魏書卷七十四 列傳第六十二 尒朱榮
北秀容の人、字は天寶。代々領民酋長を務めた尒朱部の当主。粛宗の急死後に挙兵し河陰の変で朝廷要人を粛清、荘帝を擁立して実権を握り、葛栄・元顥ら群雄を次々平定して天柱大将軍の号を得た。専横を強めた末、荘帝の伏兵により謀殺された、享年三十八。
年表(9件)
- 武泰元年四月九日528年荘帝を奉じて挙兵し、河内で帝を迎える
- 武泰元年四月十一日528年太原王に封じられる
- 武泰元年四月十三日528年河陰で王公卿士千三百余人を殺害する(河陰の変)
- 七月528年柱国大将軍・大丞相に任じられる
- 九月528年葛榮の百万の大軍を破り捕虜とする
- 永安三年530年北海王元顥の乱を平定し天柱大将軍の号を授けられる
- 永安三年九月530年朝見の場で荘帝の伏兵により刺殺される、享年三十八
- 武定三年545年子の尒朱文暢が反逆に連座し伏誅、享年十八
- 武定末(頃)550年子の尒朱文略が撫軍将軍・光禄大夫となる
出自と家系
- 字天寳、北秀容の人。その先は尒朱川に居し、これを氏とした。世々部落を領し、代々酋帥であった。高祖・尒朱羽健は登国初(386年頃)領民酋長として道武帝に従い晋陽平定・中山平定に功があり、方三百里の秀容川を封地として世業とすることを許された(南秀容の肥沃な地を勧められたが「京師に近いことこそ重要」と辞退した逸話がある)。
- 曽祖・尒朱鬱徳、祖・尒朱代勤は領民酋長を継ぎ、代勤は世祖の敬哀皇后の舅として征伐の功があり、給復百年・立義将軍を賜った。誤って部民に矢を射られた際も咎めなかった逸話が伝わる。肆州刺史・梁郡公、享年九十一で卒去、贈鎮南将軍・并州刺史、諡は荘。孝荘帝の初め、太師・司徒公・録尚書事を追贈された。
- 父・尒朱新興は太和中(477〜499年)酋長を継ぎ、家産豊かで白蛇の瑞兆の逸話があった。右将軍・光禄大夫、平北将軍・秀容第一領民酋長。肅宗の代に爵を榮に伝え、正光中(520〜525年頃)享年七十四で卒去。贈散騎常侍・平北将軍・恒州刺史、諡は簡。孝荘初、假黄鉞・侍中・太師・相国・西河郡王を追贈された。
挙兵に至るまで
- 榮は容貌に優れ、幼くして機知に富み、狩猟を好み軍陣さながらの号令で衆を統率した。秀容の池の畔で父と簫鼓の音を聞いた際、父は「この音を聞いた者は必ず公輔に至るという、お前の代であろう」と語ったと伝わる。
- 爵を襲いで後、直寝・遊撃将軍。正光中(520〜525年頃)四方の兵乱の中で義勇を募り、蠕蠕主阿那瓌の侵攻には都督李崇に従軍。秀容内附の胡民・南秀容の牧子らの反乱、瓜肆の反乱を次々に平定し、安平県開国侯(食邑千戸)に封ぜられた。
- 桑乾の勅勒解律洛陽の乱、費也頭牧子の乱も平定し平北将軍・安北将軍・北道都督となり博陵郡公(増邑五百戸)に進んだ。肆州刺史尉慶賔が入城を拒んだ際は攻め落として従叔・尒朱羽生を刺史に据え、朝廷も咎めることができぬほど威勢を強めた。
- 鮮于修禮・杜洛周・葛榮の乱が拡大する中、征東将軍・右衞将軍・都督并肆汾広恒雲六州諸軍事となり、山東の賊が西へ逃れることを防ぐため滏口を固めた。上書して蠕蠕主阿那瓌の東方牽制と北海王元顥の相州鎮撫を提言、独自の軍略眼を示した。
河陰の変
- 肅宗が急死すると、榮は鄭儼・徐紇の毒殺を疑い、元天穆らと密議して「大行皇帝は鴆毒で崩じたとの疑いがある、幼帝擁立は姦臣の専横を招く」とする抗表を発し、京師への進軍を開始した。靈太后は李神軌を大都督として防がせたが、榮は従子の尒朱天光を通じて荘帝擁立を密議し、河内で帝を迎えた。
- 武泰元年(528年)四月九日、荘帝を奉じ、十一日に使持節・侍中・都督中外諸軍事・大将軍・開府・尚書令・領軍将軍・太原王(食邑二万戸)を授けられた。十三日、費穆の説に従って百官を行宮に集め、明帝の急死の責を問う名目で兵を放って王公卿士千三百余人を殺害(河陰の変)、皇弟・皇兄も殺され、靈太后・幼帝もこの日暴崩した。
