魏書卷七十七 列傳第六十五 楊機

出自と経歴

  • 楊機、字顕略、天水冀の人。祖の伏恩は郡功曹で、赫連屈丐(赫連勃勃)の時代に一家で洛陽に逃れ定住した。機は若くして志節があり士流に称された。
  • 河南尹李平・元暉が共に功曹に任じ、暉は郡事を委ねきった。ある人が暉に「自ら行わず庶人を信じないのになぜ機に事を委ねて高枕とするのか」と問うと、暉は「君子は士を求めるのに労し、賢者に任せるのに逸すると聞く、故に前代には坐嘯の人(座して治める者)がおり、主が諾すれば守るのみ、吾は既に機の才を得た、何の不可があろう」と答えた。これにより名声はさらに高まり、奉朝請から出仕。
  • 当時皇子の国官に不適格者が多かったため詔で清直の士を選び、機は京兆王愉の国中尉に挙げられ、愉は機を敬憚した。給事中・伏波将軍・廷尉評に遷り、延昌中(512-515年)河隂県事を行った。機は官にあって正色を保ち権勢を憚らず、政事に明達し情理をもって断獄、名声高かった。平東将軍・荊州刺史楊大眼が府長史に招請、熙平中(516-518年)涇州平西府長史、まもなく河隂令、洛陽令に転じ、京師の民はその威風に服し、犯す者は少なかった。訴訟者は一度対面すればその姓名と事情を記憶し、世人はこれを異とした。

治績と最期

  • 鎮軍将軍・司州治中に遷り別駕に転じ、荊州蛮が反乱した際、尚書左丞・南道行台を兼ね討伐にあたった。戻って中散大夫、再び別駕、州牧の高陽王雍から多くの事を委ねられた。清河内史に転出、左将軍・河北太守に転じ、いずれも能吏として名を得た。
  • 建義初(528年)平南将軍・光禄大夫、廷尉卿を兼ね、また安南将軍・司州別駕、まもなく河南尹を行い廷尉卿に転じ衛尉卿に移り、安西将軍・華州刺史に出た。永熙中(532-534年)衛将軍・右光禄大夫、まもなく度支尚書。
  • 機は方直の心を持ち続け、公に奉じ自らを正しくして時に称された。家は貧しく馬を持たず、多くは小さな牛車に乗った。時論はその清白を許した。辛雄らと共に誅殺され、年59。
  • 子の毗羅は開府参軍事を解かれ、鎮遠将軍で死去した。
  • 機の兄の順、字元信は梁郡太守。順の子の僧静は武定中太中大夫。
  • 機の兄の子の虬は若くして公務の才があり、たびたび司州記室・戸曹従事となったが早世した。