魏書卷五十三 列傳第四十一 李沖

李沖(字思順、隴西の人、李寳の子、?–498年)は文明太后・孝文帝に重用され、三長制の創設や洛陽遷都の推進、律令・礼制の整備に尽力した北魏の名臣。

年表(1件)

李沖

李沖、字は思順、隴西の人、敦煌公李寳の少子。若くして孤児となり長兄の滎陽太守李承に携えられて教訓を受け、承は常に「この子の器量は尋常でなく、まさに我が門戸の頼るところとなろう」と語った。沖は沈雅で大量があり兄に随い任地に至ったが、当時牧守の子弟の多くが民庶を侵し乱し軽々しく乞奪する中、沖は承の長子の李韶とただ二人清簡皎然として求取するところがなく、時人はこれを美とした。顕祖末年(470年頃)中書学生となり、沖は交遊に善く妄りに戯雑せず流輩に重んじられた。髙祖初年、例により祕書中散に遷り禁中の文事を典じ、修整敏恵をもって次第に寵待され、内祕書令・南部給事中に遷った。旧来三長の制はなく宗主督護を立てるのみであったため民の隠冒が多く、五十戸・三十戸でようやく一戸とされる有様であった。沖は三正で民を治める方式の由来が遠いことを説き、三長の制を創案して上奏した。文明太后はこれを覧て称善し、公卿を引見して議させると、中書令鄭羲・祕書令髙祐らは「沖の求める三長の設立は天下を混一の一法にしようというものだが、言葉としては使えそうでも実際には行い難い」と述べ、羲はさらに「私の言葉を信じないなら試みに行ってみればよい、事が失敗すればこの愚言が誤りでなかったと分かるだろう」と述べた。太尉元丕は「私が思うにこの法が行われれば公私に益がある、ただ今は事の多い月で民戸の校比新旧未分のため民が必ず労怨しよう、この秋を過ぎ冬の閑月まで待ち徐かに使いを遣わすのが事の宜しきに適う」と述べた。沖は「民とは冥昧なもの、由らしむべくして知らしむべからずというが、もし調賦の時によらねば百姓はただ長を立て戸を校める勤労だけを知り徭を均し賦を省く益を見ないまま必ず怨みを生む、課調の月に合わせ賦税の均を知らせその利を得させれば、民の欲によって行うことこそ容易に行える」と応じた。著作郎の傅思益は「民俗はすでに異なり険易も同じくない、九品の差調は久しく行われてきたもの、一旦法を改めれば擾乱を招くのではないか」と進言したが、太后は「三長を立てれば課には常準があり賦には恒分がある、蔭に苞まれた戸を摘発でき僥倖の人を止められる、なぜ不可とするのか」と述べ、群議は乖異があったものの変法を難とするのみで異義はなく、遂に三長が立てられ公私に便となった。中書令に遷り散騎常侍を加えられ給事中はそのまま、程なく南部尚書に転じ順陽侯に叙爵された。沖は文明太后に寵幸されて恩寵は日に盛んになり賞賜は月に数十万に至り隴西公に進爵、密かに珍宝・御物を第に致すも外人には知られなかった。沖の家はもとより清貧であったが、これによって初めて富室となりながらも謙をもって自ら牧し、蓄えては散じて姻族から郷閭にまで分け及ぼし、虚己に人に接し覊寒衰旧で淪屈していた者を多く引き立てたので、時にこれを称賛された。かつて沖の兄の李佐は河南太守来崇と共に涼州から入国した頃から微かな嫌があり、佐は事に縁って崇に罪を成し崇は獄中で餓死した。後に崇の子の来護がまた佐を糾弾したため佐及び沖らはことごとく幽繋に坐したが赦に会って免れた。佐はこれを甚だ恨みに思ったが、沖が寵貴となって内外を綜攝する頃、護は南部郎となり沖に陥れられることを深く慮り常に退避を求めたが、沖はいつも慰撫した。護は後に贓罪に坐し必ず済われぬと懼れると、沖は護との本末の嫌隙を具に奏して原恕を乞い、護は坐罪を免れた。沖の従甥の隂始孫は孤貧で沖の家に往来し子姪のごとくであったが、ある人が官を求め沖に馬を納めた際、始孫はこれを受け取りながら取り次がず、後に方便を借りて沖にこの馬を献上したところ、馬主が沖の乗る馬を見ても官を得られなかったため事の顛末を陳述し、沖はこれを聞いて大いに驚き始孫を捕らえて事情を奏上、始孫は死罪に処された。沖が要職を自ら厳しく律し愛憎に流されなかったのはみなこの類であった。当時、王公重臣は旧により名で呼ばれるのが常であったが、髙祖は常に沖を「中書」と呼び名で呼ばなかった。文明太后崩御後、髙祖は喪に居ながらいっそう沖を引見し礼儀・律令の議定の際には辞旨を潤飾し軽重を刋定させ、髙祖自ら筆を執っても必ず沖に訪ね決した。沖は忠を竭くして上に奉じ知る限りを尽くし出入の憂勤は顔色に形れ、旧臣戚輔もこれに及ぶ者はなく皆その明断慎密に服して心を帰した。天下は翕然となり殊方の聴望も皆宗として奇とし、髙祖もまた深く仗信し親敬はいよいよ厚く君臣の間の情義は二つなきものであった。百司の改置・五等の開建に沖が参定し滎陽郡開国侯・食邑八百戸に封ぜられ、廷尉卿を拝し程なく侍中・吏部尚書・咸陽王師に遷った。東宮が建てられると太子少傅を拝し、髙祖が周礼に依り夫嬪の列を置く際、沖の娘を夫人とした。

