魏書卷五十三 列傳第四十一 李孝伯

李孝伯(趙郡の人、李順の従父弟、?–457年)は太武帝の側近として軍国の機密に参与し、南朝劉宋の張暢との彭城城下の応酬で知られる北魏の重臣。

年表(14件)

李孝伯

李孝伯、趙郡の人、髙平公李順の従父弟。父の李曽は若くして鄭氏の礼・左氏春秋を修め教授を業とし、郡が三度功曹に辟しても就かず、門人が勧めると曽は「功曹の職は郷選の高第と言われても所詮郡吏に過ぎない、北に人に仕えるのもたやすいことではない」と語った。州が主簿に辟し到官して月余りで「梁叔敬(梁鴻)の言う通り、州郡の職はただ人を労するだけだ、道が行われぬのは身の憂いだ」と嘆じ家に還って講授した。太祖時に徴されて博士を拝し出て趙郡太守となり、令行禁止で劫盗は奔竄し太宗はこれを嘉した。并州の丁零がしばしば山東の害となっていたが、曽が百姓の死力を得ていることを知り憚って趙郡に入らず、常山の境で得た死鹿を趙郡の地のものと言い張ったところ賊長がこれを責め鹿を元の場所に返させたため、隣郡では「趙郡の鹿を詐って得るより常山の粟を得る方がまだましだ」との謡が作られたほど、その憚られようはこの通りであった。卒すると平南将軍・荆州刺史・栢仁子・諡懿を追贈された。

孝伯は若くして父の業を伝え群言に博く通じ美風儀・動くに法度あり、従兄の李順がこれを世祖に言上すると徴されて中散となり、世祖は見て異とし順に「まことに卿の家の千里の駒だ」と語った。祕書奏事中散に遷り侍郎に転じ光禄大夫を拝し南昌子に叙爵、建威将軍を加えられ軍国の機密を委ねられ深く親寵され、謀謨は切秘で時人は知る由もなかった。北部尚書に遷り、しばしば征伐に従った規略の功により壽光侯に進爵、建義将軍を加えられた。真君末年(450年頃)車駕南伐が彭城に出ようとした際、劉義隆の子で安北将軍・徐州刺史の武陵王駿が将馬文恭に歩騎万余を率いさせ蕭城に至らせると前軍がこれを撃破、文恭は逃げ延びたがその隊主蒯応を捕らえた。義隆は大駕南巡を聞くとさらに弟の太尉江夏王義恭に衆を率いて彭城に赴かせた。世祖が彭城に至り亜父冢に登って城内を望む中、蒯応を小市門に送り世祖の詔を宣して義恭を労問すると、義恭は蕭城の敗を自陳させ、応に「魏帝は自ら来たのか」と問うと「自ら来た」と答え、「今どこにいるか」と問うと「城の西南にいる」と答え、「士馬はどれほどか」と問うと「中軍だけで四十余万」と答えたという。駿は酒二器・甘蔗百梃を献じ駱駝を求めた。世祖は翌朝再び亜父冢に登り孝伯を小市に遣わすと、駿もまた長史張暢を遣わして孝伯に応対させた。

以下は孝伯と張暢の応酬の要旨である。孝伯が姓を問うと暢は「張」と名乗り、孝伯が「では張長史だな」と応じると暢は「なぜ私を知っているのか」と問い、孝伯は「この境に入った以上は知らぬはずがない」と答えた。暢が「そちらは何と名乗り何の官にあるのか」と問うと、孝伯は「私は軍中の一兵卒に過ぎぬがそれでも君と対等に語るに足る」と答えた。孝伯は「主上(太武帝)の詔があり、太尉・安北はしばらく門を出て会おうとのこと、朕も彭城を攻めるつもりはないのになぜ城上を厳しく守り将士を苦しめるのか、今は駱駝と貂裘等の物を賜う」と伝えると、暢は「詔の言葉はそちらの国でこそ通用するもの、ここでどうしてそう称せるのか」と反論、孝伯は「そちらの太尉・安北も人臣ではないのか」「そうだ」「我が朝廷はすでに万国を有し率土の浜すべて臣ならぬ者なし、隣国の君主であっても、隣国の臣に詔と称してならぬ理由はない」と応じた。孝伯がさらに「なぜ慌てて城門を閉じ橋を絶ったのか」と問うと、暢は「両王(義恭・駿)は魏帝の壁塁が未だ立たず将士も疲労しているこの精甲十万が命を致そうとするのを慮り、軽々しく相凌ぎ践むのを恐れ暫く城を閉じただけ、士馬を休息させた後に戦場を治め日を尅して交戦するつもりだ」と答えた。