漢中を挙げて帰順
- 譙国の人。若くして四方に志を抱き、婚姻を拒んで益州に逃れた。蕭鸞に仕え軍功で前軍将軍・輔国将軍に進み、裴叔業と共に寿春に至って南譙太守となったが、単騎で魏に帰順、驍騎将軍として王肅に随行し合肥を守った。
- 王肅の死後、南に叛いたが、蕭衍配下の荘丘黒の下で梁州長史・漢中郡太守となり、荘丘黒の死後に密かに帰順を計画。仇池鎮将楊霊珍の部曲を警戒し、その父子を謀殺、蕭衍の使者五人も殺して首を京師に送った。
- 江悅之らに梁秦二州刺史に推され、上表して帰順の経緯を詳述。世宗は詔を下し、持節・散騎常侍・平南将軍・豫州刺史・豊県開国侯(食邑千戸)を授けた。道遷は裴叔業の先例を引いて豫州豊県侯を辞退したが許されず、洛陽で謝罪の礼を尽くした。
- 濮陽県開国侯に改封され、南兗州大中正等を務めた。享楽的な生活を好み、孔融の詩「坐上客恒滿、樽中酒不空」を好んで誦じた。散騎常侍・平西将軍・華州刺史、安東将軍・瀛州刺史を歴任、熙平年(516〜518年)病没、享年六十九。贈撫軍将軍・雍州刺史、諡は明侯。分邑五百戸を求めたが世宗に許されず、靈太后臨朝後に三百戸の分封が議されたが道遷の死で沙汰止みとなった。
夏侯道遷の子孫(附伝)
- 長子・夏侯夬(字元廷)は酒を好み財産を蕩尽、父の死の前後に不吉な夢や怪異が続いたと伝わり、上巳の日の宴の後、心悶を発して急死した。従兄弟・夏侯㚟らが世話をした。妻は裴植の娘で、道遷の妾たちと不和で訴訟に及んだ。
- 夏侯夬の子・夏侯籍は幼くして祖父の爵を継いだが、叔父の夏侯眘らが目の障害を理由に継承に異を唱え、結局尚書の裁定で夏侯籍が継承、元象中(538〜539年)平東将軍・太中大夫に至ったが齊の受禅で降格。