- 榮は禅譲を企図し金像鋳造を試みたが四度とも成らず、劉靈助の占いや司馬子如らの諫言もあって思いとどまり、荘帝を奉じて洛陽に還した。十四日輿駕入宮。榮は遷都や大掠の噂で人心を騒がせたが、上書して自らの功を弁明し、殺害された諸王・朝貴への贈官・継嗣容認を願い出て許された。以後、朔望の日に三公・尚書らと国事を議する制度も定めた。
葛榮平定と権勢の拡大
- 五月、榮は晋陽に帰還。七月、柱国大将軍・大丞相都督河北畿外諸軍事(増邑一万戸、通前三万余戸)を授けられた。九月、葛榮の百万の大軍に対し精騎七千で東出、雙兎を射止めた瑞兆(双兎碑を建立)や、道武帝の霊夢の逸話を伴いつつ、竒兵と神棒(刀に代えた棒による戦術)で葛榮を大破し捕虜とした。
- 降兵の処遇は「各自の望むところに従わせ、後に分けて安置する」策を用い、数十万の衆を無事に処理した。大丞相・河北畿外諸軍事(増邑一万戸)に進み、太原国(冀州長楽等七郡・十万戸)を封ぜられ太師に進んだ。
- 建義初、北海王元顥が南朝に奔り魏主を僭称、邢杲の乱と呼応する事態となった。永安三年(530年)、榮は迅速に軍を集め、河上で対峙。舟がない中、馬渚諸楊の協力で夜襲し、顥の子・元冠受を捕らえ、顥を敗走させた(元顥の乱平定)。柱国大将軍・大丞相太原王として天柱大将軍の号(前代未聞の破格の官)と増封十万戸(通前二十万戸)を賜った。
- 葛榮の残党・韓婁の討伐(侯淵)、万俟醜奴・蕭寶夤の関西反乱に対する従子・尒朱天光の派遣と全面平定など、榮の威勢のもとで天下の大難はほぼ収束した。
専横と最期
- 榮は狩猟を好み苛烈な軍紀を敷いた。太宰元天穆の諌めに対し「太后・葛榮のような簒奪者を除いたのは臣節に過ぎず、いまだ天下を統一していない、今後は南朝討伐も視野に入れる」と豪語した。実際には晋陽から朝廷を遠隔操作し、官職の私的授与(吏部尚書李神儁の反対を無視して人事を強行するなど)を横行させた。
- 太宰・元天穆を通じ「天柱の功に応じ天下の官を代えるべき」との請願を荘帝に拒まれ、榮は深く恨んだ。城陽王元徽・侍中李彧らの讒言もあり、荘帝は榮を除く決意を固めた。永安三年(530年)九月、榮の入朝に際し従弟の尒朱世隆や妻・北鄉郡長公主も危険を察して諌めたが、榮は聞き入れなかった。
- 荘帝は明光殿東廊に伏兵を置き、榮・長子の尒朱菩提・元天穆を招き入れて刺殺した(榮享年三十八)。京城は歓喜の声に沸いた。
- 世隆らが実権を握った前廃帝初、榮に贈假黄鉞・相国・録尚書事・司州牧が贈られ、さらに晋王に追封、九錫を加えられ諡は武。後に配享髙祖廟庭の詔も下された。
尒朱榮の子孫(附伝)
- 長子・尒朱菩提は肅宗末に羽林監、孝荘初は驃騎大将軍・侍中・特進に至ったが享年十四で死去。贈司徒公・冀州刺史、諡は惠。
- 菩提の弟・尒朱义羅は孝荘初に武衞将軍、梁郡公・王に進んだが早世、贈司空公・雍州刺史。
- 义羅の弟・尒朱文殊は建義初に平昌郡開国公・王に進み、孝静初に太原王を襲爵したが晋陽で享年九歳で薨去。
- 文殊の弟・尒朱文暢は昌樂郡開国公から王に進み、撫軍将軍・肆州刺史・開府儀同三司を経たが武定三年(545年)反逆に連座し伏誅、享年十八。
- 文暢の弟・尒朱文略は梁郡王を襲爵、武定末(550年頃)撫軍将軍・光禄大夫。
史論
太祖は武運に乗じて王業を開き、世祖は武功で天下を統一し、高祖は文徳で天下を革めた。世宗以後は政道が虧け、明帝幼少で女主(靈太后)が臨朝し、于忠の専恣、元乂の権重が続いた。栄悴は親疎によらず、佞諛が跋扈して功勤が報われず、四海はすでに乱れの兆しを見せていた。靈太后の反政後は鄭儼・徐紇・李軌らが専権を極め、天下の傾覆は必至であった。 尒朱榮は将帥の列より起ち、肅宗の暴崩と民の怨みに乗じて匡復の志を抱いた。天啓と言うべきか、上下は離心し、労せずして朝野は靡き従った。葛榮・元顥・邢杲・韓婁・醜奴・寶夤を平定した功は、僭称する群雄が数知れぬ乱世にあって並ぶ者がなかった。榮の功烈は実に盛んであったが、非望を懐いて靈太后・幼帝を沈め、河陰で衣冠を塗地にしたことが、神人の怒りを買い誅殺される因となった。もし姦忍の過ちを犯さず徳義を修めていれば、彭越・韓信・伊尹・霍光にも並び得たであろう。末路の猜忌による横死は、蒯通が韓信に説いた戒めそのままであった。