魏書卷七十七 列傳第六十五 辛纂
辛雄の従父兄、字は伯将。荊州で蕭衍軍の攻撃をわずかな兵で防ぎ、粛宗崩御の報に接しても動揺せず固守した忠節の将。永熙年間に河内太守となり高歓に恭順を示したが、後に西荊州刺史として蛮族討伐に失敗し、城内の内応により捕らえられ殺害された。
出自と経歴
- 雄の従父兄の纂、字伯将は学問と文史に通じ温良雅正であった。兖州安東府主簿から出仕し、秘書丞の同郡李伯尚と旧交があったが、伯尚が咸陽王禧の反乱に連座して逃亡し纂に身を寄せたため事が発覚、纂は連座して免官となった。10余年後に奉朝請に復帰、太尉騎兵参軍に転じた。府主清河王懌に評価され、考課の際に懌は「辛騎兵は学才あり上第とすべし」と評した。
- 越騎校尉に転じ、尚書令李崇の蠕蠕北伐に録事参軍として招かれ、臨淮王彧の北征でも功があり長史に、広陽王淵の北伐でも招かれて長史となった。まもなく諫議大夫を拝命、彧に称賛され朝廷でたびたび推挙された。
荊州での功績
- 蕭衍の将曹義宗が新野を攻めた際、纂は持節・尚書左丞兼南道行台として軍を率い救援に赴き、義宗を破った。義宗らは纂の迅速さを恐れ再進撃できなかった。
- 当時海内は騒然として洛陽から援軍が来ず、纂はわずか2千余の兵で国境を守った。荊州軍司を兼ね、驍騎将軍・輔国将軍を加えられた。纂は将士をよく撫で人々は喜んで従い、賊はこれを恐れた。
- 肅宗崩御の報が届いた際、敵と対峙中のため凶報を秘そうとする意見があったが、纂は「安危は人にある、これに関係ない」と述べ、喪を発し号哭、三軍は喪服をまとい州城に戻り盟約を結んだ。まもなく義宗に包囲されたが固守した。
- 荘帝即位後、通直散騎常侍・征虜将軍・尚書行台を兼ねた。後に大都督費穆が義宗を撃ち捕虜とし、酒を挙げて「辛行台がいなければこの功は成らなかった」と称賛した。荘帝に纂の固節危城の功を称え爵賞を勧める上奏があり、帝は詔で慰労した。持節・平東将軍・中郎将を授け、絹50匹・金装刀1口を賜った。
虎牢守備から河内太守として戦死
- 永安2年(529年)、元顥が勝ちに乗じ城下に迫った際、爾朱世隆は退却し城内が空虚となり顥に奪われた。荘帝が宮に戻ると纂は守れなかった罪を謝したが、帝は「その時朕も北に出ていて東軍が守れなかったのは卿の過ちではない」と述べた。虎牢に戻り鎮守、中軍将軍・榮陽太守に転じた。太守鄭仲明の左右にいた豪猾な民、姜洛生・康乞得を捕らえ郡の市で梟首、百姓は喜び、鎮東将軍を加えられた。太昌中(532年)左光禄大夫、纂は洛陽に寓居し河南邑中正となった。
- 永熙3年(534年)、持節・河内太守。斉献武王(高歓)が洛陽に赴く際、兵が城下に集結、纂は城を出て王に謁し「纂はこの地で防禦の詔を受けている、大王が忠貞にして王室を扶け危難を救うなら、纂は敢えて従わないことがあろうか」と述べた。王は「吾は姦佞を除き国を安んずる志だ」と答え、河内の言葉に深く感じ入り、前侍中司馬子如に「わが行軍は疲弊している、河内で吾に代わって手を尽くせ」と命じ、9月に洛陽に入った。
- 西荊州事を兼ね尚書南道行台、まもなく正刺史。蛮の酋長樊五能が析陽郡を破り宇文黒獺(宇文泰)に呼応した。纂は討伐を議したが、行台郎中李広は「析陽は四方に民なくただ一城の地に過ぎず、山路は険しく群蛮に囲まれている。少兵では制圧できず、多兵を送れば根本の防衛が手薄になる、うまく行かなければ威名を損ない人情が離れ州城の維持が難しくなる」と諫めた。纂が「賊を放置すれば患いが日々深まる」と述べると、広は「今日の事は万全を期すべき、腹心の憂いに比べれば疥癬(析陽)にかまう暇はない、台軍(朝廷軍)が既に洪威を破ったと聞く、まもなく至るだろう、公はただ属城に城壁を修復させ百姓を撫でて救援を待つべき、析陽を失っても鶏肋を棄てるようなもの」と諫めたが、纂は「卿の言は一理あるが私の考えは違う」として出兵させ、敗れた。