孝伯は「令行禁止は主将の常だが法をもって物を裁くべき、なぜ橋を廃し門を閉ざす必要があろうか、しかも窮城の中で十万を誇るとは、我にも良馬百万があるがこれをもって誇ろうか」と述べると、暢は「王侯が険を設けるのは法令だけの問題ではない、私が誇るなら百万と言うところだが十万と言ったのはまさに両王の左右の常備兵のみを指したもの、この城内には数州の士庶・工徒・営伍がありまだ数えていない、我らはもとより人と闘うのであり馬と闘うのではない、冀州の北の土地は馬の産する所、そちらこそなぜ逸足を誇るのか」と答えた。孝伯は「王侯が険を設けるのはまことに仰る通りだが開閉には常があるはず、なぜ塞ぎ橋を絶つのか、この城を守るのはそちらの得意、野戦は我の得意、我が馬を恃みとするのはそちらが城を恃みとするのと同じこと」と応じた。城内に具思という者がおり、かつて京師に至ったことがあり義恭が遣わして見させると思は孝伯だと分かり進み出て「李尚書は行程でお疲れでしょう」と問うと孝伯は「これはそちらも共に知るべきこと」と応じ、思は「共に知るがゆえに労いを申し上げるのだ」と答えた。孝伯は「君の厚意に感謝する」と述べ、門を開いて暢は人払いをして出て賜り物を受けた。孝伯は「詔により貂裘は太尉に、駱駝と騾馬は安北に、蒲萄酒及び食味は共に進上する」と告げると、暢は「両王が謹んで魏帝に申し上げる、お目にかかりたいのはやまやまだが、本朝の命を受け藩任にある身、人臣に境外の交わりなし、私的な対面はできない」と答え、義恭は皮袴褶一具を、駿は酒二器・甘蔗百梃を献じた。孝伯は「また詔があり、太尉・安北は久しく南の消息が絶えて憂鬱であろう、書状を送りたければ届けよう、騎馬が必要ならそれも送ろう」と述べると、暢は「この辺りには間道が多く使者は日夜往復している、魏帝にご心配いただくには及ばない」と答えた。孝伯が「水路もあるがそちらは白賊に断たれているとも聞く」と言うと、暢は「あなた方が白衣を着ているから白賊と呼ぶのか」と切り返し、孝伯は大笑いして「今の白賊は黄巾・赤眉とは違うようだ」と述べ、暢は「黄巾・赤眉は江南にはいない」と答え、孝伯は「江南になくとも徐方から離れてはいまい」と応じた。孝伯は「先に安北に伝言したのになぜ久しく返答がないのか」と問うと、暢は「両王は遠方の使者を重んじるので上聞するのに時間がかかる」と答え、孝伯は「周公は髪を握り食を吐いてまで賢者を迎えたというのに、両王はなぜそれほど遠方を重んじるのか」と述べると、暢は「握髪吐哺は隣国の人に対してのことではない」と答え、孝伯は「本邦の者にすらそうするなら隣国にはなおさら恭を尽くすべき、賓客が至れば礼があるはず、主人は礼をもって迎えるべきだ」と述べると、暢は「昨日多くの賓客が門に至ったが礼を尽くせなかった」と答え、孝伯は「賓客に礼がなかったのではなく、主人が慌ただしく賓客への支度が間に合わなかっただけだろう」と応じた。孝伯はさらに「詔がある、程天祚は一介の常人で江南の選に非ざるは分かっているが、先ごろ汝陽で九槍を身に受け溵水に落ちたのを我が引き上げて助けた、およそ人は骨肉が離散すればみな再会を思うもの、その弟がここにいると聞くのになぜしばらく出さないのか、私はすぐに返すつもりで一人を留め置くようなことはしない」と述べると、暢は「程天祚兄弟の再会はすでに手配済みだが、天祚本人が固辞して行こうとしない」と答え、孝伯は「子弟が父兄のことを聞いてかえって会おうとしないなら、それは禽獣にも劣る、貴国の風俗はどうしてそこまで至ったのか」と述べた。