出自と経歴
- 羊深、字文淵、太山平陽の人、梁州刺史祉の第二子。若くして風格があり経史に通じ文章を好み、几案(実務)にも長けた。若い頃隴西の李神儁と同志で親交があった。
- 司空府記室参軍から輕車将軍・尚書騎兵郎、駕部郎に転じ右軍将軍を加えられた。当時官の淘汰があり才実を重んじたが、深は才能により留任、公明な判断で尚書僕射崔亮・吏部尚書甄琛に敬重された。肅宗が釈奠の礼を行い『孝経』を講じた際、同輩の中で独り深だけが引見を受け、時論はこれを美とした。
蕭寶夤の乱平定と弟侃の反乱
- 正光末(524-525年)、北地の車金雀らが羌胡を率いて反乱、高平の賊宿勤明達が豳・夏の諸州を寇し、北海王顥が都督行台として討伐、深は持節・通直散騎常侍・行台左丞・軍司・郎中を兼ねた。顥が敗れ帰京後、まもなく尚書左丞に遷り平東将軍・光禄大夫を加えられた。
- 蕭寶夤が反乱し華州を攻囲、王平・薛鳳賢らも反乱を起こした際、深は給事黄門侍郎を兼ね大行台僕射長孫稚と潼関で会し進退の方策を規画、事が平定して功により新泰男の爵を賜った。
- 霊太后が邙山に行幸し僧尼の斎会を催した際、公卿が皆列座、会の終わりに太后が深を引見し労い、深は「臣は国の厚恩を蒙り代々栄遇を受けている、寇難未平は臣の憂責であるのに、思いがけず犬馬にまで目を掛けていただいた」と謝辞した。太后は左右に「羊深は真の忠臣なり」と述べ、満座の者は心を動かされた。
- 孝昌末(527年)、徐方(徐州方面)で多事のため東道慰労使、二徐行台。荘帝即位後、安東将軍・太府卿、さらに二兖行台となり、深の軍国の処分は機に応じ時に称賛を得た。
- 爾朱栄が朝士を殺害した際(河隂の変)、深の第七弟の侃は太山太守で粗暴な性格、鄉人を率い蕭衍に内通した。深は彭城で侃の書状(反乱への誘い)を受け取り、慨然として涙を流し侃の使者を斬り、書状とともに事の顛末を朝廷に報告した。
- 荘帝は詔で「羊侃は反乱を起こし瑕丘で霧のように蜂起し、不逞の徒を集め国境を騒がせた、これは一族の禍であり、代々の節義を一朝にして汚した。しかし羊深は誠を尽くし国に仕え、節操を貫いている。弟の乱暴を聞いて自ら罪を請うたその丹心は深く胸に刻まれる。叔向が復位した故事、春秋がこれを美としたように、深の慷慨は古人の忠烈に等しく、赤心は既に明らかである。京師に戻り面して詔を受けよ」と述べ、深は帰京した。除名されていたが、しばらくして撫軍将軍・金紫光禄大夫に復した。
学校再興の上疏
- 元顥が洛陽に入った際、深は黄門郎を兼ねていたが顥平定後に免官、後に大鴻臚卿を拝命。普泰初(531年)散騎常侍・衛将軍・右光禄大夫・起居注監修。天下多事のため東西二省の官員が積み重なり、前廃帝の勅で深は常侍盧道虔・元晏・元法寿と共に選人を補定し、奉朝請以上を淘汰した。まもなく侍中を兼ね、廃帝から厚く信任された。
- 当時学校が廃れ名教が衰えていたため、深は上疏し、崇礼建学は歴代が修めてきたことであり、尊経重道は百王も改めなかったこと、魏(北魏)は堯舜の教えに則り高祖の代には儒風が盛んで人材が輩出したことを述べた。しかし近年、世は道を失い風俗が澆薄になり、地位は吏能によって得られ学芸によらなくなったこと、現在の登用制度は四門学・九品にとどまり、これでは治世を求めても後退するばかりであること、兵乱以来10年近く礼楽・名教が損なわれたことを批判した。
- その上で、陛下は中興の運にあり、国学を重んじ胄子を広く受け入れ、釈奠の礼を絶やさず、天下の郡国に儒教興隆・考課の制を旧典に従い実施し、経明行修の者を抜擢し、才ある者を重用し、天下に仁義の風を興すべきだと説いた。廃帝はこれを善しとした。
樊子鵠との共謀と最期
- 出帝が即位した後(532年)、深は中書令に拝命、まもなく車騎大将軍・左光禄大夫に転じた。永熙3年(534年)6月、御史中尉・東道軍司を兼ねた。
- 出帝が関中に入った後、深は樊子鵠らと共に兖州で反乱、子鵠は深を斉州刺史とし、太山博県商王村に塁を築いて山東の民を招き入れた。天平2年(535年)正月、大軍がこれを討破し、陣中で深を斬った。
- 子の肅、武定末(550年頃)儀同開府東閤祭酒。