魏書卷七十七 列傳第六十五 辛雄

隴西狄道の人、字は世賓。孝行と裁断の明晰さで知られ、清河王元懌の下で頭角を現し、選挙制度批判や刑獄改革など多くの上疏で公能の評を得た。永熙年間に吏部尚書を兼ね、出帝の関中入り後、洛陽に至った高歓に詰問されて誅殺された、享年五十。

年表(4件)

出自と経歴

  • 辛雄、字世賓、隴西狄道の人。父の暢、字幼達は大将軍諮議参軍、汝南・魯郡二郡太守、太和中(477-499年)本郡中正。
  • 雄は孝行に篤く、書史に広く通じ刑名を好み、廉謹にして妄りに交友せず、喜怒を色に表さなかった。奉朝請から出仕。
  • 父が郡で病んだ際、雄は自ら官を免じて帰り、昼夜父を扶け抱いた。父の喪では憔悴して人と見分けがつかないほどで、世に称された。
  • 正始の初め(504年)給事中に任じられたが十年昇進せず、病を理由に免職。清河王懌が司空になると戸曹参軍に招かれ田曹の事を摂り、懌が司徒に遷ると戸曹参軍のまま従った。訴訟が繁雑な部署だったが、雄の裁きは公平で悦服しない者はなく、懌は「必ずや訟無からしめん、というのは辛雄のことだ」と称した。これで名が顕れ、懌が太尉に遷ると記室参軍となった。
  • 神亀中(518-520年)尚書駕部郎中に任じられ三公郎に転じたが、その年に冗官淘汰があり、雄と羊深ら8人のみが留められ他は罷免された。

元匡弁護の上奏

  • 以前、御史中尉東平王元匡が棺を輿に載せて諫諍しようとし、尚書令任城王澄が不敬として弾劾、詔で死一等を減じ庶民に落とされていた。
  • 雄は匡のために上奏し、匡が三朝に仕えて忠諫の性を帝から認められ、鷹鸇の志を昔から示してきたこと、茹皓が輦に昇った際にこれを退けるよう進言したこと、高肇が権を擅にした際に弾劾の表を上げたことなど、剛毅忠款の跡は朝野が知るところであると述べた。高肇の時に棺を造って諫めた際も咎めを受けず、今回もそれに準ずるべきで、貶黜すれば忠臣の口を塞ぎ諫者の心を挫くことになると訴えた。
  • まもなく匡は龍驤将軍・平州刺史に任じられた。右僕射元欽は左僕射蕭寶夤に「辛郎中の才用は省中随一」と語り、寶夤も「游僕射(游肇)が『雄のような者を四五人得られれば省事は足りる』と言っていた、今日の賞はいかにも遅い」と応じた。

刑獄改革の議

  • 廷尉少卿袁飜が、恩赦後の訴えは曲直の判別が困難であるとして、風聞で糾弾された者は理非を問わず不問とすることを求め、詔で門下・尚書・廷尉に議論させた。
  • 雄は『春秋』の義を引き、「不幸にして失うなら寧ろ僭ならず濫ならず。僭なれば罪人を失い、濫なれば善人を害す」と論じ、周公が流言の咎を減じなかったこと、釈之が驚馬の刑を加えなかったことを挙げ、小大は情を用いるべきで、失えば千里の差になると説いた。
  • その上で6箇条を提言した。①御史が糾弾した逃走者が実は公務によるものと判明すれば雪する、②御史が赦前に贓を得たが賄賂の主名を検証できない者は復職させる、③拷問で自供したが傍証が三証に満たない場合の除削の扱いを整理し、行賕(賄賂)は三人の証言と物証がそろえば証とする、④赦前の断事に律の適用誤りがあれば赦後も律に従い訂正する、⑤除名後に再究明を求めて未処理のまま恩赦に遇った者は原案どおりとする、⑥拷問中や証人未集の段階で恩赦に遇った場合は占定(判決確定)としない。
  • 詔はこの議に従った。以後、疑義があるたびに雄の議論は多く採用され、公能の名がますます高まった。