- 諸将は逃亡して戻らず、城の民は密かに西の賊、黒獺の都督独孤如願を招き入れ、突入して州城から庁閤に至った。纂の左右はわずか5、6人で交戦し、纂は捕らえられ殺害された。都督定・殷二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・司徒公・定州刺史を追贈された。子の子炎は武定中(543-550年)博陵太守。
辛雄の一族
- 雄の従祖曇護は謹厚で知られ、并州州都で死去した。子の熾は武定中衛将軍・右光禄大夫。
- 雄の族祖琛、字僧貴、父の敬宗は延興中(471-476年)代郡太守。琛は幼くして孤児となり、友人の家を訪ねてその父母兄弟が皆無事なのを見て涙を流した。奉朝請から出仕し滎陽郡丞。太守元麗は酒好きで琛はしばしば諫め、麗は酔うと「丞を入れるな」と閤を閉ざした。高祖の南征に麗が従駕した際、琛に「郡事を委ねる、太守と同様に」と詔した。
- 景明中(500-503年)伏波将軍・済州輔国府長史、奉車都尉、揚州征南府長史。刺史李崇が財産増殖に熱心で琛はいつも諫めて折り合わず、互いに糾弾しあったが詔で不問とされた。龍驤将軍・南梁太守を加えられ、崇は酒宴で「長史は後に必ず刺史になるだろう、ただどんな上佐を得るか分からない」と語り、琛は「万一そうなれば正しい長史を得たい、それが願いだ」と答え、崇は恥じ入った。琛は在官のまま死去した。琛は寛雅で度量があり経史に通じ、喜怒を色に表さず、在官奉法で称された。
辛琛の子孫
- 長子の悠、字元寿は早くから才能があり侍御史として揚州の軍事を監督した。賊平定の勲書の際、崇(当時刺史)が人名を借りようとしたが悠は許さず、崇は「昔その父に遇い、今またその子に遇う」と嘆じた。早世した。
- 悠の弟の俊、字叔義は文才があり東益州征虜府外兵参軍、府主魏子建の山南行台で郎中となり軍国の機断があった。洛陽に戻り滎陽で人に殺害され、征虜将軍・東秦州刺史を追贈された。
- 俊の弟の術は武定末(550年頃)散騎常侍。術の弟の休、字季令。休の弟の修、字季緒。ともに学識があり早世し、人々はこれを惜しんだ。
- 琛の族子珍之は若くして気力があり、太尉鎧曹行参軍から中堅将軍・司徒録事参軍・広州大中正に転じ、丁憂で去任、後に汝北太守として起用された。永安中(528-530年)司空諮議参軍・通直常侍、永熙中(532-534年)襄城太守。
- 天平初(534年)洛州以南で人心が動揺し、大使として節を持ち広・洛二州を慰諭した。3年、征東将軍・陽平郡事を行う。郡民路黒奴が反乱を起こし郡を攻め、珍之は捕らえられたが、賊は「成敗はまだ分からない、なぜ太守を先に殺すのか」と言い、珍之を随行させ礼遇した。右衛将軍郭瓊が黒奴を討伐して平定し、珍之は免れた。
- 興和中(539-542年)衛将軍・司徒司馬、武定3年(545年)驃騎将軍・北海太守、儀同開府長史・光禄少卿を兼ねる。まもなく持節・広洛北荊揚雍襄六州慰労大使、北荊鎮城で広州事を行い招撫に功績を挙げ、斉文襄王(高澄)から慰労の書と衣帛を賜った。平州の行政を命じられ、在官のまま死去、驃騎大将軍・洛州刺史を追贈、諡は恭。子の懿は武定末開府鎧曹参軍。