世祖はさらに義恭・駿らに氈各一領、塩各九種、胡豉を賜り、孝伯は「詔がある、これらの塩にはそれぞれ用途がある、白塩は食塩で主上自らも食す、黒塩は腹脹気満を治し六銖を末にして酒で服す、胡塩は目痛を治し、戎塩は諸瘡を治し、赤塩・駿塩・臭塩・馬歯塩の四種はいずれも食塩ではない、太尉・安北はなぜ自ら朕のもとに人を遣わさないのか、彼我の情を尽くせずとも朕の大小・老少を見、朕の人となりを観るには足りるだろう」と述べると、暢は「魏帝のことは久しく往来する者たちからすでに知り尽くしている、李尚書自らが命を銜んでこられたのだから彼我の情が尽くせぬ心配はなく、それゆえ改めて人を遣わさない」と答え、義恭は蝋燭十梃を、駿は錦一匹を献じた。孝伯は「そちらの南土の士人はなぜ屩(草鞋)を履くのか、君はこれを履いているが将士はどうか」と問うと、暢は「士人の言は誠に恥ずかしい限りだが、武でないゆえに命を受けて統軍する身、戎陣の間では緩服は許されない」と答えた。孝伯は「永昌王はこのところ長安に鎮していたが、今は精騎八万を領して直ちに淮南の寿春に至った、そちらも門を閉じて自守するばかりで抗しようとしないだろう、先に送った劉康祖の首はそちらもすでに見た通り、王玄謨も甚だ知られた常才に過ぎない、なぜあれほどの任を委ねて奔敗を招いたのか、境に入ってから七百余里、主人は一度も相拒めなかった、鄒山の険はそちらの頼みだったが前鋒がひとたび接するや崔邪利はすぐさま穴に潜り将士に引き摺り出されるほど、主上はその生命を丐して今もここにいる、それなのになぜ軽率に馬文恭を蕭県に遣わし望んで退かせるようなことをするのか、彼の民たちは甚だ恨みを抱き『清平の時に我らから租帛を取り立てておきながら急難の際には助けてもらえない』と言っているぞ」と述べると、暢は「永昌王がすでに淮南を過ぎ康祖がこれに破られたとは聞いていない、そんな情報はない、王元謨は南土の一偏将に過ぎず才ある者とは思っていない、ただ北人ゆえに前駆として用いただけ、大軍がまだ至らぬうちに河の氷が張り始めたので元謨が撤兵の判断をしたのは失策ではない、ただ夜に引き上げたことで戎馬が驚き乱れただけだ、我が方は懸瓠の小城を陳憲という小将が守っていたが、魏帝が全国を挙げて包囲しても幾旬も剋てず、胡盛之は一偏裨の小帥に過ぎず衆は二旅にも及ばぬのに翮水を渡り魏国の君臣は奔散しやっと免れられたほど、滑台の敗軍もさほど恥じるには当たらない、鄒山の小さな戍もわずかな険しさに過ぎず、河畔の民は多く新附で政化を慕い始めたばかりで姦盗もまだ絶えぬため崔邪利にただ撫めさせていただけ、今それが陥没しても国にとって何の損があろうか、魏帝が十万の師をもって一人の崔邪利を制したことなど取り立てて言うほどのことではない、最近蕭県の百姓が皆山険に依っていると聞いたのでとりあえず馬文恭を十隊で迎えに遣わしただけだ、文恭は先に三隊を出して敗走し大営に逃げ帰り、嵇玄敬が百艘の舟で留城に至った際、魏軍が敗走したのは軽敵を招いたためで、こちらの責めるところではない、王境の人民は河畔に列居し二国が交兵する際は互いに撫養すべきものなのに、魏師が境に侵入したのは事が意外に起こったこと、官が民に負くことなく民もまた何を怨もうか、境に入り七百里も相拒めなかったのは太尉の神算・武陵王の聖略によるものであり、軍国の要は私には預かり知らぬところだが、用兵には機があり容易には語れない」と答えた。孝伯は「君はこの虚談に籍口して支離滅裂に応対しているが、それこそ言い逃れに窮した証だろう、それに主上はこの城を包囲するつもりはなく自ら諸軍を率いてまっすぐ瓜歩に向かおうとしている、南の事が成れば城は攻めずとも自ずと落ちる、南行が捷たなければ彭城も欲しいわけではない、我らは今まさに南に江湖に馬を飲ませようとしているだけだ」と述べると、暢は「去留のことはそちらの心のままだが、もし魏帝が長江に馬を飲ませることになれば、それはもはや天道の否定に等しい」と答え、孝伯は「北から南へというのはまさに人の教化によるもの、長江に馬を飲ませるのが天道でないと誰が言えようか」と応じた。