禄養論と昇進

  • 雄はまた「禄養論」を著し、孔子の五孝の教えと『礼記』の規定(81歳以上は子が政に従わず、90歳以上は家全体が政に従わない)を引き、鄭玄の注では庶民のみに適用されるとしていることから、公卿大夫士には年齢の制限なく親の禄養のための致仕を認めるべきだと論じた。肅宗はこれを納れた。
  • 母の喪で去任、卒哭の後、右僕射元欽の奏で起復し尚書郎、まもなく司州別駕を兼ね前軍将軍を加えられた。

上疏(選挙制度批判)

  • 孝昌元年(525年)、徐州刺史元法僧が城を挙げて蕭衍に叛き、蕭衍は蕭綜を遣わし彭城を奪った。大都督安豐王延明が臨淮王彧を督して討伐したが進撃を渋ったため、詔で雄を太常少卿元晦の副として遣わし、斉庫の刀と節を授け駅で急行させ、違命あれば斬らせた。肅宗は雄に「朕の一族の子を教え、機略はことごとく卿に任せる」と述べた。到着後、進軍を命じ徐州の綜は降伏した。
  • 冀州刺史侯剛が雄を長史に推挙したが、肅宗は雄の実務手腕を惜しんで許さず、司空長史に任じた。当時諸公はみな雄を招きたがったが得られなかった。
  • 諸方の賊が盛んで南寇が国境を侵し、山蛮が反乱、肅宗が荊州への親征を計画した際、雄を行台左丞とし、前軍臨淮王彧と共に葉城へ向かわせた。別将裴衍は鵶路を通る予定であったが進軍を渋り、彧の軍は汝濱北溝まで進んで裴衍の救援を求めたが、彧は担当の違いを理由に応じようとしなかった。
  • 雄は「裴衍が来なくても王の軍勢は既に集結している、蛮左が近畿を撹乱している、直ちに撲滅すべきだ、閫外にあっては利のみを従い、可なれば進むもの、社稷のためなら専断してよい」と説き、彧が責任を恐れて符を求めると、「駕(帝)が親征しようとしていると聞けば蛮は必ず動揺する、離心につけこめば必ず破れる」として彧軍に急行を命じた。賊はこれを聞いて自ら潰走した。
  • 軍中で雄は上疏し、兵が命を惜しまず戦うのは栄名・重賞・刑罰・避禍の四つによるものであり、賞罰の明信なくして士気は上がらないこと、近年秦隴・蛮左の乱が長引き数十万の兵が動員されながら勝敗が振るわないのは賞罰不明のためであること、陛下が賞与を遅滞なく出すよう詔しても実際には功績評定が何年も滞り、逃亡兵が家でのうのうと暮らしていること、これでは節士が励まされず庸人も畏れないことを述べ、再度明確な詔で賞罰を徹底すべきだと説いた。

右丞・吏部郎中としての上疏

  • 右丞が欠員となり、肅宗が僕射城陽王徽に推薦を求めたところ徽は雄を推挙し、輔国将軍・尚書右丞に任じられ、まもなく吏部郎中、平東将軍・光禄大夫(郎中如故)に遷った。
  • 上疏して、帝王の道は民を安んずることに勝るものはなく、その本は礼律にあるが、礼律を設けても賢者を得て行わなければ意味がないこと、高祖孝文帝が三代・両漢の制度から精華を採り、天下が治まったことを述べた。
  • しかし神亀末(519-520年)以来、専ら「停年」(在職年数)で選官が行われ、能力の善悪を問わず老練の者ばかりが重用され、庸劣な者が地方官として貪り、賄賂が横行し、徭役の不均衡・税制の乱れ・囚人の充満を招いていると批判した。これは官の選任が適材でないためであり、天下の民は久しく寇賊に苦しみ父子兄弟を失い困窮している、速やかに撫恤すべきだと説いた。
  • 郡県の令長を精選し、上・中・下等の郡県ごとに清官の等級(第一清・第二清・第三清)を分け、才望に応じて選任し年功にこだわらないこと、3年ごとの考課で成績優秀者は京官に用い、地方勤務を経ない者は内職に就けないようにすれば、人々は自ら励み上下心を一つにし、暴虐は自ら収まると論じた。上奏したが、ちょうど肅宗が崩御した。