詔で「昔軒皇(黄帝)が誕生し統べて棟宇の構を垂れ以来三代を歴て宮観の式を興したが、茅茨土階が上代に徳を昭らかにし層台広厦が中業に威を崇めたのは文質の宜しきを異にし華朴の礼を殊にするゆえである、周成王は業を継ぎ明堂を東都に営み漢祖は興って未央を咸鎬に建てたのは皇威を尊厳にし帝徳を崇重するため、贅沢を好み倹約を憎んで民力を敝すためではない、我が皇運は天を統べ乾暦を協纂したが四方に意を鋭くして宮室の制度の建立に暇がなく頗る未允のままであった、太祖の初基は粗く経式があったがその後多く営改し三元の慶饗・万国充庭の際に観光の使いに欠けるところがあった、朕は寡徳ながら猥りに洪緒を承け運は休期に属し事は昌運に鍾まり、遠度に遵い宮宇を式すべきである、その指訓規模は平日にすでに明らかで、明堂・太廟はすでに昔年に成った、また往年の豊資により民情の安逸を借りて今春殿を営改しようとしたが、それは時令を違犯するもので行うには忸怩たる思いがある、ただ朔土は寒く事は南夏と異なり、春に興役して暑に至れば広制崇基は成し遂げがたい、成功立事は賢に委ねねば果たせず、制規模を改めるのは能に任せねば済まない、尚書沖は器懐淵博・経度明遠であるから将作大匠を領させ、司空長楽公の亮と共に大匠を監させ興繕させよ、去故崇新の宜しきと太極の制の修復は朕が別に指授する」と述べた。車駕南伐に際し沖に輔国大将軍を加え衆を統べて翼従させ、都を発してから洛陽に至るまで霖雨が晴れなかったが六軍発軫の詔が下り髙祖は戎服のまま鞭を執って御馬で出ようとすると、群臣は馬首の前で額づいた。髙祖が「長駆の謀はすでに廟算で定まった、今大将軍が進む中、公らはさらに何を言うのか」と述べると、沖が進み出て「臣らは帷幄で敵を折る才もなく坐して四海を制することもできず、南に僭号する渠を放置しているのは実に臣らの咎です、陛下が文軌未一を理由に親ら聖駕を労されるのに臣らは誠に身を亡くし命を尽くして戎行に死を効そうと思っていますが、都を離れて以来の淫雨で士馬は困弊し前路はなお遠く水潦はいよいよ甚だしく、伊洛の境内の小水すらこれほど困難なのですから、まして浩汗たる長江を南境の外に越えるとなれば、舟檝を営むには必ず停滞を要し師は老い糧は乏しくなり進退窮まりましょう、喪を悼み旆を反すのが義に適うと存じます」と述べた。髙祖は「一同(天下統一)の意は先にすでに述べた、卿らはただ水雨を難とするが天時はある程度知れるもの、なぜなら夏はすでに炎旱で秋はゆえに雨が多く、玄冬の初めには必ず晴れよう、この後の月の間に雨がなお止まなければそれは天であろう、もしここで晴れれば行軍に害はない、古は喪を伐たずというのは諸侯の同軌の国についてであって王者統一の文ではない、ここまで来て駕を停める理由があろうか」と述べると、沖はさらに「今回の挙は天下が望まぬところ、ただ陛下だけがお望みです、漢文帝は『私一人が千里の馬に乗ってどうするというのか』と語りました、臣には意はあっても言葉が足りません、死を賭して申し上げます」と述べると、髙祖は大いに怒り「まさに宇宙を経営し区域を一にしようとしているのに、卿ら儒生はしばしば大計を疑う、斧鉞には常があるぞ、これ以上言うな」と述べ馬を進めて出ようとした。そこで大司馬安定王休・兼左僕射任城王澄らがみな殷勤に泣諫すると、髙祖は群臣に「今回の興動は小さくない、動いて成果なくばどう後世に示せようか、いたずらに班師するなら千載に垂れるものがない、朕が思うに遠祖は幽漠に世々居し衆に違えて南遷し無窮の美を享けた、まさか無心に陵墓の地を軽々しく捨てたわけではあるまい、今の君子とて独りその思いを抱かぬはずがない、まさに天工人代・王業成就を要するがゆえである、南に鑾を移さないなら都をここに移し土中に光宅すべきである、機はまさに時に適う、王公らはどう思うか、議して決すればもう後戻りはできぬ、遷りたい者は左に、そうでない者は右に立て」と述べた。安定王休らは相率いて右に立ったが、南安王楨が進み出て「愚者は成事に暗く智者は未萌に見る、至徳を行う者は俗に議らず大功を成す者は衆に謀らない、非常の人こそよく非常の事を成せます、神都を廓げて王業を延べ土中を度って帝京を制するのは周公がかつて前に啓き陛下が後にこれを行うのは固より宜しいことです、しかも天下の至重は皇居に及ぶものはなく、人の貴ぶところは遺体(子孫の身)に及ぶものはありません、上は聖躬を安んじ下は民望を慰め、中原に光宅しあの南伐を輟められることこそ、臣らは蒼生のために幸いを願うところです」と述べ、群臣はみな万歳を唱えた。髙祖は当初から南遷を謀っていたが衆心が旧を恋うることを恐れ、大挙を示すことで群情を協定させようとし、外には南伐と名づけながら実は遷都であった。旧人は土を懐い多くを望まず、内には南征を憚りあえて言う者もなかったため、ここに洛陽への遷都が定まった。