暢は城に帰る際、孝伯に「戦乱が平定される時が来れば遠からず再会できよう、もし君が宋に来ることがあればこれが相知りの始めとなろう」と語ると、孝伯は「私は今まさに先に建業に至って君を待つつもりだ、ただその日には君も両王とともに面縛して罪を請う余裕もないのではないか」と答えた。孝伯の風容は閑雅で応答は流れるようであり、暢及び左右の者はみな深く嗟嘆した。世祖は大いに喜び宣城公に進爵させた。興安2年(453年)出て使持節・散騎常侍・平西将軍・秦州刺史となり、太安3年(457年)卒し、髙祖(当時は文成帝を指すが史料の年代的には髙宗)は深く悼惜し鎮南大将軍・定州刺史・諡文昭公を追贈した。

孝伯は体度恢雅で政事に明達し朝野貴賤みなこれを重んじた。恭宗はかつて世祖に俊秀を広く徴すよう啓したが、世祖は「朕には一人の孝伯がいれば天下を治めるに十分だ、これ以上何人も要るまい、もし求めても得られるものではない」と答えたほど、その見られようはこの通りであった。性は方慎忠厚で、朝廷の大事に不足があれば必ず自ら手ずから上表し切言・諫言を行い、聴かれなければ再三に及んだが、その草稿は削り消して家人にも見せなかった。公の場での論議では常に綱紀を引き、事を言上する者があれば孝伯はその陳ずるところに任せ、是非があってもついに抑折することなく、世祖に見えるとその長所を語り決して人の姓名を隠して自分の善とすることがなかった、ゆえに衣冠の士はその雅正に服した。崔浩の誅殺後、軍国の謀はみな孝伯から出て世祖の寵眷は浩に亜ぐほどであり宰輔として遇されたが、その献替補闕の跡は表に見えず時人にも知られなかった。卒した日、遠近の人が哀傷した。孝伯の美名は遐邇に聞こえ、李彪が江南に使いした際、蕭賾(斉武帝)は「孝伯についてはそなたも遠近を問わず知られているように、彼は遠方の人にまで知られているのだな」と語ったという。

孝伯の妻は崔賾の娘で高明な婦人であり一子元顕を生んだ。崔氏の卒後に翟氏を納れたが妻とはせず、翟氏は元顕を憎み忌んだ。後に元顕は劫盗に遭って害され、世は翟氏の仕業と噂した。元顕は志気甚だ高く時人に傷惜された。翟氏の二子安民・安上はいずれも風度があった。安民は爵壽光侯を襲ぎ司徒司馬で卒し郢州刺史を追贈されたが子なく爵は除かれた。安上は鉅鹿太守で早世した。安民の弟の豹子は正光3年(522年)上書し「勲を録し労に賞するは国の恒典、興滅継絶は哲后の先とするところ、徳を積み忠を累ねれば春秋も十世に及ぶまで宥すことを許す、功を立て節を著せば河山も誓ってその永久を約す、伏して惟うに世祖太武皇帝は天より英叡にして四海を籠罩し、東は遼海を清め西は玉門を定め漠北を凌滅し長江に馬を飲ませた、亡父の故尚書宣城公孝伯は冥かに感会し昌辰に遭って幃幄に綢繆し侍従に繾綣し廟算嘉謀は常に採用を得た、当時儲后(恭宗)が監国して賢を徴すよう奏請すると詔で『朕には一人の孝伯がいれば天下を治めるに十分だ』と答えたほど、その委遇はこの通りで元凱の寵・公侯の爵をもって遇された、詔册には『江陽の巡には奇謀をしばしば進め六師の大捷にも勲がある、内外に勤王した寵遇は隆厚、まさに大賞を開こうとしていたところ世祖が登遐し梓宮が外任に遷る名岳(未詳)の折、髙宗は幼くして継位しまだ追叙が及ばぬうちに臣の父は舛運により先んじて棄世し微績も甄られぬまま搢紳はみな早世を傷み朝野は哀悼した、臣の亡兄が爵を襲いだが子なく封は除かれ、宗構を思えば五情崩れる思いだ、先臣の栄寵は前朝で王府に等しく列せられたのに爵封は今や堙墜し古今に照らして深く痛切である、朝例を見るに広川王遵・太原公元大曹らはみな先朝の勲重により世に祭祀を継ぐ者が絶えても傍系あるいは弟をもって襲がせ、みな河山の功を伝え不世の賞を垂れている、まして先臣は委任を蒙り幃帟で運籌した功績は今古に等しく、漢は韓信・彭越の賞を張良・陳平にすら及ぼし、魏は張遼・徐晃を酬いても荀彧・郭嘉を棄てなかった、今数族が先朝の世に追賞を受けているのに先臣だけが聖明の時に絶封に遭い、その流れを瞻て侶を顧みれば存亡ともに永く恨みが残る、正始中に存亡を録する詔が発せられ賢を襃め功に報いる旨があり、熙平元年(516年)故任城王澄の請うた十事で前澤が新たにされ一時の盛事となり曠代の茂典を垂れたことは、纓紱の者ならば誰も感慶せぬはずがなく奨勧を今に垂れ範を万古に垂れるものである、しかも劉氏の偽書(宋書)が上国に流布し訕謗ばかりで実がないが、それでも前後の使者は姓字も書かれず名爵もない中、張暢伝には先臣との対問がやや略述され、脱漏はあっても自ら誇りたい気持ちから記したにも関わらず、なお逸韻は隠しきれず載せられている、これは存生の時に益があっただけでなく没後も国の美を彰すもの、乞う、この書を覧て明らかにご覧いただければ、微微たる衰えた家門も一朝にして重ねて起こり、先臣の潜魂も千載に結草の報いを得られよう」と述べたが、結局爵を襲ぐことはできなかった。

孝伯の兄の李祥(字元善)は家業を学び伝え郷党に重んじられた。世祖が州郡に賢良の挙を詔した際、祥は貢に応じ対策が旨に合い中書博士を除せられた。当時南土がまだ服さず世祖が親征する折、尚書韓元興に衆を率いさせ青州から出させ祥を軍司として略地させ陳・汝・淮北に至ると、その地の民で軍に降った者七千余尸を兖豫の南に遷し淮陽郡を置いて撫めることとし、祥を太守に拝し綏遠将軍を加えると、流民で帰る者は万余家に及び農桑を勧課し百姓は安業した。世祖はこれを嘉し衣馬を賜い河間太守に遷ると威恩の誉れがあった。太安中(455年頃)中書侍郎に徴拝されたが民千余人が上書して留任を乞い、髙宗は許さず官に卒し定州刺史・平棘子・諡憲を追贈された。

子の李安世は幼くして聡悟、興安2年(453年)髙宗が侍郎・博士の子で秀俊の者を選んで中書学生としようとした際、安世は11歳でまだ幼いと見られたが引問すると祖父のことを次第よく説明し即座に学生とされた。髙宗が国学に幸するたびいつも安世だけが個別に引問され「お前はただこの道を守れ、大いに富貴を得られよう」と詔された。父の喪に居て孝をもって聞こえ、天安初年(466年頃)中散を拝し温敏敬慎をもって髙宗に親愛された。累遷して主客令となり、蕭賾(斉武帝)の使者劉纘が朝貢した際、安世は容貌美しく挙止に善く、纘らは「君子あってこそ国は成るというべきか」と語り合い、纘らは安世を「典客」と呼んだが、安世は「三代は礼を同じくせず五帝も楽を異にする、亡秦の官称を上国に用いるには足りない」と応じた。纘が「世が異なるごとにその号がいくつあったのか」と問うと、安世は「周は掌客と称し秦は典客と改め漢は鴻臚と名づけ今は主客という、諸君は文武の道を慕わず亡秦にばかり殷勤なのか」と答えた。纘はさらに方山を指し「この山は燕然からどれほど遠いか」と問うと、安世は「石頭から番禺までの距離と同じようなものだろう」と答えた。国家では江南の使者が来ると多く蔵内の珍物を出し都下の富室で容服を好む者に売らせ使者に自由に取引させていたが、使者が金玉店に至って値を問うと、纘は「北方の金玉はずいぶん安い、これは山川の産出によるものだろう」と言い、安世は「聖朝は金玉を貴ばぬゆえ瓦礫と同じ値になるだけだ、また皇上の徳は神明に通じ山も宝を惜しまぬゆえ、川に金がないことも山に玉がないこともない」と答えた。