出自と爾朱栄への従属
- 叱列延慶、代西部の人、世々酋帥。曽祖の鍮石は世祖(太武帝)末年に駕に従い瓜歩に至り臨江伯の爵を賜った。祖父の億彌は祖爵を襲い、高祖の時越騎校尉。延慶は若くして弓馬に長け胆力があり、正光末(524-525年)直後に除せられ大都督李崇の北伐に隷属、後に爾朱栄に従い洛陽に入り、栄に従い葛栄を相州で討った。延慶は世隆の姉婿で、栄はこれを親しく遇した。葛栄を捕らえた功で使持節・撫軍将軍・光禄大夫、仮に鎮東将軍・都督西部第一領民酋長、永寧県開国伯・食邑500戸を封じられた。永安2年(529年)本将軍のまま恒州刺史。普泰初(531年)世隆が得志すると特に重用され、散騎常侍・車騎将軍・儀同三司に遷り、さらに驃騎大将軍・開府(余如故)に進み、まもなく都督恒雲燕朔四州諸軍事・大都督兼尚書左僕射・山東行台・北海郡開国公・邑500戸を除せられた。
劉霊助討伐
- 幽州刺史劉霊助が荘帝が幽殺されたことで挙兵し、諸州の豪右が呼応、定州安固に進屯した際、世隆は前廃帝に延慶と大都督侯淵を定州で会させ討伐させた。淵は延慶に「霊助は卜占が巧みで百姓が惑わされ響応している、戦いに利鈍があれば大事が去る、師を還して関に入り険を拠って変を待つのが良い」と述べたが、延慶は「劉霊助は庸人だ、天道は深遠、彼が識るところではない、大兵が臨めば彼らは妖術を頼りに座して符厭(呪術)を見ているだけで力を尽くして我らと勝負を争おうとはしまい、私の計は城外に営を出て偽って西に帰ると言い霊助はこれを信じて油断するだろう、その隙に潜軍で襲えば一挙に擒にできる」と述べた。淵はこれに従い、城西に出て還ると称し精騎千を選び夜に出発、明け方に霊助の塁に至り城北で戦い、これを破り捕らえた。
韓陵の敗戦と最期
- なお尚書左僕射を兼ね恒雲燕朔四州行台、さらに使持節・侍中・都督恒雲燕朔定五州諸軍事・定州刺史(余如故)。爾朱兆らと共に韓陵で義旗(高歓軍)を拒んだが敗れ、延慶は爾朱仲遠と共に石済を渡って逃げ、仲遠は南に逃れ、延慶は北の斉献武王(高歓)に降った。王は延慶と共に洛陽に入り、王に従い并州へ、さらに洛陽へ赴いた。出帝は中軍大都督とした。延慶は爾朱氏に親しく、また権佞の党だったため、出帝の西行後、斉献武王が洛陽に入ると罪により誅殺した。延慶の兄の子の平は武定末(550年頃)儀同三司・右衛将軍・廮陶県開国侯。