光城蠻の帥として
- 光城の蛮族出身、身長八尺で将略に富んだ。太和十七年(493年)張超を遣わして帰順を表明、翌十九年、員外散騎常侍・都督光城弋陽汝南新蔡宋安五郡諸軍事・冠軍将軍・南司州刺史・光城県開国伯に叙せられた。
- のち東豫州刺史に改封。景明初、蕭衍の軍主・吳子陽の三関侵攻を撃退するなど各地で戦功を重ね、蕭衍軍の南征に対する戦略上表を行い、義陽攻略の重要性と兵力配分を具体的に献策した。世宗はこれを容れた。
- 息子・魯生を率いさせて義陽攻めを支援し、白早生の反乱で豫州が危機に陥った際も義陽を守り抜き、郢豫平定に大きく貢献した。
- 晩年は年老いて聚斂を好み、子や孫の賄賂への関与が問題視され、世宗は劉桃符を派遣して監察させた。益宗は上表して桃符の讒言を弁明し、忠誠を訴えた。
- 世宗は交代を図って李世哲を派遣し不意打ちで益宗を京師に召還したが、これに反発した子・魯生・魯賢らが関南で叛乱を起こし、李世哲が鎮圧。益宗自身は征南将軍・金紫光禄大夫等に叙されたが、辺地での栄達を望んでおり、境遇を訴える上表を重ねた。
- 熙平初(516年)、再び東豫州を求める上表を行うが認められず、二年(517年)卒去、享年七十三。贈征東大将軍・郢州刺史、諡は荘。
田益宗の一族(附伝)
- 少子・纂は征虜将軍・中散大夫を経て卒去、贈左将軍・東豫州刺史。長子・随興は冠軍将軍・平原太守等を歴任。
- 益宗の兄・興祖も太和末に帰附し、江州刺史として麻城を治め卒去。
董巒(附伝)
- 字仲舒、営陽の人。真君末に父と共に南へ逃れたが、性格は武を好まず文字にも疎かった。高祖に南朝の事情を問われ答えられず、子・景曜が代わって蕭鸞簒奪の経緯を弁舌鮮やかに答え、高祖に異才と評された。
- 巒は越騎校尉、景曜は員外郎となったが南への離反を企て朔州に流された。高祖の南征に従軍中、景曜の密告を受け巒は単騎で南走したが捕らえられ、景曜は父を売った罪により斬られた。
陳伯之(附伝)
- 下邳の人。江南で鎮南大将軍・江州刺史・豊城県開国公となっていたが、景明三年(502年)密かに降伏を申し出、子・虎牙を人質として送った。翌年、平南将軍・江州刺史・曲江県開国公に叙せられ、正始年間、蕭衍の趙祖悦を大破するなど軍功を挙げた。