沖は髙祖に「陛下はまさに周公の制に倣い成周に鼎を定めようとしていますが、六寝の造営が未完のまま遊駕を待たせるわけにはいきません、城郭の興築も馬上で成し遂げるのは難しいものです、願わくば暫く北都に還り、臣下に経営させ功成り事終わってから文物の章を備え玉鑾の響を和し、時を巡って南に徙り土中の軌儀を整えられますように」と述べると、髙祖は「朕は方岳を巡省し鄴に至って小休みするだけで春が始まればすぐに戻る、まだ帰らずにいる理由はない」と答えた。程なく沖を鎮南将軍とし侍中・少傅はそのままで営構の任を委ね、陽平郡開国侯に改封し邑戸は先の通りとした。車駕南伐に際し沖を兼左僕射として洛陽に留守させた。車駕が淮を渡ると、別詔で安南大将軍元英・平南将軍劉藻に漢中を討たせ雍涇岐二州の兵六千人を召して南鄭を戍らせ剋城の後に遣わすこととした。沖は上表して「秦州は険阨で羌夷に接し、西師が出て以来餉援は連続し氐胡の叛逆で所在に奔命し運糧・擐甲は今なお已まない、今また戍卒を予め差して山外に懸擬すれば優復を加えても驚駭を招く恐れがある、もし最後まで攻めても剋てなければいたずらに民情を動かし胡夷と結ぶ恐れがあり事は測り難い、詔旨に依り密かに刺史に下し軍が鄭城を剋ってから差し遣わすべきである、しかし愚見ではそれでもなお不十分ではないかと思う、西道は険阨で単径千里、今もし絶界の外に深く戍を置けば孤立して群賊の口に拠ることになり、敵が攻めても急に援けられず糧が尽きても運べない、古人の言に『鞭が長くとも馬腹には及ばず』とあるが南鄭はまさに国の馬腹に当たる、また昔人の攻伐には城が降っても取らなかった仁君の用兵もあり、民を撫して地を遺した例もある、王者の挙は情は民を拯うことにあり、夷冦の守る意は地を惜しむことにある、この二義を較べれば徳の浅深に差があり、恵声はすでに遠く及んでいるのに一城にどうしてそれほど拘るのか、しかも魏の境が掩う所は九州のうち八を過ぎ、民が臣とするところ十のうち九、まだ民としていないのは漢北と江外のみ、これを覊すのは近く急ぐには及ばない、大いに疆宇を開き城聚を広く抜き資糧を多く積み食が敵に十分対抗できるようになるのを待ってから邦を置き将を樹て併呑の挙をなすべきである、今も鍾離・寿陽は近接しながらまだ抜けず、新野も一歩手前で降らず、剋った所は棄てて取らず降った所は撫しても戮に旋る有様で、東道すら近力で守れないのに西蕃だけ遠兵で固められようか、もしそれでも置こうとすれば結局は敵に資するだけになろう、また今は土中に建都し境が冦壌に接している、まさに死士を大いに集め江会を平蕩すべき時に、軽々しく単寡の兵を遣わして陥没させれば、後の挙の日に衆が留守の懼れを抱き死効を求めても得難くなろう、これを推せば戍を置かぬのが上策と考える」と述べ、髙祖はこれに従った。