纘は当初大いに買い込もうとしていたが安世の言葉に慚じて止めた。主客給事中に遷った頃、民は困窮飢餓で流散し豪族が多く土地を占奪していたため、安世は上疏して「地を量り野を画するのは経国の大式、邑と地とを相参ずるのが治を致す本、井税の興りは久しく田萊の数を限をもって制したのは土を曠しくせず民の力を遊ばせぬためであり、雄擅の家が独り膏腴の美を占めることなく単陋の夫にも頃畝の分があるようにして貧微を恤み貪欲を抑え富約の不均を同じくし斉民を編戸に一にする趣旨であった。近年州郡の民が凶年により流移し田宅を棄売して異郷に漂う事が数世に及び、三長が立てられてようやく旧墟に戻ってみれば廬井は荒毀し桑楡も改植され、時が経ちすぎて詐り冒す者が増え、彊宗豪族はその侵凌をほしいままにし、遠くは魏晋の家系を認め近くは親旧の証を引いて土地を主張し、年月が経ちすぎ郷老も惑い群証が多くとも拠るべきものはなく、各々の親知に付き互いに長短があり両者の証拠が並立するので聴く者もなお疑い、争訟は遷延し連紀(十二年)を経ても判断できず、良田は委ねられて開かれず柔桑も枯れて採られず、僥倖の徒が繁多の獄を興し、これで家が豊かに歳を蓄え人が資用を給されようとしても得られるはずがない。愚考するに、今は井田制に戻すのは難しくとも、改めて土地を均しく量り測量の術を明らかにし、労力と生業に応じた基準を分与し、細民が生資の利を得て豪族も余地の盈ちすぎがないようにすれば、無私の澤は兆庶に播かれ阜のごとく山のごとく戸ごとに積むことができよう。また争われている田は年限を限って断ずべきで、久しく明らかにし難いものはすべて今の主に属させれば、虚妄の民は覬覦を絶ち分を守る士は永く凌奪を免れよう」と述べた。髙祖はこれを深く納れ、後の均田の制はここに起こったのである。出て安平将軍・相州刺史・仮節・趙郡公となり農桑を敦勧し淫祀を禁断し、西門豹・史起ら民に功のあった者の廟堂を修飾し、広平の宋飜・陽平の路恃慶を表薦しいずれも朝廷の善士とされた。当初、広平の李波の宗族は彊盛で生民を残掠し、前刺史薛道&KR0710;が親ら討伐に赴いたが波は宗族を率いて拒戦し&KR0710;の軍を大破し、以後逋逃の藪となって公私の患いとなり、百姓は「李波の小妹の名は雍容、裙を褰げて馬を逐うこと蓬を巻くがごとし、左に射れば右に射れば必ず双を畳ねる、婦女ですらこの通りなのだから男子にはどう立ち向かえようか」と語ったほどであった。安世は方略を設けて波及びその子姪三十余人を誘い出し鄴市で斬り、境内は粛然となった。病により免官され太和17年(493年)家で卒した。安世の妻の博陵崔氏は一子瑒を生んだが崔氏は妬悍によって離縁され、後に滄水公主を尚し二子謐・郁を生んだ。

瑒(字は琚羅)は史伝に渉猟し文才があり気尚は豪爽・公彊で当世に聞こえた。延昌末年(515年頃)司徒行参軍から司徒長兼主簿に遷り、太師髙陽王雍は瑒をその友正主簿にと表薦した。当時民の多くが戸を絶やして沙門となっていたことに対し、瑒は上言し「礼は世を教え法は将来を導くもので、跡と法とは異なり区流も別、ゆえに三千の罪の中でも不孝より大なるものはなく、不孝の大は絶祀に過ぎるものはない、それならば絶祀の罪は最も重いはずである、どうして礼に背く情を軽々しく縦にし法に向かう意を肆にできようか、そもそも仏道であってもそうあるべきではないし、たとえ許すとしても礼をもって裁つべきである、一身が親の老いを棄て家を捨て養いを絶やすのは人の理にあらず礼の情に乖き大倫を堙滅する、そのうえ当世の礼を欠いておきながら将来の益を求めるとは、孔子が『いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん』と言ったのはまさにこの備えを言うものである、どうして堂堂たる政を棄てて鬼教に従うことがあろうか、また今は南方がまだ静まらず衆役はなお煩わしく、百姓の情は役を避けようとする者が多い、もしこれをさらに許せば孝慈を捐棄する者が比屋に及ぶ恐れがある」と論じた。