魏書卷三十八 列傳第二十六 刁雍

刁雍、字は淑和、渤海饒安の人(?–484年)。西晋の名族刁協の曾孫。劉裕による一族粛清を逃れ姚興のもとに奔り、のち北魏に帰順。青州・徐州刺史や薄骨律鎮将として水利開削・軍糧輸送の改革を献策し実現させ、辺境防備の築城でも成果を挙げた文武兼備の臣。

年表(13件)

刁雍

刁雍、字は淑和、渤海饒安の人。高祖の刁攸は晋の御史中丞、曽祖の刁協は司馬叡(東晋元帝)の江南渡渡に従い京口に居り尚書令に至った。父の刁暢は司馬徳宗(東晋安帝)の右衛将軍。暢の兄刁逵は劉裕を軽んじ校薄な行いを理由に社銭三万を負わせ返済を求めなかったため、劉裕は桓玄誅殺の際、嫌疑からまず刁氏を誅した。雍は暢の故吏に匿われ姚興の下に奔り、豫州牧姚紹に従い洛陽から長安に至った。雍は書伝に博く通じ、姚興は太子中庶子とした。泰常2年(417年)、姚泓の滅亡に伴い司馬休之らと共に魏に帰順し、南境での効忠を上表、太宗はこれを許し建義将軍に仮した。雍は河済の間で流民を招集し五千余人を得て徐兖に対峙、劉裕は将の李嵩らを派して討たせたが、雍はこれを蒙山で斬り、衆は二万に達し固山に進屯した。泰常7年(422年)3月、従弟の刁弥も京口に入って裕討伐を図ったが裕軍に破られ、6月には雍自身も青州で敗れ馬耳山・大郷山に退いた。

泰常8年(423年)、太宗の南巡・鄴行幸に際し引見され、劉裕との縛の因縁を問われ「臣の伯父(刁逵)です」と答えると、太宗は「劉裕父子はさぞ卿を憚っていよう」と笑い、青州攻略における叔孫建の後詰として雍を鎮東将軍・青州刺史・東光侯に任じ五万騎を分与し別に義軍を立てさせた。雍は東陽攻略で五千の義衆を集め郡県を招撫したが、劉義符配下の青州刺史竺夔が地道で退路を確保する策を取ったのに乗じ、雍は即時攻略を進言したが建は兵の損耗を恐れて聴かず、その後劉義符が檀道済らの援軍を派すと、雍は険路での迎撃を重ねて進言したが建はまたも聴かず全軍を撤退させた。雍は尹卯固に鎮し、その後項城を攻略、招集した謙梁彭沛の民五千余家を二十七営に編成し済陰に転鎮、延和2年(433年)外黄城に徐州を立て謙梁彭沛四郡九県を置き平南将軍・徐州刺史・東安侯となり7年在鎮した。太延4年(438年)京師に召還されたが辺民の請いにより再度出鎮、真君2年(441年)使持節・侍中・都督揚豫兖徐四州諸軍事・征南将軍・徐豫二州刺史となり、真君3年(442年)劉義隆の将裴方明の仇池侵攻に対し建興公古弼らと討平した。

真君5年(444年)、薄骨律鎮将となった雍は、赴任後、灌漑水利の乏しさを調査し、古い渠堰(艾山の南北の渠)が漢代以前のもので河水位の変化により機能しなくなっていることを詳細に上表し、新たな渠の開削(河西の高渠の北8里、分河下5里の地に幅15歩・深さ5尺の渠を開き北へ40里、旧渠に合流させて120里に及ぶ灌漑)を提案、四千人四十日の工程で官私の田4万余頃を潤せると具申した。世祖は日数にこだわらず完成を期すよう詔した。

真君7年(446年)、雍はさらに高平・安定・統万・薄骨律の四鎮から出す軍需輸送(車五千乗で沃野鎮に50万斛を運ぶ計画)の非効率(深い砂地での輸送困難、一年に一運二度で50万斛の輸送に三年を要する)を指摘し、代わりに牽屯山の河畔で船二百艘(一舫に十人、一舫二千斛積載)を造り水運によって一運20万斛を三月から九月の間に三往復で60万斛を運ぶ計画を上表、人力の節約・牛馬の温存・農事の維持を実現できると説いた。世祖はこれを喜び、統万鎮からも人員を出させ船を造らせるよう命じた。

真君9年(448年)、雍は辺境防備の必要から築城・貯穀・置兵を上表し「安不忘乱」の理を説き、官に煩わせず三時の隙を用いて二、三年で完成させると提案、詔許され、真君10年(449年)3月に城が完成、世祖は「刁公城」と命名して雍の功を旌した。

興光2年(454年)、雍は都に召還され特進・将軍のまま留まり、和平6年(465年)には礼楽興隆の必要を説く長大な上表を行った。帝堯の五礼・咸池の楽、周の衰亡による礼楽の崩壊と孔子の嘆き、秦の焚書坑儒による断絶、漢代の復興と後漢曹褒の定礼の故実などを引き、魏晋にも未だ礼楽が備わっていないとして、封禅の礼を含む礼楽の整備を献策したが、詔で公卿への議に付されたところ高宗(文成帝)の崩御により沙汰止みとなった。皇興年間(467年頃)、雍は隴西王源賀・中書監高允らと共に高齢を優遇され、几杖・剣履上殿・月次の珍羞を賜った。雍は寛柔な性格で文典を好み手から書を離さず、明敏多智で詩賦頌論等の雑文百余篇を著した。仏道を篤信し、子孫を訓導する『教誡』二十余篇を著した。太和8年(484年)冬、95歳で没し、命服一襲・賵帛五百疋を賜り、儀同三司・冀州刺史を追贈、諡は簡。