車駕還都の後、沖らを引見して「もともと官を多く置いた理由は令僕が暗弱であれば万事が滞ることを慮ってのことだった、もし独り聡明専断であれば権勢が大いに偏る、今朕は聡明とまでは言えぬがさりとて劣暗でもない、卿らも大賢とは言わぬが大悪でもない、しばらく一両年は少しく官司を置いておこう」と語った。髙祖が鄴から京に還る際、洪池に舟を浮かべ従容として沖に「朕はここから洛に渠を通そうと思う、南伐の日にどうしてこの水路を使わずにいられようか、洛から河に入り河から汴に入り汴から清に入り淮に至れば、船に下って戦うのはあたかも戸を開いて闘うようなもの、これは軍国の大計だ、今溝渠がもし二万人以下で六十日でできるなら、これを漸次修めるべきだ」と語ると、沖は「もしそうなれば、士は遠渉の労なく戦に兼人の力を得ることになります」と応じた。尚書僕射に遷り少傅を仍領し清淵縣開国侯に改封され邑戸は先の通りとされた。太子恂の廃立に際し沖は少傅を罷された。髙祖が公卿を清徽堂に引見して「聖人の大宝は位と功にあり、功成れば楽を作り治定まれば礼を制すというが、今や極を中天に徙し嵩洛に居を創ったのは、大構こそまだ完成していないが要は条紀すでに略挙されたということだ、ただ南に未賔の豎(賊)があり凶蛮も密邇しているのは朕が夙夜に悵惋するところである、南を取る計はすでに決した、朕がこれを行う謀は必ずなされる、近代に依るなら天子は深宮の帷を下ろすだけであろうし、上古に準ずるなら親征がある、祚は七百年に延びた周と違い征伐せず旋踵に亡んだ魏晋の例もあり、祚の脩短は徳にあって征にはない、今はただ行期の早晩をどう知るかだけだ、幾(きざし)を知るは神の如しというが朕はもとより神ではない、しかし頃来の陰陽卜筮の士はみな朕に今征すれば必ず剋つと勧める、これは家国の大事、君臣ともに存分に意見を述べるべきで朕が先に言ったからといって依違して退いてはならない」と述べると、沖は「征戦の法は先に人事を尽くし然る後に卜筮に問うもの、今卜筮が吉と出ても人事がなお備わっていないことを恐れます、今年の秋の実りは常年より損なわれ、京師もまだ遷ったばかりで衆業もいまだ定まらず、これに征戦を加えるのは未だ不可というべき、来秋まで待つべきです」と述べた。髙祖は「僕射の言うことは朕の意に合わぬわけではないが、朕の慮るところはむしろ社稷の憂いにある、目前に冦戎があるのに自ら安んじるのはよろしくない道理としてはこのようにすべきだ、僕射の言う人事未従というのも必ずしもそうとは限らない、朕は去る十七年二十万の衆を擁しながら畿甸を出なかった、これは人事の盛んなるものだが天時ではなかった、往年は機に乗じ天時は可であったのに人事を欠いて捷たなかった、もし人事の備わるのを待てばまた天時ではなくなる、これをどうするか、僕射の言うように従えば結局征する理はなくなる、朕がもし秋に行っても捷たなければ卿ら三君子はともに司寇に付し人がその心を尽くさぬことがないようにせよ」と述べ議を罷めて出た。