粛宗崩御後の慰労大使

  • 蕭寶夤が雍州で反乱を起こした際、城の民侯衆徳らが討伐して爵賞を得た。武泰中(528年)、雄は尚書を兼ね関西賞勲大使に任じられたが、赴任前に爾朱栄が洛陽に入り河隂の変が起こり人心不安となったため、雄は身を潜め出仕しなかった。
  • 荘帝は雄を尚書にしようとしたが、門下省は「辛雄は出てこず生死不明」と奏し、荘帝は「むしろ生を失っても用いるべきであり、生を用いず失うことがあってはならない」と述べ、度支尚書・安南将軍を授けた。
  • 元顥が洛陽に入った際、北中郎将楊侃は駕に従って北へ出、荘帝は侃を度支尚書とした。荘帝が洛陽に還った後、再び雄を召したが、雄は面と向かって「臣は殉死できず賊に従った、朝廷の罪人であり、陛下が誅罰を与えずとも、北から来た尚書(侃)は勲高く義重い、臣は賢路を避けるべき」と辞退した。荘帝は「卿はしばらく本司に戻れ、朕は別に処置する」と述べ、侃の尚書職を解いた。
  • まもなく雄は本官のまま侍中を兼ね関西慰労大使とされ、赴任前に5箇条を上奏した。①滞納租調の免除、②不要不急の徭役の停止、③課税の地域差を考慮した調整、④戦死者遺族・老人への配慮(存命の耆老に板職を仮授)、⑤孝悌の家門の表彰。
  • さらに「王者の愛民の道」6箇条(利・成・生・与・楽・喜)を上奏し、民の時を失わせなければ成、刑罰を軽くすれば生、賦斂を薄くすれば与、徭役を少なくすれば楽、吏が苛烈でなければ喜と述べ、これらの実践を求めた。莊帝はこれに従い、民の70歳には県職、80歳には郡職、90歳には四品将軍、100歳には従三品将軍を授ける詔を出した。
  • 3年、鎮南将軍・都官尚書に遷り河南尹を行った。普泰時(531年)鎮軍将軍・殿中尚書、さらに衛将軍・右光禄大夫・秦州大中正を加えられ、太昌中(532年)殿中尚書兼吏部尚書、まもなく車騎大将軍・左光禄大夫(尚書如故)。永熙2年(533年)3月、また吏部尚書を兼ねた。当時近習が専恣し請託が絶えなかったが、雄はその讒言を恐れ確固として正義を守れず、論者から批判された。

洛陽陥落と誅殺

  • 出帝が南へ出た際、雄は左僕射を兼ね京師に留守。永熙末(534年)侍中を兼ねた。
  • 帝が関中に入った後、斉献武王(高歓)が洛陽に至り永寧寺に朝士を集め、雄と尚書崔孝芬・劉廞・楊機らを責め、「臣たる者は主を奉じ危難を扶けるべきなのに、諫めず従わず、緩やかなときは寵を貪り急なときは逃げ隠れる、臣節はどこにあるのか」と詰問した。皆黙して答えられなかったが、雄は「主上が近臣を信頼していた時、雄らは謀議に与らなかった。帝が西へ出た際に従えば佞党と同じと見なされる恐れがあり、大王(高歓)を待って留まったのが、従わなかったと責められる。進退これに窮した、自らを溝壑に投げ出せなかったこと、実に恥じ入る」と答えた。
  • 高歓はさらに「卿らは諫言の任にありながら、身を挺して国に報いず佞臣に付和した、諫諍の一言も聞かなかった、国事がここに至った罪はどこに帰すのか」と責め、遂に誅殺した。時に年50。家族は没官され、2子の士璨・士貞は関中に逃れた。