雍の長子・刁纂(字奉宗)は中書侍郎で早世。纂の弟・刁遵(字奉国)が爵を襲いだ。遵の弟の刁紹(字奉世)は武騎侍郎・汝陰王天賜の涼州征西府司馬、紹の弟の刁献(字奉章)は秘書郎、献の弟の刁融(字奉業)は汝陰太守、融の弟の刁肅(字奉誠)は中書博士。遵は若い頃拘りなかったが晩年は行いを修め、太和年間に例により侯に降格、景明年間(500年頃)相州魏郡太守を経て太尉諮議参軍となり70歳でも壮健であった。かつて篤疾で死にかけた際、神明に救われたという逸話があり「福の家の子」と評された。延昌3年(514年)司農少卿、龍驤将軍・洛州刺史となり、蕭衍の新化太守杜性・新化令杜龍振・平陽令杜台定らの三千戸帰順を招いた功があった。熙平元年(516年)7月、76歳で没し、平東将軍・兖州刺史、諡は恵侯を追贈された。子は13人あった。

長子の刁楷(字景伯)は州の秀才に挙げられ早世、その子の刁沖(字文朗)は『儒林伝』に伝がある。楷の弟の刁尚(字景勝)は本州治中で早世。尚の弟の刁整(字景智)は大度あり書史に通じ、郡功曹から奉朝請、高祖の洛陽遷都に伴い司空法曹参軍、南討では広陽王嘉の外兵参軍事、太尉咸陽王禧の外兵参軍を経て、景明年間給事中・本州中正、尚書左中兵郎中を歴任、正始年間(504年頃)蕭衍の江州刺史王茂先の南境侵攻に対し楊大眼の軍司として茂先を大破し輔国将軍王花らを斬った。永平初年(508年頃)員外散騎常侍、延昌3年(514年)秋、世宗親選で右軍将軍・郎中、驍騎将軍を歴任したが父の喪に遭った。相州刺史山陽王熙が鄴で挙兵し元乂らの誅殺を図って失敗した際、整の弟婦(熙の姉)が晒された熙の遺骸を収めて葬った縁で元乂の恨みを買い、熙の弟略の南走に絡めて整が反乱に加担したと誣告され弟の宜・子の恭らと共に幽閉されたが、御史王基・前軍将軍魏子建の調査で冤罪が晴れた。のち征虜将軍から范陽太守となり兵乱の中で郡を保ったが、離郡後に陥落した。霊太后の反正後、安南将軍・光禄大夫となり、元略が整の前で「刁公は我が家(の遺骸)を収めてくれた、諸君は知るべきだ」と涙したという。母の老いと河北の喪乱を理由に族弟の刁雙(西兖州刺史)を頼り、永安初年(528年)金紫光禄大夫、永安2年(529年)兼黄門、元顥の洛陽入城時には滄州刺史に用いられたが荘帝復位で免官、のち鄉里に帰った。荘帝が爾朱栄を殺すと鎮東将軍・行滄州事、普泰初年(531年)仮征東大将軍・滄冀瀛三州刺史・大都督、のち車騎将軍・石光禄大夫を加えられ、郷里の賊乱を避け母を奉じて斉州に寓居、衛大将軍を加えられ天平4年(537年)鄴で没し司空公・諡文献を追贈された。整は音律に通じ財を軽んじ施しを好み、名士と交わり声楽・酒を楽しんだが、貪欲・好色の面で議者に貶された。

雍は従弟の刁寳恵と共に入国し、寳恵(字道明)は太祖の上客となり没し六子があった。子の刁連城は冀州開府掾で、刁氏は代々栄禄を受けたが門風の乱れが世に卑しまれたという。

雍の族孫・刁雙(字子山)は高祖に刁藪(晋の斉郡太守で乱を避け青州の楽安に居住)、父に刁道覆(皇興初年〈467年頃〉平原太守)を持ち、雙の代に初めて本郷に還った。雙は学問を好み文史に通じ中山王英に知遇を得て西河太守となった。正光初年(520年)、中山王熙の誅殺の際、熙の弟略が雙を頼って身を隠し、一年後の切迫した追及の中、略は雙に「兄弟は皆滅ぼされ我一人残った、これ以上の連座を避けたい、もし境外まで送ってくれれば再生の恩、さもなくば自裁する」と告げ、雙は「人生には必ず一度の死がある、知己に応えて死んでこそ本望」と答えて南への逃亡を助け、従子の刁昌に江左まで送らせた。霊太后復政後、略はこれにより赦免され光禄大夫となり、略の姉(饒安公主、刁宣の妻)の嘆願で略の朝廷還任と引き換えに徐州で得た俘虜の江革・祖暅を交換、雙が国境で略を出迎えた。肅宗末年、西兖州刺史となり賊盗(張桃弓ら)の招撫と鎮圧を両用して州を治め、荘帝初年、済州刺史として功により曲城郷男に封ぜられ、出帝初年(532年頃)驃騎大将軍・左光禄大夫、興和3年(541年)に没し、車騎大将軍・儀同三司・斉州刺史、諡は清穆を追贈された。