出自と爾朱栄の腹心として
- 朱瑞、字元龍、代郡桑乾の人。祖の就、字祖成は沛県令で死去。父の惠、字僧生は行太原太守で死去。永安中(528-530年)瑞が貴達したため、就に平東将軍・斉州刺史、惠に使持節・冠軍将軍・恒州刺史が追贈された。瑞は長厚質直で人士を敬愛した。
- 孝昌末(527年)爾朱栄がその府戸曹参軍に招き、また大行台郎中とし、栄に親任された。建義初(528年)黄門侍郎兼中書舎人、栄は朝廷の事情を知らぬことを恐れ瑞を門下に置いて腹心とし、前後の勲により陽邑県開国公・食邑千戸を封じられた。まもなく散騎常侍・安南将軍(黄門如故)。父の喪で去官、詔で起復され青州大中正。元顥が内に迫った際、瑞は北幸を勧め、河陽で駕に従った。侍中・征南将軍兼吏部尚書、北海郡開国公に改封、食邑千戸増。荘帝が洛陽に還ると衛将軍・左光禄大夫を加えられ、楽陵郡開国公に改封、侍中はそのまま。
荘帝との信頼関係と最期
- 瑞は爾朱栄に委任されつつも朝廷との間をうまく処し、荘帝も彼を厚遇、「臣たる者は忠実であるべき、朱元龍のような者は朕は他の者と変わらず接する」と述べた。瑞は三従(近親)の者を滄州楽陵郡に属させることを求め詔で許され、滄州大中正に転じた(初め青州楽陵に朱氏がいたため青州中正を求めたが、滄州楽陵にも朱氏がいて心が河北を好むため移属を求めたのである)。まもなく車騎将軍を加えられた。
- 爾朱栄が死ぬと瑞は世隆と共に北に走ったが、荘帝が自分を厚遇していたこと、世隆らに雄才がなく終には敗れると考え途中で戻った。帝は大いに喜び手を執って「社稷の忠臣はまさにこうあるべきだ」と述べた。
- 爾朱天光が関右に大軍を擁していたため、帝は瑞を尚書左僕射兼西道大行台として慰労に赴かせた。長安に至った時、爾朱兆が洛陽に入り、瑞は京師に戻った。都督斛斯椿は先に瑞と隙があり、たびたび世隆に讒言し、世隆は疑い深く以前の乖異(裏切り)を恨んでいたため、普泰元年(531年)7月、瑞を誅殺した、時に年49。太昌初(532年)使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史を追贈、諡は恭穆。
- 子の孟允が爵を襲ったが、斉の受禅の例により降格。瑞の弟の珍、字多寶は太尉上党王天穆の録事参軍で死去。珍の弟の騰、字神龍は建義初(528年)龍驤将軍・大都督司馬、涇陽県開国男・食邑200戸を封じられ、累遷して中軍将軍・光禄大夫、瑞と同時に殺害された。太昌初滄州刺史を追贈。騰の弟慶賔は光禄大夫で死去。子の清は武定末(550年頃)斉王開府中兵参軍。