後に世宗が太子となった際、髙祖が清徽堂で宴し「皇儲が暦を纂ぎ七祖を光昭するのは億兆咸悦・天人同泰たるもの、ゆえに卿を招いてこの宴で忻情を暢べる」と述べ、さらに「天地の道は一盈一虚、常に泰であることなどない、天道すらそうなのだから人事はなおさらだ、ゆえに升があれば黜もある、古よりそうしたものだ、往を悼み今を欣ぶにつけ深く歎かずにいられない」と語ると、沖は「東暉が儲を承け蒼生はみな幸いですが、臣は先に師傅を忝くしながら弼諧できず天日に仰ぎ慙じております、慈造が寛く含んでこの宴に列することができたのは慶びと愧じが交々深く思われます」と応じ、髙祖は「朕ですらその昬さを改めることができない、師傅がなぜそれほど愧謝する必要があろうか」と述べた。後に尚書で元拔・穆泰の罪の疑義があった際、沖は奏して「前彭城鎮将元拔は穆泰と同逆であったが、その養子の降壽については拔の罪に準ずべきとされ、太尉咸陽王禧らは『律文では養子が罪を犯した場合、父及び兄弟で情を知らぬ者は坐せぬとある』と論じるが、謹んで律の意を審らかにすれば、養子は父に対して天性がなく兄弟に対して同気でないため、その敦薄には差があり刑典にも降がある、ゆえに養子が罪を犯しても兄弟は預からないが、逆に父兄が罪を犯して養子がそれを知らなかった場合、立場を換えて情を等しくすればどうして戮に従わせてよかろうか、理の上でそのはずはない、私は律文に依れば所生(実父母)に追戮された場合はその所養(養父母)にも連坐すべきことは明らかと考える。また律には『父は子に従わず』とあるだけで『子は父に従わず』とは言っておらず、これは尊を優じ卑を厲む義であろう。臣禧らは『律は正しく互文をもって制を起こすとは見えないが、乞われた場合には養父の罪が語られ、養われた場合には子の坐が見える、これは互いに起こすもので互いに起これば両者とも明らかで無罪であることは疑いない、もし嫡子として継養された者を実子と同じとするなら父子は均しく坐せぬとすべきだ』と論じるが、継養の注には『別制があれば同じではない』とあり、この律にはさらに令文があり『諸々の封爵を有する者、もし親子がなく身が卒すれば養継があっても国は除かれ襲がぬ』とあるのは、福があっても及ばないのに、罪があれば即座に連坐させるのでは事も情も律令の意と矛盾する。伏して察するに律旨は必ずそうではないはずである、臣沖は条例を指し尋ねれば罪は無疑であり、令に準じ情に語れば頗る同式と考える」と述べた。詔で「僕射の議は律に拠って明らかである、太尉らの論は曲がった矯りである、養が戮に従うのは、すでに所生を免れている以上は所養にも甄別されないゆえであって、これがどうして『福は及ばぬのに罪だけ連坐する』ことになろうか、国の爵禄を継がぬのはその爵を重んじ特に制を立て天の絶つところに因って推してこれを除くだけだ、どうしてまた刑賞に対応させる必要があろうか、それゆえここでは死に処すべきところを特に原してよい」とされた。

