魏書卷三十七 列傳第二十五 司馬楚之

司馬楚之、字は徳秀、晋の宣帝の弟太常司馬馗の八世孫(?–464年)。父・叔父・兄を劉裕による司馬一族粛清で失い江南から逃れ、のち北魏に帰順。南朝との攻防で武功を挙げ、雲中鎮大将・朔州刺史として辺境を二十余年鎮めた清廉な将であった。子孫も代々朔州を鎮めた。

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  • (和平5年)464年75歳で没し、征南大将軍・護西戎校尉・揚州刺史、諡貞王を追贈される

司馬楚之

司馬楚之、字は徳秀、晋の宣帝の弟太常司馬馗の八世孫。父の司馬栄期は司馬徳宗の梁益二州刺史であったが、その参軍楊承祖に殺された。楚之は17歳で父の柩を丹陽に送った際、劉裕による司馬一族粛清に遭い、叔父の宣期・兄の貞之を殺され、沙門に紛れて江を渡り、歴陽から義陽・竟陵の蛮中に逃れた。従祖の荊州刺史休之が裕に敗れると汝頴の間に逃亡した。楚之は英気に富み士人を厚遇したため、司馬順明・道恭らと共に長社に拠って劉裕への報復を図る勢力を集め万余人に及び、劉裕はこれを深く憚って刺客沐謙を放ったが、謙は楚之の厚遇に感じて逆に計画を告白し、楚之に仕えるようになった。太宗末年、山陽公奚斤の河南攻略に際し楚之は使者を送って降り、江淮以北の民が魏の徳化を慕っている旨を上表、仮の征南将軍・荊州刺史に任ぜられ、奚斤の河南平定後は楚之の統率下の民戸が汝南・南陽・南頓・新蔡の四郡に分置され豫州に編入された。

世祖初年、楚之は妻子を鄴に移し入朝、劉義隆の侵攻に備えて使持節・安南大将軍・琅邪王として潁川に屯し、長史臨邑子歩の上表により璽書で慰労された。宋の到彦之の西進・撤退の際には楚之が別軍を長社で破り、冠軍将軍安頡と共に滑台を攻略、劉義隆の将朱脩之・李元徳・東郡太守申謨らを捕虜とした。楚之は上表して自らの功に慢心せず、南方の民心が魏に傾いていること、劉義隆兄弟の内部粛清(到彦之の左遷、姚縦夫・竺霊秀の処刑、王休元の放逐、檀道済への疑心)を報告し、南征の好機を説いた。世祖は兵の疲労を理由に散騎常侍として召還したが、涼州征討にも従軍し功により隷戸百戸を賜った。劉義隆が裴方明・胡崇之を派して仇池を攻めた際は、楚之が皮豹子らと共に関中諸軍を督して散関から西進し方明を敗走させ崇之を捕らえ仇池を平定した。蠕蠕討伐では運糧を督したが、鎮北将軍封沓が蠕蠕に降り糧道遮断を献策した際、蠕蠕の間諜が驢馬の耳を切って偵察の跡を残したのを楚之が見抜き、柳を伐って城を築き水を灌いで氷結させ防備を固め、敵を退けた。世祖はこれを称え、侍中・鎮西大将軍・開府儀同三司・雲中鎮大将・朔州刺史に任じた。辺境に二十余年在任し清廉で知られ、和平5年(464年)75歳で没し、都督梁益秦寧四州諸軍事・征南大将軍・護西戎校尉・揚州刺史、諡は貞王を追贈され、金陵に陪葬された。

長子の司馬寳胤は楚之と共に入国し中書博士・鴈門太守で没した。楚之は後に諸王女を娶り河内公主との間に司馬金龍(字栄則)を得た。金龍は父の風格を継ぎ中書学生から中散、顕祖の東宮時代に太子侍講に抜擢され、後に爵を襲い侍中・鎮西大将軍・開府雲中鎮大将・朔州刺史、吏部尚書となり太和8年(484年)没し、大将軍・司空公・冀州刺史、諡は康王を追贈された。金龍は太尉隴西王源賀の娘との間に延宗・纂・悦を、後妻の沮渠氏(河南王沮渠牧犍の娘、世祖の妹武威公主所生)との間に徽亮をもうけ、徽亮は文明太后の寵愛を得て一時例降の公に叙されたが穆泰の謀反に連座して失爵した。延宗は父の死後数年で没した。

延宗の子の司馬裔(字承業)は世宗の時、悦らが嫡子の地位を裔のために理を通し祖爵を襲い、後軍将軍で没し征虜将軍・洛州刺史を追贈された。子の司馬蔵は爵を襲ぎ北斉受禅で例降。

金龍の子・司馬纂(字茂宗)は中書博士から司州治中別駕・河内邑中正を歴任、永平元年(508年)没し鎮遠将軍・南青州刺史、諡は肅を追贈された。子の司馬澄(字元鏡)は司州秀才から司空功曹参軍・給事中で没し龍驤将軍・夏州刺史を追贈、その弟の司馬仲粲は武定中、尚書左丞。

金龍の子・司馬悦(字慶宗)は司空司馬から立節将軍・建興太守、寧朔将軍・司州別駕、太子左衛率・河北太守、世宗初年に鎮遠将軍・豫州刺史となった。汝南上蔡の董毛奴殺害事件で郡県が張堤を疑い自白させたが、悦は死体の状況と遺留品の刀鞘から真犯人を郭氏の董及祖と見抜き冤罪を晴らした逸話が伝わる。鎮南将軍元英と共に義陽を攻略し、蕭衍の司州を郢州と改称した際、征虜将軍・郢州刺史となった。蕭衍配下の馬仙琕・陳伯之らが三関南に竹墩城を築き麻陽の柵に薊沛を置いて備えた際、悦は諸霊鳳に命じて撃破し城楼・儲積を焼き薊沛・劉霊秀を捕らえ、義陽の功により漁陽県開国子(食邑300戸)に封ぜられた。永元元年、城人白早生の叛乱で悦は斬首され蕭衍に送られ、邢巒の懸瓠攻略後、蕭衍側から首級と使者董紹を交換返還され、平東将軍・青州刺史、絹三百疋、諡は荘を贈られた。子の司馬朏が爵を襲い世宗の妹華陽公主を尚し駙馬都尉・員外散騎常侍・鎮遠将軍となったが、正光5年(524年)公主の薨去の月余り後に没し、左将軍・滄州刺史を追贈された。子の司馬鴻(字慶雲)は都水使者に至ったが西魏との内通の罪で賜死、その子の司馬孝政は爵を襲ぎ北斉受禅で例降。

金龍の子・司馬躍(字寳龍)は趙郡公主を尚し駙馬都尉、兄の後を継いで雲中鎮将・朔州刺史・安北将軍・河内公となった。河西苑の民への開放を上表し、有司の反対(麋鹿保護、大官の供給地)に対し、高祖は稼穡に適するなら封を廃すべしとして躍の意見を容れ、祠部尚書・大鴻臚卿・頴川王師を経て太和19年(495年)病により致仕し没し、金紫光禄大夫・朝服一具・衣一襲を追贈された。楚之父子は代々雲中・朔土を鎮め、その威徳に人々は服したという。