いさせ虎牢を鎮させた。椿の弟の豫州刺史元夀は都督賈顕智と共に滑台を守ったが、献武王は相州刺史竇泰に命じこれを撃破させた。椿は自ら免れないと恐れ、再び出帝に遊声と偽って説き帝を脅かし、帝はこれを信じ関に入った。椿もまた西の長安に走った。椿は狡猾で事を好み乱を楽しみ禍を喜んだため、当時国を敗り朝野は皆これを讎疾しなかった者はなかった。元夀はまもなく部下に殺された。