沖は機敏で巧思があり、北京の明堂・圜丘・太廟及び洛都の初基・郊兆の安置・新設の堂寝はみな沖に頼った。志を勤め力を彊め孜孜として怠らず、朝は文簿を理め兼ねて匠制を営み几案は書類で埋まっていたが終始労い厭うことがなかった。ただ顕貴な門族を務め六姻・兄弟・子姪はみな爵官を得て一家の歳禄は万匹余りに及び、その親族であればたとえ痴聾であっても官次を超越して用いられたため時論はこれを少しく批判した。年わずか40にして鬢鬚は班白したが姿貌は豊美で衰えた様子はなかった。李彪が京に入った当初、孤微で寡援であったが自立して不群であり、沖が士を好み傾心してこれを宗附させると沖もその器学を重んじ礼をもって迎え、常に髙祖に言上して公私ともに援益を与えたが、彪が中尉を兼ね尚書となり髙祖の知待を得るや、もはや沖に藉らず互いに軽んじ背くようになり、公坐では袂を歛めるのみで宗敬の意はなくなった。沖はこれを頗る恨みに思っていたが、後の髙祖の南征の際、沖は吏部尚書任城王澄と共に彪の倨傲無礼を理由にこれを禁止しその罪状を奏し、沖自ら手ずから家人にも知らせず草稿を作り言葉は甚だ激切で自劾を含んでいた。髙祖はこの表を覧て久しく歎悵し「道固(彪の字)は溢れる(過ぎたる)というべきだが、僕射もまた満ちすぎているな」と述べた。沖は震恐し何度も彪の前後の愆悖を責め瞋目大呼して几案を投げ折り、収監された御史たちは皆泥首・面縛され罵辱を肆にした。沖はもともと温柔の性であったが一旦暴恚すると病を発し荒悸して言語も乱れ、それでも扼腕して「李彪は小人だ」と呌詈し続け、医薬でも療せず、あるいは肝臓が傷裂したとも言われ、旬余日で卒し享年49。髙祖は懸瓠で挙哀し発声悲泣して自ら勝えなかった。詔で「沖は貞和な資性、徳義をもって身を樹て訓業をもって家道を素とし、太和の初め朕がまだ弱齢の頃から早くより機密を委ね実に時務を康んじた、瀍洛への鴻漸に際しては朝選が清きを開き端右(僕射)に冠として登り、出納は忠粛・柔明にして睿範を敷くに足り、仁恭・信恵で民心を結ぶこと、まことに国の賢・朝の望と言うべきである、まさに寵秩を昇らせ功旧を旌そうとしていた矢先に喪逝に遭い悲痛は懐に尽きない、すでに勤めを留めて陟るべきであった以上、良を兼ねて宿は宜しく襃わるべし、司空公を追贈し東園祕器・朝服一具・衣一襲を給し銭三十万・布五百匹・蠟三百斤を贈る」とし、有司が諡を「文穆」と奏し、覆舟山の杜預冢の近くに葬った、これは髙祖の意によるものであった。後に車駕が鄴から洛に還る途中、沖の墓の傍らを通ると左右がこれを聞こえさせ、髙祖は病に臥しながら墳を望んで久しく涙を掩った。詔で「司空文穆公の徳は時の宗、勲は朕の心に簡なるものであったのに不幸にも徂逝し墳を邙嶺に託した、鑾を旋らせ覆舟を過ぎ躬らその塋域を睇るに悲仁惻旧の思いは朕の心を働かせる、太牢の祭を遣わし吾が懐いを申べよ」と述べた。留京の百官と相見えた際にはみな沖の亡没の故を叙べ言葉が流涕に及んだ。髙祖は留台の啓を得て沖の患状を知ると、右衞の宋弁に「僕射は我が枢衡を執り朝務を総釐し清儉に身を居し寵を知って久しく、朕は仁明忠雅をもって台司の寄を委ね、我をして境を出ても後顧の憂いなからしめてくれたのに、一朝にしてこの患いを得るとは」と語り、朕の懐愴慨はこの通りであったという。

沖の兄弟は6人あり四人の母から生まれ互いにやや忿隙があったが、沖が貴くなり封禄・恩賜をみな共有すると内外は輯睦し、父の亡き後も20余年同居し、洛陽に至ってようやく別宅としたが友愛はいっそう厚く久しく間断がなかった、これもみな沖の徳によるものである。沖が初めて寵幸を受けた頃、兄の子の李韶は常に憂色を懐き傾敗を招くことを慮ったが、後に栄名が日に顕れるにつれ自ら安んじた。沖は明目当官・図為己任の姿勢を貫き始めから終わりまで避け屈することなく、時運を推すことはみなこの類であった。子の李延実らのことは外戚伝に見える。

史論

史臣曰く、燕趙にはまことに奇士が多いというが、李孝伯の風範・鑑略もまた人に過ぎることはるかに大であった。世祖は雄猜で厳断の人であり崔浩ですら誅夷されたが、孝伯は心膂に参与し政事を出幹して献可替否の跡は際を尋ねようもなかった、それゆえよく従容と任遇を得て功名をもって始終を全うできたのであり、その智器はまことに優れていた。李安世は識具通雅にして時幹の良たり、瑒は豪俊をもって達し郁は儒博をもって顕れた。李沖は早くより寵眷に延き腹心として入り、風流・識業まことに一時の秀であり、終始聖主に契い太和の政を輔け位は端揆に当たり身は梁棟の任にあった。徳は家門に洽く功は王室に著れた、これぞ有魏の乱臣(世を治める重臣)というべきである。