これに対し沙門都統の僧暹らは瑒の「鬼教」という言葉を怒り瑒が仏法を謗毀したとして霊太后に泣訴、太后がこれを責めると、瑒は自ら理を述べ「私はただ仏法を清明にし道俗を兼通させようとしただけで真学を排斥し妄りに訾毀するつもりはない、そもそも『鬼神』という名称は霊に通じ達するものと解され、百代の正典でも三皇五帝はみな『鬼』と号され、天地は神祇と言い人の死は鬼と言う、易にも『鬼神の情状を知る』とあり、周公も自ら『よく鬼神に事える』と言ったという、礼には『明なれば礼楽あり幽なれば鬼神あり』とある、明なる者を堂堂とし幽なる者を鬼教とするのはこの意である、仏は天でもなく地でもなく本は人に出て世に応じ俗を導くもの、その道は幽隠であるからこれを鬼と名づけたのであり謗ったわけではない、心に不善なきかぎり仏道を教えとする者はただ衆妙の門にまだ達していないだけだと考える」と弁じた。霊太后は瑒の言葉が正当と知りつつも僧暹らの意を無視できず、瑒に金一両のみを罰した。尚書郎に転じ伏波将軍を加えられ蕭寶夤の西征に統軍として随い假寧遠将軍を仮された。瑒は徳が郷閭に洽く雄勇を招募すると楽んで従う者は数百騎に及び、瑒は家財を傾けて賑恤し率いて西討したところ、寶夤は瑒の到着を見て肩を撫で「あなたが遠くから来てくれた、私の事はもう成ったも同然だ」と述べ、その部下はしばしば戦功があり軍中では「李公騎」と号された。寶夤はさらに瑒を左丞とし別将として軍機・戎政をともに参決させ、さらに中書侍郎に啓し朝に還って鎮遠将軍・岐州刺史を除せられたが辞して赴任せず免官された。建義初年(528年)河陰の変で遇害し享年45、まず鎮東将軍・尚書右僕射・殷州刺史を追贈され太昌中(532年頃)散騎常侍・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を重ねて追贈された。瑒は俶儻で大志があり酒を好み親知に篤く、弟の郁に「士大夫は学問が博く古今に稽えれば十分、それ以上何を専経して老博士のようになる必要があろうか」と語り、弟の謐とは特に友愛が深く、謐が郷里で亡くなると瑒は慟哭し気を失って久しく蘇らず数日食を絶ち、晩年には形骸が毀悴し人々に哀歎された。瑒には三子あり長子の義盛は武定中、司徒倉曹参軍。瑒の弟の謐(字永和)は逸士伝に見える。謐の弟の郁(字永穆)は好学沉静で経史に博く通じ、著作佐郎から広平王懐の友となり懐に深く礼遇された。当時学士の徐遵明が山東で生徒に教授し盛んであったところ、懐は遵明を館に徴し郁に五経の義例十余条を問わせたが、遵明の答えられたのは数条のみであった。国子博士に遷ると、国学建立以来諸博士は多く講説せず旦暮に教授するのは郁だけで、謙虚雅寛で儒者の風があった。廷尉少卿に遷り冠軍将軍を加えられ通直散騎常侍に転じ、建義中(528年頃)兄瑒の卒により孤姪を撫育し郷里に帰った。永熙初年(532年頃)散騎常侍・大将軍・左光禄大夫を除せられ都官尚書を兼ね程なく給事黄門侍郎を領し、永熙3年(534年)春、顕陽殿で礼を講じた際、詔により経を執って解説し、群難が鋒起しても談笑を廃せず、出帝及び諸王公で聴講した者はみな善しと嘆じた。程なく病で卒し、散騎常侍・都督定冀相滄殷五州軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・儀同三司・定州刺史を追贈された。子の士謙は儀同開府参軍事。